第8話
「想像してみてほしい。死ぬほどお腹をすかせていた君は、親切な人に小さな小さなパンを恵んでもらった。しかし、いざ食べようとすると、目の前に自分ほどではないが空腹らしい人間が現れた。さて…甥っ子、君ならどうする?」
「ええっと、うーん、そうですね…見て見ぬフリはしたくないので…パンを半分に割って分け合います」
「そのパンが君の眼鏡のレンズより小さくても?」
「うっ…は、はい…半分に、割りますっ…!」
「ははは、甥っ子、これはたとえ話だ。そこまで悩むことはないよ。まあ、君の答えは一般的なものと考えていいだろう。しかし、ターメリック王子の答えは、もちろん人とは違うんだ」
「…まさか」
「お、気がついたようだね。自分が恵んでもらったパンを、そっくりそのまま渡す。…これが、ターメリック王子の答えだ」
「……」
「あの王子様は、いつでもご自分のことは二の次でね。次期国王がこんなお人好しでは、いずれ悪い奴らに騙されて国を乗っ取られる、とまで予言した元従者もいたらしい。…まあ、彼らも親切な王子様を嫌っているわけじゃないからな。自分が辞めるとき、代わりに友人や知人を紹介していくんだが、だれも長続きしないんだ」
「…あの、叔父上。王子様の親切すぎる性格について、ご両親はどのようにお考えなのですか?」
「サフラン国王陛下も、ナツメグ王妃も、王子様の行き過ぎた親切心には寛大でいらっしゃる。従者も嫌気がさすのも頷けるな。王家の方々の心を理解できる者でなければ、ターメリック王子の従者は務まらない。それで、城内を多数の人間が出入りしているというわけだ」
「なるほど…」
「そういえば、王子様は君と歳が近いんだよ。確か、君より二つ歳下だったかな。今日の午前中、ナツメグ王妃とその話題で盛り上がってね。…なんでも、また王子様が人助けをなさったそうだ」
「素晴らしいですね」
「そう思うだろう? しかし、今回はちょっと違うんだ。…君は『大地のローブ』を知っているかい?」
「ええっと、叔父上のくださった本に書いてあったのを読んだような気がします」
『大地のローブ』とは、その昔、まだウェントゥルス教の創始者であるウェントゥルスが存命であった頃、世界一と謳われた防具職人が大地の精霊の力を借りて作り上げたという、この世にひとつしか存在しないローブだ。
実物を見たことのある人間が世界中探してもひとりふたりという少なさから、どのような代物なのかはあまり知られていない。
軽く伝説と思っていたが、まさか実在するのだろうか….
私は叔父の話に耳を傾けた。
「大地のローブは、ウェントゥルス亡き後、各地を転々としていたが、港町カイサーにある商家の屋根裏から発見されたらしい。なぜそんなところに潜り込んでいたのかは皆目見当もつかないが、どこかの国では民家から偉人の手紙が見つかったというから、同じような話は多いのかもしれないな。…それはさておき、商家の住人は大地のローブをエスペーシア王家へ献上しようと思い立った。そして、ナツメグ王妃とターメリック王子が港町へ向かったというわけだ」
「え? ちょっと、待ってください。王妃様と王子様が港町に? 先ほど叔父上は…」
「あ〜、そうなんだ。悪質な事件が続いた後だったからね、本当は二人とも外出禁止だったんだが、国王様が名案を思いつかれた。『空色の傘を差して異常がないことを周りにいる騎士団員たちに報せながらであればよい』というね」
…む?
「…甥っ子、君の言いたいことはよくわかるが、さっきも言ったとおり、城内は試行錯誤中なんだ。そんなに睨まないでくれ。…とにかく、ローブを受け取られた王妃様と王子様だったが、城下町へお戻りになる道中、王子様は大地のローブを旅人にあげてしまわれたそうだ」
「…え」
「人気のない道を、王妃様と王子様は空色の傘を差し、辺りに潜伏していた騎士団員に異常がないことを知らせながら歩いておられた。そこで東屋の下でうずくまる旅人を見つけられた王子様は、その者に持ち合わせていた食料と大地のローブを渡されたそうだ」
「……」
「その様子を遠巻きに眺めていらっしゃった王妃様によると、その旅人は眼鏡をかけていて『烏の濡れ羽色をした漆黒の髪に、月の光を浴びて仄かに輝く椿の葉のような碧色の瞳を持っていた』そうだ。王妃様らしい詩的な表現だな。…あれ…? 改めて思い出してみると、甥っ子の外見を見事に言い当てているような気がしないでもないが…」
まさか…いや、そんなはずは…!
自分の体験したことを信じたくなくて、私は必死にあの日の光景を思い出していた。
…ふと、あの美味しそうなスカーフが脳裏に浮かんだ。
「お、叔父上、ひとつ確認したいことがあります…。ターメリック王子様は、首元にオレンジシャーベットのような色のスカーフを巻いていらっしゃいますか?」
その質問に、叔父は目を丸くした。
「甥っ子、どうして君が王子様の大切にしていらっしゃる『雪明りのスカーフ』のことを知っているんだ?」
「!……」
思わず頭を抱えてしまった。
心配する叔父に「大丈夫です」と答えながら、震える手でカバンを開ける。
叔父は、研究書か何かで実物の絵を見たことがあったらしい。
取り出された鳶色の美しいローブを一目見るなり、顔が引きつった。
「こっ…これは…大地のローブ…! と、いうことは、やっぱり…!」
「どうやら、そのようです…」
深くうな垂れた私の目の前では、大地のローブが人の気も知らずに、美しい光沢を放って輝いている。
まさかあの少年が、王子様だったとは…!
脳裏にあの日のことが浮かんでは消えていく。
王子様の前で盛大にお腹が鳴って、施しを頂いたこと…。
世界中の歴史学者たちが捜し求めている、大地のローブを頂いてしまったこと…。
こめかみを変な汗が流れていくのがわかる。
しかし、
「そうかそうか! いやぁ、意外と身近なところに噂の的がいたものだ!」
叔父は声を上げて笑っていた。
「お、叔父上! 笑いごとではありません! わ、私はと、とんでもないことを…」
「あー、そういえば、王子様の前でお腹が鳴ったらしいじゃないか。ぷぷっ、確かにとんでもないこ」
「違います! …いや、それもとんでもないことではありますが、私が言っているのは大地のローブのことです! こんな貴重な品を、私が貰って良いわけがありません! 今すぐお返ししてきます!」
「え、返すって王子様に?」
「もちろんです! ターメリック王子様は、エスペーシア城にいらっしゃるのでしょう?」
「あ、ああ、この時間なら、図書室で歴史学の勉強を」
「行ってきます!」
私はカバンを掴み取ると、大地のローブを丁寧にしまってから、研究所を飛び出した。