第3話
西の空、雲間から光が射し込んでいる。
それを左手に眺めながら、私は人気のない農道を歩いていた。
雨が上がったとはいっても、道には水たまりがいくつも残っている。
泥はねでローブを汚さないよう気をつけて歩みを進めた。
…パステール王国が竜巻で壊滅したとき、何もかもなくなった城下町に、ひとりの少年が立っていたらしい。
ひとり旅を始めた頃、西の大陸はこの話題で持ちきりだった。
しかし、それがいつの頃からか、
…生き残ったその少年こそが竜巻を起こし、パステール王国を壊滅に追い込んだのだ。
という根も葉もない噂となり、人々に伝わっていった。
おそらく、地下に避難して無事だった人たちが、生き残った私に気がついてだれにともなく語ったためだろう。
…これ以上の迷惑はなかった。
旅で出会う人々は、私の出自を聞いた途端、それまでの好意が嘘のように私を避けた。
人と話さなくなってからも、いくつもの国を渡り歩いた。
…噂はどこまでも広がり、途絶えることはなかった。
大通りを行けば、まるで大昔の神話のように人波が左右に割れた。
船に乗れば、私を避ける人々によって船が傾いだ。
…ひとりでいることに慣れてしまったのは…どんな困難にもひとりで立ち向かうしかないという諦めが日常となったのは、いったいいつの頃からだろう。
人間はひとりでは生きていけない…そんな当たり前のことを、あの心優しい少年は教えてくれた。
彼には、感謝してもしきれないな。
あの少年の泣きそうな顔を思い出すと、自然と口角が緩む。
しばらく歩いた頃、農道の先にようやく民家が見えてきた。
今まで見てきた家よりもひとまわりほど大きく、庭も広々としている。
おそらく、この一帯の小麦畑を管理している家なのだろう。
ふと足元に目をやると、道の先に何か落ちている。
拾い上げてみると、それは小さながま口だった。
手のひらに収まるほどの大きさながら、ほどよく重たい。
もらってしまってよいものだろうか…。
あの日、人の消えたパステール王国の城下町で、手当たり次第に瓦礫を掘り返していた自分を思い出す。
しかし…今は違う。
もう、ひとりで生きていくことはやめたのだ。
人の気配がして顔を上げると、大きな家の玄関先で地面を見回している老婦人が見えた。
エプロンをつけているところを見ると、どうやら夕食の支度をしている最中、落し物に気がついて出てきたようだ。
勇気を出して、声をかけてみた。
「あの! …もしかして、これをお探しですか…?」
近づいてがま口を見せると、老婦人の表情が一気に華やいだ。
「そうそう! どこに行ったのかと思っていたのよ、よかったわぁ。…あなた、旅の方ね。ありがとう、見つけてくれて」
雪のように真っ白な髪をした老婦人は、満面の笑みを浮かべている。
すぐに立ち去ろうとしたのだが、老婦人に「お待ちなさい」と呼び止められた。
「旅の方、 今日はうちに泊まっていきなさいな。この先の道は日が暮れると真っ暗になってしまうし、城下町までもう人の住んでいる家はないのよ。お財布のお礼もしたいから…ね?」
「え、いや、そんな…」
「遠慮なんてしないでちょうだい! …実は、城下町で働いている孫が急に帰って来れなくなってしまって、作りすぎた夕食をどうしようかと途方に暮れていたところなの。ひとりでは到底食べきれない量だから…それに、ひとりきりで食べる夕食より寂しいものはないでしょう? …さあ、上がって上がって」
老婦人は目を細めて手招きしている。
開け放たれた扉の向こうからは、焼きたてのパンや食欲をそそるスパイスの香りが漂ってくる。
お喋り好きの母が歳を重ねたら、このご婦人のようになっていたかもしれないな…。
見果てぬ夢…そんな想像をしてしまう自分に呆れつつも、私は老婦人の後に続いた。
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老婦人の名前は、ローリエさんといった。
小麦を生産しながらエスペーシア王国の農作物管理を一手に引き受けて暮らしているという。
毎年秋になると、小麦を収穫するために大勢の農家が集結するのだが、ローリエさんの仕事は彼らを統率して効率よく小麦を収穫し、城から配給される労働資金を平等に分配することだった。
「こーんな田舎に住んでいるおばあさんが国民の食卓を支えていることは、城下町の人にもあまり知られていないの。まぁ、ほかの農作物を担当している人もいるから、わたしだけの仕事というわけではないけれど、こういう裏方の仕事って、なんだか格好いいでしょう?」
ローリエさんはテーブルで紅茶を淹れながら、楽しそうに語り続けていた。
私はというと、勧められるままにとても二人分とは思えない量のご馳走を完食し…息をするのも苦しい状態である。
「もうすぐ秋本番だから、エスペーシア城とのやり取りも頻繁になってきていてね。今日も伝書鳩が飛んできたからどうしたのかと思ったんだけど、お城で働いている孫からの手紙だったの」
「ローリエさんのお孫さんは、エスペーシア城で働いていらっしゃるのですか」
「ええ。我ながら自慢の孫でね、ちょうどあなたよりも二、三年上になるのかしら……って、あら嫌だ、わたしったら」
ローリエさんは何が可笑しいのかひとりでほほほと笑い出し、ひとしきり笑った後、
「そういえば、まだあなたの名前すら聞いていなかったわね!」
「……」
…それは、最高に恐れていた事態だった。
名乗った後、出て行ってくれと言われるかもしれないが、このまま黙っているわけにもいかない。
私は短く名前だけを名乗った。
その途端、ローリエさんがぱっと目を見開いた。
「パンデローって、まさかあの、パステール王国の…」
「私ではありません! 私は、竜巻なんて起こしていません!」
思っていた以上に大きな声が出てしまった。
低く「すみません」と詫びる。
俯いた顔を上げることが出来ない。
「……」
…永遠にも似た時間が過ぎた頃。
「…そりゃあそうでしょうよ。そんなこと、あなたの顔を見れば、すぐにわかるもの」
呆れたような口調に顔を上げると、ローリエさんはひとりで納得したように頷いていた。
「だってパンデローは、その竜巻のおかげで得をしたわけじゃないんでしょう?」
「…はい」
「パンデローには、竜巻で自分の国を壊滅させたって良いことなんてひとつもない。…それに、竜巻なんて人間に起こせるわけないもの」
「……」
「まったく、パンデローが今まで出会った人たちが変だったのよ。こんなこと、ちょっと考えればわかることなのに。…大丈夫、わたしはあなたを追い出したりなんてしないから。ここを自分の家だと思って、ゆっくりしていってちょうだいね」
ローリエさんは、私が名乗る前と同じように朗らかな笑みを浮かべていた。
「ありがとう、ございます…」
私は、テーブルに額がつくほど深々と頭を下げた。
感情の波が収まるまで…今にも零れ落ちそうな涙が引っ込むまで…しばらくそのまま耐えていた。