第10話
『人はひとりでは生きられない
それを知ってなお 人は
ひとりで抱え込み 泣いている』
思い出は、朝焼け色。
それは、遠い記憶。
悲しみの記憶。
「君の父親は、俺を庇って城へ連行された。そのときの彼の言葉を、俺は生涯忘れることはないだろう…『この世界に、家族より大切なものはない。私は、それを守りたい』…しかし、彼が守ろうとした家族は、彼がいなくなった途端に姿を変えてしまった。いや、消えてしまったと言ってもいい。…みんな、俺のせいだ」
私の記憶の中で、今よりも少しだけ若々しい叔父が唇を噛み締めて俯いていた。
朝焼けの照らす大通り、玄関先に立つ叔父の足元には、必要最低限の荷物だけがまとめてあった。
「姉さんに申し訳なくてな。だから、何も言わずに行く。これからは、甥っ子が姉さんを支えてやってくれ…頼む」
頭を下げる叔父に、私はかろうじて聞こえるだろう声で「はい」と返事をした。
叔父上は、決して逃げるわけではない。
どうしようもなくなったことは紛れもない事実だが、そこに至るまでの経緯は、叔父上ひとりの責ではないのだから。
頭では理解できている、はずだった。
しかし、握り締めた拳の震えは止まらない。
食いしばった歯から、嫌な音が鳴った。
石畳を行く叔父は、一度も振り返ることなく、まっすぐに伸びた大通りを黙々と歩き続けていた。
私は、叔父の背中がゴマ粒ほどになるまで、瞬きもせずに見つめていた。
『風は目に見えない 人の優しさと同じように
大地に人はなく 薄闇の空は凪いでいた
わたしはひとり これまでも これからも』
母の歌が途切れることなく続いている。
また、いつもの夢を見ているらしい。
叔父が旅立ってから数ヶ月後、ついにパステール王国はウェントゥルス教北風派の国になった。
季節は冬。
北風派の信者たちは揃って薄暗い空や日暮れの早さに悪態をついた。
その中で、私は母とともに、南風派の信者として冬の乾いた風に祈りを捧げていた。
母は、家族が減るごとに口数も少なくなっていった。
今までは、何をそんなに喋ることがあるのかと不思議に思うほどだったが、母が口を開かなければ家の中は灯が消えたようになると、やっと気がついた。
『わたしは ひとり これまでも これからも』
会話をしなくなった母は、いつにも増して歌を口ずさむことが多くなった。
台所に立ち、洗い物をしながら歌われるその歌詞に、私は針で何度も心臓を刺されるような痛みを感じていた。
『わたしは ひとり これまでも これからも』
母は、それほど歌詞に思い入れはなかったのかもしれない。
心優しい夫を亡くし、手のかかる可愛い弟も家を出て行ってしまった。
しかし、だからといって、ひとりになったわけではないだろうに…
『わたしは ひとり これまでも これからも』
もう、やめてくれ!
何度も喉まで出かかった言葉を飲み込んで耳を塞ぐ。
母からこの歌を奪うわけにはいかない。
最後に残った自分が、母のすべてを奪うわけにはいかない。
しかし、そう思えば思うほど、
『わたしは ひとり これまでも これからも』
その歌声が大きな釘のように心臓へ突き刺さる。
母さん…もう、そんな歌…歌わないで…
そう思うのと同時に、これは夢だと頭が叫んでいた。
そうか…過去ではなく夢ならば…!
私は大きく息を吸うと、あの日言えなかった言葉を声に出して叫んだ。
「母さん! 私がここにいるだろ! 母さんは、ひとりになんてなってないじゃないか!」
胸の痛みが消えるのと同時に、視界が淡い光に包まれ始める。
洗い物をする母がこちらを振り向いたように見えたが、それは都合のいい気のせいだったのかもしれない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
目を開けると、後頭部に鈍い痛みが走った。
うつ伏せに倒れていることに変わりはないが、どうやらどこかに運び込まれたらしい。
少し離れたところに、南京錠のかかった分厚そうな扉が見える。
ゆっくり身体を起こすと、顔の当たっていた板張りの床に丸いシミが見えた。
目尻を拭った手の甲が、室内の明かりを反射して、きらりと光っている。
「旅人さん! よかった、気がついたんだね!」
壁際からの声に痛む頭を回すと、ターメリック王子が安心した顔で私の眼鏡を差し出していた。
私が眼鏡を受け取ると、王子は安堵のため息をついた。
「生きててくれてよかったぁ。ボッコとザンギが、この計画を知られないようにって、君を一緒に連れてきてくれたんだよ」
あのとき殴られた頭に手を当ててみる。
たんこぶぐらいは残っているものと思っていたが、そんなものはどこにもなく、手にも血はつかなかった。
竜巻に襲われたときと、よく似ている…
あたりを見回すと、鉄格子のはまった小さな窓が見えた。
そこから、すみれ色の空が見える。
太陽は沈んだ後らしい。
部屋の中は殺風景だったが、ランタンのおかげで室内はほどよい明るさを保っていた。
目の前の分厚い扉といい、窓の鉄格子といい…あの二人組は、王子様をこんなところに閉じ込めて、いったい何をするつもりなのだろう。
私を殴りつけておいてトドメを刺さなかったのは、彼らの目的がエスペーシア王室にあるためだろう。
部外者の私がここへ連れて来られた理由は、先ほど王子が説明したとおりに違いない。
こんな平和な国を築き上げたエスペーシア王室に、いったい何の恨みが…
「あ! そういえば、まだ旅人さんの名前を聞いていなかった!」
突然の大声に思考を遮られる。
王子様、それどころではありませんと口に出すわけにもいかず、私は頭を下げた。
「大変失礼致しました。わたくしは、パンデローと申します。エスペーシア王国へは、叔父であるカステーラ博士を訪ねて参りました」
「へぇ! あの博士の甥っ子さんなんだ! 博士には、もう会えた?」
「はい。王子様や、親切な方々のおかげで、つい先ほど」
「そっかあ! よかったね!」
王子は、私の話を聞きながらも絶えずニコニコと微笑んでいた。
なぜ目の前の人物が自分のことを知っているのか、なぜ王室を狙った事件を知っているのか、なぜここに現れたのか、尋ねる気はないらしい。
これはもう、お人好しを通り越して能天気にもほどがある…!
王子には見えないようにうな垂れた私の内ポケットから、ぱさりと紙切れが落ちた。
バクリッコさんから貸してもらった、城下町の地図だ。
それを、ターメリック王子が興味津々といった様子で拾い上げた。
「…これって、エスペーシア城の使用人に支給される特別な地図じゃないか。どうしてパンデローが持ってるの?」
「そ、そのような大層な代物とは…知りませんでした…実は…」
私は城内の使用人から王子様を探してほしいと頼まれたことを説明した。
「そっか、なるほどね。みんな心配してるだろうなぁ。…あ、これはバクリッコの地図だね。ちゃんと名前も書いてある」
王子の指差した部分には、独特のくせ字ではあるが丁寧に記名してあった。
しかし不思議なことに、最初の文字は『コ』と書かれていて、その上に二重線が引かれて『バクリッコ』と書き直されていた。
「相変わらず、バクリッコは慌てん坊だなぁ。いちばん最後の文字から書いちゃうなんて」
王子はクスクスと笑っていたが、私には納得できない違和感が残った。
違う…これは、もしかして…
「…う〜ん、そうだなぁ…」
考え込んでいた私を気にすることなく、王子は地図を広げると路地裏の一軒を指さした。
「窓から見える空の色と方角から考えると、おそらくぼくたちがいるのは、この空き家だと思う。ここはもともと備蓄のための小屋だから、この時期はだれも近寄らない。何かを隠しておくには絶好の場所だよ」
「なるほど…」
「問題は、それをどうやってお城の人たちに知らせるか、だね…。…あ! いいこと思いついた! パンデロー、何か書くもの持ってる?」
王子の言葉に私は慌ててカバンを漁り、中から取り出した鉛筆を差し出した。
王子は「ありがとう」と受け取ると、地図に何やら書き込んで、そのまま地図を使って紙飛行機を折り上げた。
「できた! これで、だれかが気づいてくれるはず!」
そう言って、紙飛行機を窓の外へ向けて飛ばした。
鉄格子をすり抜けた紙飛行機は、そのまますみれ色の空を駆け抜け、やがて見えなくなった。
「バクリッコには申し訳ないけど、また新しい地図を渡してあげればいいよね」
そうして微笑んだ王子だったが、そういえばとすぐに顔を曇らせた。
「あの二人組、ボッコとザンギっていうんだけど、出身は北の海に浮かぶ島国、ノルテ王国なんだ。…確か、バクリッコも同じ国の出身だって言っていたよ」
「えっ…」
叔父が話してくれた二つの事件を思い出す。
もしかして、バクリッコさんは二人の仲間として、最初からすべての事件のことを知っていたのだろうか…。だとしたら、なぜ妨害しようとしたのだろう?
首を傾げていると、王子も同じことを考えていたらしく、
「…いや、違うよね。だってバクリッコはお父様とお母様の命の恩人なわけだし、二人と仲間なわけがない。うん、絶対にない!」
自分の出した仮説を全力で否定するように、王子はこれでもかと首を横に振っていた。
鉄格子のはまった窓から時折涼しい風が吹いてきて、ターメリック王子の金髪と私の黒髪を揺らしていく。
真夜中のように静まり返った部屋の中で「あの二人のことなんだけど」と、王子が口を開いた。
「このままいくと、ぼくたちのせいで二人の計画は失敗してしまうんだろうね。…どうしよう」
「……?」
王子が何を言いたいのか、私にはわからなかった。
それでも王子は私をじっと見つめると、
「ねぇ、パンデロー。ぼくがあの二人のためにできることって何かあるかな」
「…そ、それはどういう」
「例えばの話だけど…二人の計画にぼくの命が必要なら、使ってもらっても構わないかな…なんて」
口調は軽かったが、瑠璃色の瞳は冗談を言っているようには見えなかった。
それは、つまり…
「まさか…王子様は、あの二人のためならば死んでも構わないとお考えなのですか?」
「うん…それで彼らが救われるなら…」
…そんな馬鹿な話があってたまるか。
もう限界だ…!
「いい加減になさいっ!」
私の大声に、ターメリック王子は目を見開いて驚いていた。
おそらく、こんなに大きな声でだれかに怒られたことなど生まれてから一度もなかったのだろう。
そんな顔に見える。
…あとでどんな問題になろうと構うものか。
だれがが声を上げなければ、この王子様は一生このままかもしれないではないか。
「いいですか、あなたは一国の王子なのですよ。そんなあなたがこんな粗末な小屋に監禁されているんです。これだけでもう、あの二人は罪人です。あなたが心を寄せる必要などないのです」
「で、でも…あの二人にだって何か考えがあるかもしれないじゃないか。ぼくが思いつかないような、だれもが幸せになれるような…」
「ならば、それは二人から直接聞くことにいたしましょう。ですが、王子様…簡単に命を捨てるような発言はお控えください。…先ほども申しました通り、あなたは一国の王子です。…もっと、ご自分を大切になさってください」
「……」
「王子様のお優しいお心遣いは、わたくしも素晴らしいと思っております。おかげで、わたくしも無事に城下町まで辿り着くことができましたから。しかし、だからといって、だれかれ構わず手を差し伸べれば良いというわけではございません。…これからは、もっとよく考えてから人助けをなさってください」
「……」
ターメリック王子は、瞬きもせず私の話に耳を傾けていた。
そして、
「うん…わかった。これからは、もっと王子らしく振る舞うよ。…気兼ねなく話してくれてありがとう、パンデロー」
そう言って、にっこり微笑んだ。
「…出過ぎた真似を致しました、申し訳ございません」
「そんなことないよ! 嬉しかったんだから! 気にしないで! 頭上げて! …ぼくも、話したいことがあるんだ」
ターメリック王子は私と距離を詰めると、
「実はね…ぼくがいろんな人たちに親切にするのには理由があって…」
そう言って、あのスカーフに手をかけた。
なんだろう…? 何か、スカーフに秘密があるのか…?
気になってじっと見つめていた、そのとき。
正面の扉が豪快に開け放たれた。




