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魔法少女はそのままで。   作者: 片倉真人
メルティキス編
96/183

第18話 魔法少女は縁で。(5)

 ◆5月8日 午前4時50分◆

「ふぁ~…」

 まだ眠気の覚めやらぬ眼を擦りながら、私はトボトボと歩みを進める。

 空気は暖かさが混じり、散歩をするにはちょうど良い気候になっているものの、日の明けきらない薄明に拍車をかけるように道は濃い靄がかかっており、視界は悪く、散歩に適しているかと言われればそうは呼べないことだろう。

 しかし私は、普段とは違った雰囲気の道のりを肌で感じ、それを堪能するようかのように普段よりも歩くスピードを落として目的地へと向かっている。

「少し早かったかな…。まあでも、まだ時間前だしゆっくり…」

 目的地へと向かう最後の角を曲がると、人影が視界に入った。

「ん…?」

 そこには見知った顔の人間が背筋を伸ばし、整然と立っていた。

 私は少しだけ歩幅を広め、その人物に近づきながら声を掛ける。

「お…おはよう」

 その声で相手もこちらに気付き、会釈を返す。

「…おはようございます」

 公園の前に立っていたのは、八代雹果だった。

 お互い慣れない様子で声を掛け合い、そして少しだけ戸惑ったように沈黙の時間が生まれた。

 よくよく考えてみれば、朝の挨拶など互いにしたことが無いということに今さら気が付き、それ以降の話の切り口が思いつかず、テンプレどおりの言葉を咄嗟に選ぶ。

「も…もしかして、待たせた?」

「いえ…。私も丁度着いたところです」

 だが、選択を間違えたらしく、なんとなく初々しいカップルみたいなやりとりになってしまった。

 しかし、それによって話の切り口が生まれたため、私はここぞとばかりに話を続ける。

「…嘘吐かなくてもいいから。公園の中を歩きまわるくらいの時間はあったでしょ?」

 私は靴を指差してそう言う。

 その靴はひどく汚れ、真新しい泥がこびりついていた。

 雨あがりでもないというのに、早朝に泥をつけるような行動となれば、舗装されていない木陰などに足を踏み入れることくらいだろう。

 もし、彼女がそれを行ったとしたなら、興味をそそられる何かがあったか、そうせざるをえなかった理由があったと考えるのが妥当だった。

 そして、その理由は彼女の状況からなんとなく察しがついていた。

「…んで、それが原因」

 私は彼女の隣で蠢く影を指差す。

「何でもお見通しなんですね…。先ほどまで公園の中でこの子たちの散歩をしていました」

 視線を下げると、雹果の足元には3匹ほどの小動物がたむろっていた。

 スラッとした真っ黒い毛並みのシェパードと真っ白でふかふか毛並みのサモエド、そして銀色の毛並みをした知らない犬種のスラッとした犬がそこに居た。

「…なんか仲悪そうだけど?」

 そして、黒と銀は仲が悪いのか、互いを警戒するように距離を置き、その間に白いふさふさがあくびをしながら鎮座していた。

「気にしないでください。それより、あの約束…」

 雹果は無表情ながらも、そわそわした様子で周囲に気を散らしている。

「わかってる。慌てなくても逃げないから。とりあえず、ここで変身して」

「へん…しん…?」

 私の一言を聞くと、カバンからスマホを取り出し、画面を凝視しながら硬直した。

「特に通知はきていないみたいですが…」

 雹果は首を傾げる。

「…惜しいな。そっちの“へんしん”じゃない」

 私の伝え方が悪いのか雹果が独特の思考回路を持っているのかは判らないが、どうやら私と雹果は身振り手振りでは意思疎通できるものの、言葉にすると意味が通じなくなるようだった。

「…そっちですか。それなら、これでどうですか?」

 私がツッコミを入れた次の瞬間、雹果の姿は一瞬にしてメルティー・ミラの姿に変化していた。

「――って早!?」

 この前は変身シーンすら見ることが出来なかったので、今度こそ瞬きせずに確認しようと思っていたのが、やはりこちらもノーモーションで変身できるタイプのようだった。

「やっぱり納得はいかないけど、まあいいや…。こっちも準備するからちょっと待ってて」

 私は雹果から数メートルほど距離をとったあと、ポケットからコンパクトを取り出す。

 そして、それを胸元に当てながら大きく息を吸う。

「じー…」

 ふと気がつくと、雹果はしゃがみこみ、犬たちとともにこちらに熱視線を送っていた。

「ちょ…み、見なくていいから!は…恥ずいから、あっち向いててくれ…!」

 変身シーンを見るのは好きだが、マジマジと見られるのは恥ずかしいということを私は学んだ。


 …


「やっぱり…」

 無事に変身を終え、私は公園の入り口に立ち戻る。

「それで、次は何をすれば?」

「えっと…。雹…じゃなくて、メルティー・ミラ。もしかして、コレ見えてない?」

 少しだけ間が空いたが、雹果はすぐに自分のことだと思い出したらしく、会話を続けた。

「…何を、ですか?」

 私は公園のほうを指差すも、案の定、何を言っているんだコイツと言いたげな視線を向けられた。

「…まあ、百聞は一見に如かず、か」

 私は雹果の手を取り、ひっぱるようにして公園の中に足を踏み入れる。

 続けるように雹果が一歩足を踏み入れると、次の瞬間には、今まで見たことの無い表情を浮かべた。

「…!?」

 私たちが公園に一歩足を踏み入れると、突然目の前の景色が変わった。

 真っ先に視界に飛び込んできたのは、まだ記憶に新しい、あの巨大な樹だった。

「こ…れは…。驚きました…」

 

 ――へえ…。こんな顔もできるのか…。


 言葉と表情がまったく一致していないことはさておいて、言葉通りに雹果は驚いているようで、この空間に入ると同時に私から手を離し、周辺を散策するように走り回っていた。

「あんまり離れるなよー」

 雹果の様子を見た限り、雹果だけでは視認も出来ず、この空間に足を踏み入れることは出来ないのだろう。

 そして、どういった条件なのかはハッキリしていないものの、私が雹果と共鳴し、魔法少女の力を発現させた状態であればこの空間への侵入は許されるようだった。

「二度と来るつもりは無かったんだけど…。なんか、ちょっと来ない間に雰囲気変わったな、ここ」

 以前は元々の公園にどデカイ樹が生えているだけだった。

 だが、周囲を見回してみると見慣れない植物がちらほら生えているわ、空気中に光の粒子が浮いているわで、ファンタジー世界丸出しの雰囲気に様変わりしていた。

「少し…興奮してきました…。ここに念願の…」

 鼻息を荒くしているものの、相変わらず興奮しているという表情はしていない。

「えっと…先に言っておくけど、たぶん想像しているようなものとは違うと思うから、変な期待はしないほうがいいと思うぞ?」

 過度な期待を持たせてしまうと心を病みかねないため、私は補足を加える。

 雹果のように、純粋で子供のような心を持つ子は現実とのギャップに打ちのめされる可能性があるため、特に心の準備が必要だろう。

「…どんな姿をしていようと構いません。私はフェアリータイプ…ではなくて、妖精さんと友達になるためにここに来たんです」

 雹果は瞳を輝かせながら、笑顔でそう答えた。





 ◆5月3日 午前1時45分◆

 月明かりの差し込む静かな闇の中、宇城悠人は眠れる姫が目を覚まさぬよう細心の注意を払うように、とても優しい手つきでそっとソファーに座らせる。

 雹果もまた、背中におんぶしていた妹をその隣にゆっくりと下ろす。

 しかし、それによって二人が目を覚ますこともなく、未だ静かな寝息を立てながら仲良く眠りについていた。

「しっかし…こうして黙って寝てれば、二人とも普通に可愛いのになー…」

 雨がそう呟いたのを耳にして、私は天草雪白の顔を改めて観察する。

 そして、ここ数日で起きた様々なことを思い返していると、口から思わず本音が漏れ出た。

「確かに…」

 私と雨は互いに横目で見合わせた後、ほぼ同時に大きな溜息をついた。

「でも、なんだか安らかというか…安心しているようにも見えますの」

「案外、王子様に運ばれてきたから…とかだったりして?」

 雨は宇城悠人を茶化したあと、ニタニタと笑う。

「…そういう冗談はやめてくれ。私は王子なんて柄じゃない」

 私が彼女に(いだ)いていた印象は、いつも張り詰めたように緊張した表情を浮かべながら気丈に立ち振る舞っており、いつも辛そうだというイメージだった。

 まだ出会って日も浅いものの、天草雪白がこれほど穏やかな表情をしているのを今の今までの見たことが無かったし、こんな寝顔になることさえ意外だった。

「たぶん…ひとりで抱え込んでいたものが全部無くなって、安心したんだろうな…」

 これまでの天草雪白の行動は、他人から見れば狂気に囚われたように思えただろう。

 だが、彼女は誰かに課せられた正義を曲げることはあっても、自分自身を見失ったことは無かった。

 彼女はただ、好きな人との時間を守るために行動していただけであり、それに関してはだけは一貫していた。

 天草雪白がどれだけの葛藤を重ねてきたのかは知る由もないが、他者を遠ざけ、欺き、正義を曲げ、誰かのために信念を貫き通すという行為は、並大抵の覚悟では出来ないことだと私は理解している。

 だからこそ、彼女が最後に下した決断を、私は人知れず評価していた。

「…さて、と。私にはやらなければいけないことがある。すまないが君たち、少しだけ待っていてくれないか」

 宇城悠人は慣れた足取りで会長席に座ると、机から白紙を取り出し、何やらペンを滑らせ始めた。

「まさか、遺書を書こうなんて考えて…」

 私は思ったことをそのまま呟く。

「遺書、か…。まあ、そう言えなくもないが…」

 宇城悠人が呟くとほぼ同時に雹果は動き、音も立てずに宇城悠人へと詰め寄った。

「さっきの約束。忘れてる」

 その顔は完全なる無表情であり、得も言われぬ恐怖を抱くほどの威圧感があった。

「約束…?なんのことだ?」

 机越しとはいえ、眼前にまで詰め寄った雹果をまったく気にも留めず、尚もペンを走らせながら器用に会話をしている。

「私が勝ったら、あなたが私の()()になるという約束をしました。約束を反故(ほご)にする気です?」

「…あれは話の流れで出ただけだろう?そもそも君は私に勝っていないではないか?」

「いえ」

 雹果は踵を返すように振り返り、ツカツカと足音を立てながら私との距離を詰めたかと思うと、突然私の腕にしがみついた。

 私はその行動に驚いて身を引くも、腕はガッチリと固定されて離れることを許さなかった。

「私は途中でこの人に寝返ったので、あなたに勝ったのは()()()です」

「まったく…屁理屈を…」

 吸血鬼との縁を断たれた直後、私は彼女に()()()()と引き換えに協力するよう促し、彼女はそれを承諾した。

 思い返せばそれ以降、彼女がトウガと示し合わせるような行動は取っていない。

 つまり、彼女としてはあの時点から私の味方のつもりだったというのは本当のことなのだろう。

「…それより、君のほうこそ覚悟は出来ているのだろうな?私が君に任せたことの意味を理解していないわけではあるまい」

 自分に都合が悪くなったと悟ってか、宇城悠人は流れるように話をすり替えた。

 だが、雹果はそのことに気付いた様子はなく、話を続ける。

「それは…こちらの台詞です…。過去も未来も捨てることが、本当に姉さまのためになるのですか?」

 雹果は小さな声で口籠もりながら呟く。

「…ああ。私という存在が彼女を惑わせるというのであれば、私はその責を負うしかあるまい。だから――」

 私はその会話の意味がいまいち理解できず、首を捻る。


 ――過去も未来も捨てる?責を負う?

 縁を断つというのは、他人から見えなくなったり、その存在を希薄にするものではないのか…?


「その…。一つだけお伺いしたいのですが…」

 私が必死に理解しようとしている中、その二人の会話に割って入ったのは芽衣だった。

「もしかして、お二人の縁を断つというのは、互いの記憶から相手の記憶を消してしまう、ということですの…?」

 芽衣がどうしてそんなことを言ったのかも気になったが、それよりも“記憶を消す”という言葉の真意が気になり、そちらについて考察を始めた。

 宇城悠人の例から言えば、その姿は誰からも認識されなかったものの、生徒たちに記憶は残っていた。

 しかし、天草雪白はそんな状況でも宇城悠人を認識出来た。

 そのこと自体に不可解なことは無かった。

 だが、私は“その状況に陥った”という事実が抜け落ちていたことに、そこではじめて気が付いた。

「そう、か…。宇城さんは天草先輩との縁を過去に断っている…。だけど、天草先輩にだけは再びその存在を認識されることになった。つまり、縁を断ったとしても何かの弾みで再び繋がる可能性がある。もし、天草先輩との縁を完全に断つのであれば、それは…」

 二年前、宇城悠人は恐らく、その当時で自分と関係のあった全て人間との縁を断ったのだろう。

 それ故に、関係者とそうでない人との間で認識の齟齬が発生し、宇城悠人という実在していたのかどうかも疑わしい虚ろな存在は、死んだということで片がついた。

 だが、そんな状況にも関わらず、天草雪白は宇城悠人という存在を再度認識した。

 それはつまり、たとえ縁を再び断ったとしても何かしらの接点が残っている限り、この状況が再び起こりうる可能性があることを肯定している。

 それならば、宇城悠人を認識出来たとしても()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()こそが、考えうる限り一番単純で確実な方法だ。

「察しのとおりだ。縁を完全に断ち、人々の記憶から私の存在を消すくらいせねば、彼女との繋がりは消えないのだろう。無論そうなれば、互いの姿を認識することもなくなるだろうし、触れることさえ叶わない。すれ違い、彼女の力で私を察知するようなことがあったとしても、これまでのことを思い出すことさえ無くなる」

 宇城悠人の言葉をそのまま鵜呑みにするのであれば、そこにあるのに見えもしないし、触れられもしない、互いが空気のような存在になるということになる。

 "袖振り合うも多生の縁”と言うが、袖振り合うことさえも叶わず、生きている間に再び会うことも、過去の思い出を語り合うことも、それどころか相手の顔を思い出すことさえ許してはくれない。

 それこそ“多生の縁”という言葉通り、転生でもしない限り二人が再び出会うことはない、ということになる。

「そ…それじゃあ、お二人が一緒に過ごされていた今までの時間はどうなりますの…!?記憶からも消えてしまうなんて、それは…それは…あまりにも…!」

 芽衣は眠りにつく天草雪白の前で崩れ落ち、溢れる涙でその頬を濡らしていた。

 私はしゃがみこみ、その頬をひと撫でする。

「春希…さん…」

 他人のことを自分のことのように考えてしまう彼女だからこそ、それが辛く悲しい事だと強く共感しまうのかもしれない。

 そんな芽衣の心持ちなど関係ないと言うように、宇城悠人は動じた素振りさえも見せず、ただただペンを走らせている。

「…これは私の罪であり報いなのだと私は自覚している。既に肉体は滅びているというのに、生という刹那の幻想に囚われ、あまつさえその手前勝手な行動によって人の感情を捻じ曲げてしまった。(あやかし)だったときの私ならいざしらず、神となった私が人を化かし続けてきたのだ。それを罪と言わずなんと言う?」

「それは…」

「この話は終わりだ」

 宇城悠人はペンをそっと置くとおもむろに立ち上り、紙を三つ折にしてたたむ。

 そして、それを雹果に差し出した。

「雪白が目を覚ましたらこれを渡してくれ。恐らく戸惑うだろうとは思うが」

「これ、は…?」

「…私からのラブレターだ。最初で最後の、な」

「…」

 雹果は長い沈黙のあと、その手紙を受け取る。

「…わかりました。ですが、私は概念との縁を断つようなことは初めてです。上手くいくかどうか判りません」

「案ずる必要は無い、妹くん。君の力なら私が一番良く知っている。そうだろう?」

 宇城悠人は雹果の頭を撫でる。

 だが、雹果はすぐさまその手を払い除けた。

「私は“妹くん”じゃない…」

 ――ん?今のは…?

「…ははは。なるほどなるほど、これが反抗期というやつか」

「違い…ます」

「おっと、そうだった。これを君に返しそびれていた」

 宇城悠人は制服の内ポケットから何かを取り出し、それを見せる。

「今思えば、これがあったから私と雪白は再び認識出来たのかもしれないな…」

 それを聞いた途端、雹果の声が上擦ったように震えた。

「やっぱり…あなたは最低の愚神です…」

 どうして宇城悠人がそれを持っているのか不思議に思い、慌てて自分のポケットをまさぐると、そこにはまったく同じものが存在していた。


 ――なるほど…。雹果は二人に別々のお守りを渡していたのか。


 縁を断たれた二人が再会出来たのも、雹果の強力な縁を繋ぐ力があったからと考えれば納得できる。

 だが、私はあることが引っかかった。

「ん…?ということは、もしかして…」

 私は、雹果がお守りを今まで手放していなかったのは、天草雪白との縁を繋いでおきたかったからだと考えていた。

 だが、そこには別の理由も含まれていたと考えた場合、別の可能性も生じてくる。

「雹果」

 私は雹果の手を強引に引き寄せると、持っていたお守りをその手に握らせた。

「さっき私が言ったこと、覚えてる?まだ、自分の気持ちを言葉にしていないんじゃない?」

「そ…れは…」

 私の問い掛けに、雹果は押し黙る。

 その反応で雹果が迷う理由を確信した私は、その手を強く握り、大きく頷く。

「大丈夫」

 すると、雹果は何かを決意したように小さく頷き、宇城悠人に向き直る。

「…私は、神と巫女という関係でもなく、恋人の妹という関係も望んでない…。子供の頃から一緒に遊んだ幼馴染として、あなたと友達になりたかった」

 雹果は宇城悠人に一気に詰め寄ったかと思うと、その両手で思いっきりその体を弾き飛ばした。

「ぐぅっ…!?な…なにを…?」

「私だけがあなたの存在を知っていたのに、姉さまが巫女に選ばれてからは、あなたと姉さまは互いを認識し、一緒に居る時間が多くなった…。だから私は、姉さまにあなたが取られたと思った…」

 机に押し倒された形になったその体に、雹果は上乗りになった。

 そして、宇城悠人に掛けられていた眼鏡を取り上げ、近くに放り投げた。

「二年前のあの時…私は高熱で倒れたフリをした。そうすれば、あなたと一緒の時間がもっと続くと思っていたから。でも、あなたは姉さまに封印されたフリをして私の前から姿を消した…。それどころか、二年間も姉さまと一緒だったなんて…本当に信じられないです…!!」

 そう言いながら、雹果は宇城悠人の頬を両サイドから抓り上げた。

「いだだだだだ…」

「それでも…。これが私の本当の気持ちです」

 雹果は抓りあげていた手を離したかと思うと、今度は撫でるような優しい手つきで宇城悠人の頬に触れ、その唇を宇城悠人に重ねた。

 その瞬間、短いような長いような無の静寂が訪れた。

 そしてその後、二人の唇が離れるまで、それは続いた。


 …


 唇が離れると、雹果は宇城悠人から目を逸らし、空を見ながら呟く。

「ずっとこうしたかった…。でも、あなたが消えてしまうかもしれないとか、姉さまが悲しむかもしれないとか、拒絶されるんじゃないかとか、私だって色々考えてたんです…」

 雹果は、か細い声ながらも感情の篭った声でそう呟いた。

 月明かりでよくは確認出来ないが、いつになく真剣でありながらも恥じらっているような、複雑な心境を表した表情をしているように見えた。

「は…ははは…。少し見ない間に成長していた、というわけか…。やはり、人の時間の流れというのは早いものだ…」

 宇城悠人は眼前数センチまで迫った頬にそっと触れる。

 そして、月明かりに反射する水跡を辿るように、親指の先でなぞった。

「君たち姉妹には辛い選択ばかり強いてしまったようだな…。本当に済まない…」

 宇城悠人は上体をゆっくり起こすと、体勢を崩す雹果の背中と前髪を同時に押さえた。

 すると、そのまま額にキスをした。

「あひゃぁ!?」

 雹果が聞きなれない奇声を上げた直後、その顔面はみるみるうちに紅潮し、薄闇でも判るほどに赤みを帯びていった。

「雹果…。私は君の想いに応えることが出来ない」

 その言葉を聞いた途端、雹果は何かを堪えるように唇を噛みながら俯き、再び沈黙する。

 それを見計らってか、宇城悠人は小さな体を抱き抱えるようにして、床にゆっくり立たせる。

「…それは君に限ったことじゃない。雪白も同じなんだ。だが――」

 宇城悠人は俯く雹果に見えるよう、その右手を差し出す。

「――時間は掛かったし、短い時間でもあるが、こんな愚神と友達になってはくれないか?」

 雹果は戸惑ったように震える手を伸ばし、なにも言わずにその手を握り返した。

「…ありがとう」


 …


「では、これが最初で最後の友達の頼みだ。我侭だということは承知しているが、これは君にしか頼めない」

 宇城悠人は床に落ちていた眼鏡を拾い上げ、それをかけ直す。

 そして、窓から覗く満月を見上げながら呟いた。

「改めてお願いする、雹果。宇城悠人という存在と現世との(えにし)を断ってくれ」


 ――本当にそんな方法しか残されていないのだろうか…?


 宇城悠人が現世から縁を断たれれば、天草雪白や八代雹果を含めた周囲の知人、そして当人ですらその記憶から掻き消え、宇城悠人が存在していたことすら無かったことになってしまうのだろう。

 それは、死よりも残酷なことなのではないだろうか。

 私でさえ、大切な誰かが私のことを忘れてしまったと考えるだけで悲しい気持ちになるし、私が大切な誰かのことを忘れてしまうというだけで恐怖さえ覚える。

 相手のことを綺麗さっぱり忘れ、誰にもその感情は一切残らず、それまで好きだった気持ちや、今抱いている辛く悲しい想いすらも忘れ、今後一切関わることのない存在としてそれぞれの時を生きていく。

 果たしてそれは、天草雪白や雹果にとって最善な選択と呼べるのだろうか。


 ――きっとあるはずだ。

 最善の選択は選べずとも、最悪でない最良の選択。

 宇城悠人という存在の記憶を残しながら、天草雪白に存在を感知されない方法が。

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