第9話
「ええっ? わざわざ返しに来た?」
私が事情を説明すると、バクリッコさんは目を丸くして驚いた。
「いやぁ、見た目にも真面目そうだなぁとは思っていたけど、ここまでとはねぇ。…仕方ない、案内するから、お会いになるだけお会いになってみるといいよ」
バクリッコさんは少々呆れているようだったが、私を連れて城内を歩き始めた。
行き着いた先は、二階に併設された図書館だった。
しかし。
「おかしいな。この時間は、必ずここにいらっしゃるはずなんだけど」
ひとりで図書館へ入っていったバクリッコさんは、首を傾げて廊下へと戻って来た。
そのまま窓から顔を出し、中庭を覗き込む。
「あの大きな木の下が王子様のお気に入りでさ。もしかしたらと思ったんだけど…いらっしゃらないな。うーん、どこに行かれたんだ?」
おひとりで出掛けるなんてありえねぇよなぁ、と頭を抱えている。
もしかして…いや、今まで何人もの兵士たちとすれ違ったんだ。城内の警備は万全のはず。
最悪の事態を想像してしまった私は、慌てて頭を振った。
バクリッコさんはというと、
「…もしかしたら、この前教えて差し上げたつまみ食いの方法を厨房で実践なさっているのかも!」
と、手を打ったりしている。
なんて暢気な…。
私は目頭を押さえた。
ふと廊下の奥に目を向けたバクリッコさんが、顔を輝かせて手を振りはじめた。
「おーい! クミンちゃーん!」
見ると、メイド姿の女性がこちらに向かって歩いて来るところだった。
年の頃はバクリッコさんと同じくらいで、亜麻色の長い髪をシニョンにしている。
軽く会釈すると、柔らかく微笑んでくれた。
「バクさん、そちらの方はお客様ですか?」
「そ、王子様のお客様。ほら、王子様が大地のローブをお渡しなさった旅人っていただろ? それ、この人」
…バクリッコさんの説明があまりに雑だったので、正直驚いた。
そして、その説明を一言ずつ解釈していたらしいメイドのクミンさんもおおらかな性格らしく、一拍おいてからようやくパッと顔を輝かせた。
「そうだったんですか! 旅の方、ようこそエスペーシア城へ!」
「あ、ありがとうございます…」
「それでさ、クミンちゃん。この人、王子様にお会いしたいそうなんだけど、どこにいらっしゃるか、知ってる?」
バクリッコさんの質問に、クミンさんはまた一拍おいてから答えた。
「王子様でしたら、先ほど元従者の方が遊びに来てくれたからとおっしゃって、城下町までお出掛けなされましたよ」
「え。マジで?」
「はい。わたしもお供しようとしたんですけど『良い人たちだから大丈夫』と止められてしまって。でも、王子様が大丈夫とおっしゃっていたので…」
「駄目ですよ! そんなこと、危険すぎます!」
ありえない! どうしてそうなる!
…我慢出来なくなって口を挟んでしまった。
目を丸くするバクリッコさんとクミンさんに、慌てて頭を下げる。
「すみません! 部外者が余計なことを…」
「いや…パンデローの言うとおり、かもしれない」
バクリッコさんが差し込む西陽に目を細めた。
何か心当たりがあるような表情だ。
そのまま黙って待っていると、
「…もうすぐ、夕食の時間だからな」
「…は?」
真面目な表情が嘘のように、にたっと笑っている。
そして、クミンさんまでもが大きく頷いていた。
「確かに…! 王子様がいらっしゃらないのは変ですね!」
「…えっと…王子様は、あの、そんなに…」
「ターメリック王子様は、この城内のだれよりも食いしん坊でいらっしゃる!」
「それが、食堂で座って待っていてくださるならまだしも、自分が手伝えば食事の時間が早くなるとおっしゃって、いそいそとお料理を運ぼうとなさるから大変なんですよ」
「は、はあ…」
「食いしん坊の王子様が、この時間城内にいらっしゃらないというのはどう考えてもおかしい…。よし、それじゃあ今から王子様を捜索だ。クミンちゃんは騎士団長に事情を説明してくれ。パンデローはオレと一緒に行くぞ!」
…こうして、私たちはターメリック王子様の捜索を始めたのだった。
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凪いだ夕空の向こうから、前髪を揺らすそよ風が時折吹き抜けていく。
エスペーシア城を出たときよりもさらに陽は傾き、石畳に照りつける太陽は目に刺さるほど眩しかった。
時間の関係か、昼間よりも人通りは少ない。
私は、エスペーシア城下町の地図を握りしめた。
「オレは平気だからさ、パンデローに貸してやるよ」
城門で二手に別れる前、バクリッコさんから手渡されたものである。
大通りに面した多種多様な露店から、小さな路地裏のさらに細い道まで、城下町のすべてを網羅した地図だ。
そして、折りたためば内ポケットに入れても目立たないほど薄くて軽い。
これさえあれば、私でもターメリック王子様を探して見知らぬ町を歩き回ることが出来る。
…ひたすら、路地裏という路地裏を覗き込んで回る。
時折、大通りを行く仕事帰りの人々の会話が聞こえてきた。
「今日はいい天気で良かったなあ」
「ああ、そうだな。…お、夕陽が綺麗だぞ。ありがたいな」
「まったくだ。明日も、良い天気になりそうで、良かった良かった」
…ああ、懐かしい…
母国パステール王国に、まだ南風派が大勢住んでいた頃。
至るところで、先ほどのような会話が交わされていた。
…ウェントゥルス教南風派は、神である風のみならず、自然現象のすべてを神がもたらしたものと考え崇拝する。
心の震えるような快晴はもちろん、季節はずれの大雨や台風に対しても、崇拝の気持ちは変わらない。
「…心の沈むような酷い天候でも、神様が与えてくださったものです。我々人間は、それを感謝して受け取らねばなりません」
教会の神父たちは、ウェントゥルス教の経典を手に信者たちに教えを説いて回っていた。
今はもう天に召された父も…
私が思い出に浸っていた、そのとき。
「あぁ、眩しい! 眩しくて何も見えやしない!」
前方から聞こえてきた怒声に、私は耳を疑った。
目を細めた先に、路地裏へ駆け込む人影が見えたので、目立たないように後を追う。
夕陽の明るさに悪態をつくなんて…まさか。
そんなことを口走る人々を、私は知っている。
いや…聞き間違いだ…そうだ、そうに違いない…!
そっと路地裏を覗き込むと、薄暗い中にぼんやりとした視界が広がる。
眉を寄せて目を凝らした先に、だんだんと金色のものが見えてきた。
見るからに手触りの良さそうな、絹のような髪を持つ少年は、隣を歩く背の高い男を見上げていた。
その首元には、ほんのりと暖かそうな薄橙色のスカーフ…
「ボッコ、太陽の眩しさに文句を言ってはいけないよ。あれは、神様が与えてくださった恵みの光なのだから」
少年は、あのとき私に「遠慮するな」と言ったように、背の高い男へ瑠璃色の瞳を光らせて忠告している。
あの王子様は、南風派の意義をよく理解していらっしゃるようだ。
私は、南風派の神父の息子として、ターメリック王子を誇りに思った。
しかし。
「何をおっしゃっているのです、王子様。そのようなことでは、自然に甘く見られてしまいますよ」
ボッコと呼ばれた背の高い男は、ターメリック王子を見下ろして口を歪めた。
…自然に甘く見られる…
ウェントゥルス教北風派の人間が合言葉のように唱えていた言葉…。
先ほどの太陽への悪態も、残念ながら聞き間違いなどではなく、北風派の意思表示だったようだ。
「待て!」
考えるよりも先に、身体が動いていた。
路地裏へ飛び込むと、振り向いた男が露骨に眉を寄せた。
それでも、気にしている余裕はなかった。
「北風派の人間が、南風派を国教とする国の王子様に、いったい何の用だ」
「…お前、この辺じゃ見ねぇ顔だな。よそ者は黙ってろよ」
ボッコは声を低くして威嚇しているようだが、私を睨みつける三白眼は動揺を隠しきれていなかった。
突然、得体の知れない人間が現れたのだから驚いて当然だ。
私は、ここぞとばかりに男を睨みつけた。
…どれくらい経った頃だろうか。
「…あっ! 思い出した!」
はしゃいだ声に視線を向けると、ターメリック王子様が瞳を輝かせていた。
「君は、あのときの旅人さんだね! 無事に城下町まで辿り着けたんだ! 良かったね!」
えっ…な、なんて暢気な…
王子は嬉しそうに微笑でいる。
私は開いた口が塞がらなかった。
しかし、そんな王子の微笑が一瞬で凍りついたと思ったそのとき、
「うっ…!」
私は後頭部の鈍い痛みとともに倒れ伏していた。
視界の隅に見えたのは、もうひとつの影…
薄れゆく意識の中、私はエスペーシア城のメイド、クミンさんの言葉を思い出していた。
「わたしもお供しようとしたんですけど『良い人たちだから大丈夫』と止められてしまって」
あのとき、クミンさんは『良い人たち』と、王子様の言葉をそのまま伝えてくれていたんだ…それなのに…油断、した…
そのまま、世界は闇に包まれた。