第2話
目頭に眼鏡が食い込んでいた。
どうやら、膝を抱えたまま眠っていたらしい。
視界はどんよりと薄暗い。
小麦畑の広がる中を、定規で引いたような雨が降りしきっていた。
傘は持っていないので、私は小麦畑の隅に建つ東屋で静かに雨が止むのを待っていた。
あの日、パステール王国を襲った竜巻によって、家族と自分の家を失った。
今思えば、怪我せずに元いた場所に立っていたことが不思議でならない。
さらには、家を出るとき肩に掛けていた鞄ですら、中身もそのまま手元に残っていたのだ。
これにはもう、首を捻るしかなかった。
無事だった鞄の中には、叔父からの手紙が入っていた。
居候していた叔父は諸事情で国を離れていたのだが、今から二年ほど前に届いた手紙には、叔父の住んでいる国の名前が書かれていた。
東の大陸にある、豊かな自然に囲まれた平和な国、エスペーシア王国。
そこで暮らす叔父に会うため、私はエスペーシア王国城下町の郊外を旅している。
…パステール王国の城下町だった荒地でひとりになってすぐ、私は持ち主のいなくなった食物や金銭を拾い集めた。
エスペーシア王国は、パステール王国から遠く離れた国で、海路を使っても半月はかかるし、旅費だって馬鹿にならない。
もちろん、地下に逃げ込んで命拾いした人たちの目もあったので、自分の行為に罪の意識がなかったといえば嘘になる。
…なぜ、私だけが生き残ってしまったのでしょうか。
大きな雨粒を眺めながら、自分の言葉を思い出す。
これからはひとりで生きていかなければならないけれど…
だからこそ、これからの人生、だれかのために命をかけることができるかもしれない…
そう…あの日の父さんのように。
助かった命を無駄にしないために、まずは親族である叔父に会いに行こう。
私は瓦礫の山でそう決意し、半月を費やして海を越え、東の大陸エスペーシア王国へとやって来た。
しかし…。
もうすぐ城下町というところで、ついに食料と旅費が底をついた。
随分と冷たい風が吹いている。
寒さと空腹で、もう眠れそうにない。
どうしたものか…。
抱えた膝に顔を埋める。
そうして、どれくらい経っただろう。
人気のない農道から、人の足音が聞こえてきた。
それも、かなり大勢のようだ。
この道をずっと歩き続けて来たが、私以外の人が利用しているのは初めてだ…。
顔を上げた先で、二本の傘が仲良く揺れていた。
快晴を祈るような、澄んだ空色の傘が二本。
小さな傘を持っているのは、小さな男の子…まるで恐れや悲しみを知らない無垢な笑顔で、ぬかるんだ大地を歩いている。
その隣では、少年の母親なのだろう婦人が細身の傘を手に優雅な笑みを浮かべていた。
二人は、港町から城下町へと向かっている。
不思議なことに、足音は響いているものの、道を歩いているのはたった二人だった。
仲良く道を行く二人を眺めていると、母との思い出が脳裏をよぎって、胸が苦しくなる。
それでも、私は目が離せなかった。
ずっと見守っていたい…そう思わせるほど幸せそうだったからである。
そのとき、ふと少年がこちらに視線を向けた。
あっ、と思ったものの、目を逸らす暇はなかった。
固まっていると、少年が隣を歩く婦人と何か言葉を交わしてから駆けてきた。
「旅の方、何か困りごと?」
少年の声は、声変わりしているだろうに、まるで川のせせらぎのように澄んでいた。
「もしかして…傘がないの?」
見た目は十五歳の私と同じ年頃か…少し年少のようだ。
首元で切り揃えられた髪の毛は、秋の小麦畑を思わせる黄金色をしている。
瑠璃色の大きな瞳は輝いていて、見つめていると吸い込まれてしまいそうだ。
そして、首に巻いている薄橙色のスカーフは、まるで母が夏に作ってくれたオレンジシャーベットを思い起こさせた。
…美味しそうだな。
何気なく頭をよぎった感想…それを「待っていました!」といわんばかりの大きな音でお腹が鳴った。
なっ!
思わず赤面して顔を伏せると、頭上でぽんと手を打つ音がした。
「なるほど、そういうことなら任せて!」
少年は自分の肩掛け鞄からゴソゴソと麻袋を取り出した。
「さあ、どうぞ」
食欲をそそる、香ばしい香り。
袋の中には、ほどよく焼き色のついたロールパンが三つ入っていた。
それも、手のひらほどの小さなものではない。
両手で持つのがやっとの大きなロールパンだ。
「…いただきます」
袋の中からひとつ取り出し、大口を開けてかぶりつく。
ふわふわとした食感が広がり、一気に口中から唾液が溢れ出してきた。
「……」
私は、みっともないのを承知でロールパンを頬張り続けた。
…視界がぼやけている。
人は美味しいものを食べても涙が出るらしい。
自分の靴先を見ながら食べるロールパンは、ほんの少し塩味が強かった。
「…あれ? ひとつだけでいいの?」
目を丸くする少年に、私はもぐもぐと口を動かしながら麻袋を押し返した。
厚意はありがたかったが、自分より年下の少年に恵んでもらうのは気が引ける。
何より…これ以上だれかに甘えたくはなかった。
少年はというと、受け取った麻袋を見つめてしばらく考え込んだ末に、
「これは全部、ぼくが君にあげたんだ。遠慮なんてしないで、受け取ってもらわないと困るよ」
「……」
そう言って麻袋を押し付けてくるので、納得できないが仕方なく受け取っておいた。
そのまま立ち去るかと思いきや、遠くで見守っている婦人と目配せすると、
「これもあげるね」
と、鞄から何やら取り出してみせた。
それは、上品な鳶色をした、美しい一枚のローブだった。
燻んだ色にも関わらず、僅かな光に反射して表面が銀色に輝いて見える。
「本当はこの傘をあげたいんだけど、これは目印だから、ぼくが持っていないといけないんだ。だから、君にはこれを。暖かくて着心地もいいはずだよ」
「……?」
その言葉の意味はよくわからなかったが、少年は気にしていないようで、手早くローブを広げると肩にかけてくれた。
「この雨だけど、西の空が晴れてきたから、もうすぐ止むと思うんだ。雨が止んだら、また旅を続けるといいよ。それからね…」
瑠璃色の瞳が、じっと私を見据える。
「この国の人たちは、君のような旅人を絶対に迷惑がったりしない。だから、困ったことがあったら遠慮なく頼ってほしいんだ。…大丈夫、君はひとりじゃないんだから」
…ああ、そうか。
いつの間にか、ひとりでいることに慣れてしまっていた。
すべてひとりでやらねばならないと思い込んでいたみた。
…そうか…私は、ひとりではないんだ。
「それじゃあ、ね。旅人さんに、神様のご加護がありますように」
自分の使命を果たして満足したらしい少年は、手を振りながら婦人のもとへと駆けて行った。
会釈すると、婦人は優雅な仕草で軽く膝を折ってくれた。
そして二人は、傘を揺らして立ち去っていった。
その後を、大勢の見えない足音がついていくのが聞こえる。
….城下町へ行けば、また会えるのだろうか。
私はふたりの背中を見つめながら、肩にかけられたローブの襟元を知らず知らずのうちに握りしめていた。