第1話
これは、出会いの物語…
このまま、死んでしまうのだろうか。
目の前に迫っていた鉛色の空が、瞬く間に小さくなっていく。
地面に向かって急降下する身体。
朦朧とする意識の中で、私は吹きすさぶ強風に目を閉じた。
…何が起きたのかわからないまま、一瞬のうちに身体が風に巻き上げられた。
隣を歩いていたはずの母の姿は、どこからか飛ばされてきたトタン屋根が邪魔になってよく見えなかった。
「……」
だれも救えなかった。
父も、叔父も、そして母ですらも。
強風に負けじと目を見開けば、溢れた涙で曇り空がぼやけて見える。
どうせ死ぬのなら、だれかのために死にたかった…
そんな想いを胸に抱いたまま、意識は遥か彼方へと遠ざかっていく…。
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荒地が果てしなく広がっている。
すべてが破壊された町の中心部で、私はひとり呆然と立ち尽くしていた。
…生きている…?
先ほどまで賑わっていた大通りの盛り場は跡形もなく消え失せ、残ったものは屋台の残骸と死のような静寂…
…いや、それはもはや『死』そのものであった。
うつ伏せた人々は身動きひとつせず、折り重なって倒れている。
少し前まで隣で笑っていた母ですら…
母さん、と呼びかけようとして、口の中に入っていた木の葉を吐き出した。
大通りの街路樹は見る影もなく、大半が根元から折れてしまっている。
大木の近くなら安心だと考えた人々が倒木の下で息絶えていている…そんな無残な光景に思わず目を逸らした。
母とふたりで家を出たとき、昨日までの暖かな気候が嘘のように、氷のような冷たい風が首筋を撫でていったことを思い出す。
「…神様は、愚かな人間にお怒りになっていらっしゃるのかしらね」
薄手のコートの襟を立てながら、母は目の下のクマを隠すように俯いていた。
それは、亡き父への言葉…。
私たちパステール王国の国民が国教として信仰している宗教、ウェントゥルス教…それは、風を神として祈りを捧げる宗教で、拝風教とも呼ばれている。
風が吹くと神の声を聞くことの出来たウェントゥルスという男を開祖とし、実に六百年の歴史を誇る。
吹く風に手を合わせる信者たちは、週に一度、教会で祈りを捧げる。
そこでウェントゥルス教の教えを守る神父から、ウェントゥルス教の歴史や数少ない戒律について学ぶこともあった。
また、生前のウェントゥルスが既婚者であったため、神父は所帯を持つことを許されていた。
今は亡き父は、ウェントゥルス教の神父だった。
「…そんなことはないよ。きっと、もうすぐ冬が来るから、今から少しずつ冬支度をしておいたほうがいいとおっしゃっているんだ」
遠慮がちに答えると、母は「そうね」と目を細めた。
無理をしている…。
どうして、あんなことをいってしまったのだろう…。
朝から続く耳の痛み…。
まるで登山をしたときのように、鼓膜がおかしくなって音が聞き取りにくかったが、そんなことを訴えれば、母は必ず心配するだろう。
今日の外出だって取りやめてしまうかもしれない。
たったひとりの息子として、引きこもりがちの母が珍しく外出したいというのを止めるわけにはいかなかった。
「……」
改めて、目の前に広がる荒れ果てた町を見渡す。
酷い眩暈に襲われ、目にするものすべてが揺れ動いていたが、それもようやく落ち着いてきた。
母と朝早く家を出て、教会へ向かって歩いていたときのことだ。
澄んだ秋の青空が広がり、太陽の光も目に痛いほど眩しかった。
しかし突然、だれかが暗幕を下ろした劇場のように、辺りは真っ暗になってしまった。
母とふたりで空を仰ぐと、曇天の空を一条の稲光が駆け抜けていった。
私は大雨の気配を感じ、この日の外出を諦めて母を連れて来た道を戻り始めた。
…その「ゴーッ」という音も、自分だけの耳鳴りだと思っていた。
朝から続く痛みのせいに違いない、放っておけば大丈夫と高を括ったとき、大空を舞う巨大な屋根板が見えた。
その板が大通りを行く人々を次々になぎ倒していくのを目撃して初めて、私はことの深刻さを理解した。
改めて轟音のするほうへ顔を向けると、すり鉢状の黒い物体がうねりながら近づいて来るのが見えた。
あれは…竜巻…!
怯える母の手を引き、頑丈そうな建物を探して走り続ける。
今から考えると…パステール王国は竜巻についての知識は皆無だといっても過言ではなかった。
ウェントゥルス教を国教とする国だけあって、自分たちは風の災害には見舞われないという根拠のない自信が対策を遅らせていたのだろう。
地下室へ逃げ込んだ人たちは、確認できるだけで僅か数人ほど。
大多数の人々が、物珍しさから屋内の窓越しに竜巻を眺めていたのを覚えている。
彼らはおそらく、強風で粉々になったガラスによって命を奪われた。
屋外にいた人々も、雨を凌ごうと大木の下に入って、そのまま倒木とともに一生を終えた。
母と無我夢中で大通りを走っていると、教会の神父たちの祈りを捧げる姿が見えた。
母の足が止まったのは、そのときだった。
「…この国の人間たちの醜い争いが、神の怒りに触れたのは間違いないみたいね。だからもう、大人しく罰を受けるべきではないかしら。…ねぇ、パンデローもそう思うでしょう?」
虚ろな瞳が、私を不安にさせた。
…その後のことは、あまり覚えていない。
巨大な石が後頭部に直撃したらしく、気がつくと私は大空高く舞い上げられていた。
このまま、死ぬのだろうか。
「……」
『あの頃はまだ 風が吹いていた
思い出に色はなく
だだ 木々のざわめきが
わたしの髪を揺らしていた』
在りし日の記憶。
そこから、母の歌声が聴こえる。
家事をする母は、いつもこの歌を口ずさんでいた。
ウェントゥルス教に伝わる、風とともに生きる詩人の作品。
その物悲しさのためか、あまり人気のある詩ではない。
けれども母はお気に入りらしく、時には父とともに歌うこともあった。
そうだ、あの頃はまだ父さんが…
そんな両親の歌を、私はよく本を読みながら聴いていた。
家にあった本は、当時居候していた叔父のおさがりで、ゆうに百冊以上が本棚を埋め尽くしていた。
ふと、その中の一冊に、竜巻で家ごと吹き飛ばされる女の子の物語があったことを思い出した。
女の子には仲間がいて、故郷に帰るという目的のために旅をしていた。
…しかし…私はどうなのだろう。
「……」
荒れ果てた大地を見渡した。
そこに立つ者は、私だけ…。
「神様、そこにいらっしゃるのであれば、教えて頂きたいことがあります」
抜けるような青空に向かって、声を張り上げる。
「なぜ、私だけが生き残ってしまったのでしょうか。たったひとり、こんな荒れ果てた大地に…。理由があるのなら、是非ともお聞かせ願いたい」
…答えはない。
死の町と化した城下町は、太陽が照りつけていても、深夜のように静まり返っていた。
先ほどまでの巨大な竜巻が嘘のように、風はそよとも吹いていなかった。