転生者は何を理由に「私」を知るのか?
これは私の思考を徒然なるままに綴ったものでありなんの結論ももたず、想像の渦を写したものであることを最初に断っておく。
本題に入ろう。
さて、最近異世界転移・転生というものが流行っている。(こう言及するにはだいぶ遅い気もするが。)転移はまだしも転生において気になるのは何をもって転生前の自己と転生後の自己の同一性を感じているのだろうか? というものである。
もちろん、この疑問は作品の本題に関わる問題ではないため楽しむ事に水を差すような批判ではないことはわかってほしい。
さて、私たちは普段何をもって自己を認識してるのであろうか。
まず、鏡を見た時に映った像を自分と認識することは難しくない。一卵性双生児でもない限り顔が同じなんてことはなく(もっともそうであっても差異は存在するが)他者との区別において有用なものである。身体は我々固有のものであるはずであるから自己の根拠は身体にあると言っても過言ではない。
しかし、この考えを転生に適用してみると確実に採用できないことがわかる。日本人が突然欧米風の顔になったとしたら同一性なんて言った話ではない。他人である。
次に容易に考えつくのは魂が同一であるから、と言ったものだ。あるいは言うなれば意識の連続によって自己同一性を保持しているというものである。なるほど、今回のパターンにおいては非がないようにみえる。だが問題があるといえばある。魂とはそもそもなんぞや、という事である。
こうして考えていくと次に思い浮かぶとしたら記憶であろうか。記憶が自己を作る。普段の私たちにもすんなりと受け入れられそうである。転生という概念にも記憶の保持というものが当然のように扱われている。(本来の転生という言葉には記憶の継承という意味は存在しないので気をつけられたし)
後者二つにおいては特段この論題においてケチをつける部分はおもいつかない。
他にも提唱される説として他者の認識と言ったものもあるがこれについては言及不要であろう。
うむ、このあたりで筆を置こうと思う。結局なんだかんだ言っても解は出ない問題であった。
今回取り扱った説は実際に現実においては一定の可能性を持つものである。いや、自己の根拠を一つに求めるというのが間違っているのかもしれない。いずれにせよ、どれが間違いでどれが正解などと言ったことはない。あくまでどれが一番思考に近いかというだけである。
最後にここまで付き合ってくれた方に感謝を。そして思考の深淵へと手を伸ばす一手となれば幸いである。




