第23話 魔法少女は赤い糸で。(2)
「う…」
夏那は小さな呻き声を上げたかと思うと、崩れ落ちるように床に座り込んだ。
私が気遣って手を差し伸べたその直後、夏那はその表情を僅かたりとも変えることなく、まるで水道管に亀裂が生じたのかと思うほど大粒の涙をこぼしはじめた。
「っ…」
妹が涙を流しているという状況に私は慣れていなかった――というよりも、事実として妹の泣き顔は見るのは今日が初めてだった。
良くも悪くもと言うべきか、姉妹になってから妹が私に弱みを見せたことが一度たりとも無かったし、しっかり者で元気が取り柄のような妹だったこともあり、大泣きされる状況なんて想像すらしたことがなかった。
そのため、私は返す言葉が咄嗟には思いつかず、その名を呟くことしか出来なかった。
「夏那…」
私が顔を覗き込もうとしゃがみ込むと、夏那は見られることを拒むように両手で顔を隠し、体育座りのような格好で顔を伏せた。
「み…ないで…。顔が…上手く…作れない…から…」
顔が作れないという聞き慣れない言葉に違和感を覚えつつ、私は首を傾げて答える。
「…?別に私は夏那が無表情だろうと怒った顔をしながら笑っていようと気にしないけど?」
「わ、私は恥ずかしいの!デリカシー無いなーもー!いいからあっち向いてて!!」
表情こそ窺うことは出来ないが、どうやら本当に恥ずかしがっているというのは怒りの胞子を放出している様を見れば明らかだった。
「…あーはいはい。私はデリカシー無いですねー…」
仕方ないとでも言いたげに背を向けると、私はシャイニーパクトを開けて鏡を確認する。
「…」
そして、勢いよくそれを閉じる。
「…変な顔を人に見られるのが恥ずかしいってことに関しては激しく同意」
結果から言えば、妹が顔を隠してくれたのは好都合だった。
なぜなら、“自分の意思に反した表情が出る”という点で、私も夏那も同じ境遇だと言えた。
私たちの間にあった壁が跡形もなく崩れてなくなったのかは知る由もないが、私は私に対する夏那の態度の中にほんの小さな変化を見出していた。
そのせいなのかどうかは定かではないが、少なくとも鏡の中に映っていた私は表情を緩ませ、他人に見せられるような顔にはなっていなかった。
不名誉にも“顔に出やすい”などというレッテルを貼られている私が、うっかり威厳もへったくれもない顔を妹に晒すことを避けられたという点では、顔を隠してくれて好都合だったと言えるだろう。
「お姉ちゃん…。聞いても良い…?」
いち早くニヤけきった顔を整えるため顔を入念にマッサージしていると、妹が顔を伏せたまま話し掛けてきた。
「…なに?」
「さっきの、私たちは『家族ごっこ』してるって話…。血の繋がっていない私たちは、どうやったら本当の家族になれるのかな…?」
私は夏那の背中側に周り、夏那の背中に寄りかかるように座る。
「それはきっと“互いを知ろうとすること”だと私は思ってる。まあ、それは入り口みたいなものだけど」
「知ろうと…すること…?」
「私たちはお互いが出会う前のことを知らない。それは普通の家族には無いこと。姉妹だったら、姉は妹の成長過程を全て知っているだろうし、同じ時間を共にしている過程で家族は互いの過去を知ることになる。だけど、私たち家族は互いが互いを知ろうとしてこなかった。まるで暗がりを避けて通るように、過去に触れてしまうことを避けて歩いてきた」
当たり前の家族が持っていて、私たち家族が持っていないもの――それは、互いが生まれ育った時間の記憶。
例えば、妹が生まれたときや姉妹で喧嘩した記憶、家族みんなで遠出した記憶など、家族であれば知っていて当然の記憶を私たちは共有していない。
私たちは他人であり、そんな記憶は初めから存在しないのだから、当然といえば当然のことだった。
だが、五年間という互いを知るための機会を無為に過ごし、互いの過去に目を向けてこなかった。
その過ちこそが、私たちが未だに家族に至っていない理由だと私は考えた。
「母さんは私や夏那に何もしてこなかったけど、私はそれを責めたりなんて出来ない。私だって夏那の過去を知ろうとしてこなかったし、何よりそれは私たちを大切に想っていたからこそなんだって、今の私には理解できるから」
私が引き篭もっていた頃、母親は私に「外に出ろ」だとか「ちゃんと学校に行け」なんてことは言ってこなかった。
私にとってもそれは都合が良かったし、母親も仕事人間だったから気にも留められていなかったのだと思っていた。
だが、ハーマイオニーと水族館で話している時、私が妹のトラウマを心配して放っておこうとしたことと、母親が今まで私に対してとってきた態度は同一のものであると、私はそのとき気付いた。
「だから――」
「――お姉ちゃんに知ってもらいたいことと、言わなきゃいけないことがあるの」
私の言葉を遮るかのように、夏那が突然声を上げた。
しかし、顔は未だに伏せたままだった。
「…?」
「知っておいてほしいのは、ママが私を捨てた理由…」
気がつくと、私の視界を構築していた部屋は綻びはじめ、夢は再び違う世界を構築しはじめていた。
「実はね、私のママは私のことを忘れちゃったんだ。ママだけじゃなく、友達だった子も先生も、みんなが私のことを忘れちゃった」
「忘れ…た…?」
世界は再び様相を変え、ビルとビルの合間にあるような狭い路地裏のような場所に私たちは移されていた。
そして、間髪入れずに暗がりの奥から女性が息を切らしながらこちらに走り込んで来たかと思うと、その女性は力尽きるようにその場に倒れ込んだ。
「あの後、パパは私たちを追って来た。ママは私を抱えながら必死にここまで逃げて来た」
『ママ!!』
『はぁ…はぁ…』
女性の息は荒く、その頭部からはおびただしい量の血が流れていた。
『にげ…なきゃ…』
女性の体を必死に背負おうとするものの、幼い夏那の体ではまるで支えきれる様子はなかった。
『いいの…。あなただけ、逃げて…。夏那…』
『いや…!!いやぁ…!!!』
幼い夏那は女性の胸に泣きつくと、女性は怪我などものともしていないと言うようにやさしく微笑みながらその頭を撫でた。
『それじゃあ、誰か人を呼んできてくれる…?』
『う…うん…!よんでくる…!!』
幼い夏那が路地を飛び出したその直後、再び時間は停止し、女性は微笑を浮かべながら動きを止めた。
「これが私と私の知ってるママとの最後の会話だった」
「最後…?」
この光景は恐らく、一つ前と二つ前の夢の間なのだということはすぐに察しがついた。
つまり、父親から暴行を受けた幼い夏那と母親が家を飛び出してここに辿り着き、母親から離れた夏那は助けを求めて雨の中を一人歩き回り、エゾヒが出現した瞬間に気を失った、ということになる。
「次に気が付いたとき、私は大きな何かの足元に居た」
一瞬だけ暗転したかと思うと、街はいつの間にやら炎に包まれ、無数の瓦礫の山があった。
そして、足元には幼い夏那が仰向けで倒れ、無表情のまま空を見上げていた。
『ぅ…ぁ…』
その視線につられるように頭上を見上げると、そこには巨大な獣の姿があった。
無論、それが魔蒔化したエゾヒであることは言うまでもなかった。
「こんなにデカかったっけ…?」
今まさにエゾヒは一歩を踏み出そうとしている瞬間だった。
私たちの頭上が巨大な影で覆われると同時に、私の体は条件反射的に反応し、迫りくる巨躯を受け止めようと両手を天に向ける。
「――私が怪物に踏まれそうになったとき、ある人が私を助けてくれた」
その瞬間、実際に風が吹いたわけでもないのに、私は風圧のようなものを感じた。
『お姉ちゃんが来たから、もう、だいじょう、ぶ…だよ?』
私の手にエゾヒの体重が掛かることはなかった。
ふと隣に視線を移すと、そこにはエゾヒの足をその身一つで支えている人影があった。
風のように颯爽と現れ、幼い夏那を身を呈して守ったその人物は、シャイニー・レム――当時の私だった。
『今のうちに…逃げて!』
シャイニー・レムがそう叫ぶが、幼い夏那は無表情で視線を返すだけだった。
「…とっても辛そうな顔をしていたけど『私が絶対に守ってみせる』って私に声を掛けて勇気付けてくれたことを、私は今でも覚えてるよ」
気がつくと、座り込んでいたはずの夏那は、過去の私を挟んだ反対側に立っていた。
『私が絶対に、守ってみせる…から!』
「やっぱり…かっこいいな…」
夏那は必死に耐えるシャイニー・レムを見ながらそう言い、嬉しそうに微笑んだ。
「夏那…お前…もしかして…」
…
『大丈夫?歩ける?』
過去の私は少女の手を引きながら、安否を気遣って声を掛ける。
その問い掛けに幼い夏那が答えることはなかった。
『…ぅ…ぁ』
見ると、幼い夏那は何か言いたそうに、必死に口を動かしていた。
『…ムリしなくて良いよ。頷くだけでいいから』
幼い夏那はコクリと頷くと、握っていた過去の私の手を強く握り返した。
『もうすぐ安全な場所に着く。そこまで頑張ろうか?』
過去の私は焦りながらも、幼い夏那の歩幅に合わせてゆっくりと歩く。
大通りの曲がり角に差し掛かったとき、突然そこから大きな影が現れた。
『…!?』
すぐさま幼い夏那を押し退け、過去の私は身を呈するように前に出る。
『なっ…こんなところに子供…!?まだ逃げ遅れが残って…!?』
その影は、見たところ男性と見紛うくらい長身の女性だった。
それは、母だった。
思い掛けない展開に混乱しながらも咄嗟に顔を隠すと、こちらに警戒されていると勘違いしたのか、母は両手を上げながら自分の素性を明かす。
『安心して!私は警察官だから!』
だが、その行為自体は過去の私にとっては無意味だっただろう。
なぜなら、その情報は既に過去の私の知り得ている情報だったから。
『こ、この子逃げ遅れてたみたいなんでー、この子を安全な場所へ連れて行ってくれませんかー?』
過去の私はすぐさま苦肉の策を講じたのか、片手で鼻を摘み、出来る限り声色と口調を変えながらそう答える。
『この子…を…?』
過去の私が幼い夏那の背中をそっと押すと、幼い夏那は母に体を預けるように倒れこむ。
母はしゃがみこみ、すぐさまそれを補助するように、幼い夏那の体を支える。
『おっとと…。大丈夫…?怪我は?』
『…』
幼い夏那は母の顔を見上げ、無機質な視線を送る。
『これは…だいぶ怖い思いをしたみたいね…』
母は幼い夏那を強く抱きしめた。
それに応じるかのように、幼い夏那もまた母の服を強く握り締めた。
『この子を安全に場所に連れて行くのは分かったけど、あなたも逃げ遅れでしょ?早く…って、あれ…?』
その言葉は、誰に届くこともなく、炎に包まれた街に溶けて消えた。
『あの派手な服の子…どこ行った…?』
母は周囲をキョロキョロと見渡すも過去の私の姿を捉えることは出来ず、大きなため息を吐いた。
『…ぁぅ?』
『仕方ない…。ひとまずこの子を安全な場所に連れてくかー…』
母は託された幼い夏那を慣れた手つきで抱き抱えたかと思うと、信じられない速さで走り去っていった。
「派手な服って…偏見酷いな…。けど…」
私は振り返りながら呟く。
流れ落ちる涙を拭いながら、自分の横を通り過ぎていった母と幼い夏那の姿を遠目に見送る。
「これが私たちの始まりだったんだな…」
私は拳を強く握りしめ、奥歯を噛み締める。
「これ以上、苦しませたりしないから…」
私は心に決めた。
家族に向き合うことを。
そして、真実を打ち明けることを。
…
「こうして見ると、お母さんちょっと若かったね?生き生きしてるっていうのかな?」
「そうだな…。というか、もう大丈夫なのか?」
「うん。このとーり、私はへーきだよ」
確かに、見た目はいつもどおりの夏那に戻っていた。
だが、その心が未だ揺れ動いていることは一目で察しがついた。
それでも私は、聞かなければいけないことを夏那に投げかける。
「知っていたんだな。私がこの時お前を助けた魔法少女だったって」
「…」
この記憶の再現映像には、過去の私であるシャイニー・レムが登場している。
それも、顔が認識できるくらいハッキリと。
それはつまり、五年経過した今もなお、夏那がこの出来事を事細かに記憶しているということ。
そして以前、私の魔法少女姿を初めて見た幼い夏那は、私のことを『かっこいい』と言っていた。
それは恐らく、私が夏那を助けた魔法少女であることを知っていたから出た言葉。
私が夢の中で魔法少女の衣装だったのも、先日の映画が原因などではなく、昔から私が魔法少女であるというイメージを強く抱いていたから。
「…うん。お姉ちゃんが私を助けてくれた人だって知ったときは驚いたし、すっごく感動した。目の前に本物の魔法少女が!しかも、私のお姉ちゃん…!って。でも、自慢したいけど、魔法少女は正体を知られちゃいけないから、私はずっと知らないフリをしてた」
「なるほどな…。まあ、それに関してはグッジョブだ」
ようするに、私の素性が割れなかったのは夏那に魔法少女の基礎知識が浸透していた結果であり、
毎年毎年、少女たちに夢を届けながら教育を施してくれていたテレビアニメ様様であると言えよう。
「けど、『魔法少女の正体を知られちゃいけない』か…」
口が酸っぱくなるほど注意しろとノワに言われていたことが、今になって私の脳裏に残像のように浮かんでくる。
そして、ここにきてようやくその意図を理解することになった。
「だからね。これが言わなきゃいけないことだよ?」
夏那は私に向き直ると、どこか落ち着かないようにモジモジしたあと、心を決めたように私をまっすぐに見つめた。
「…五年越しになっちゃったけど、あの時は私を助けてくれて…ありがとう!シャイニー・レムお姉ちゃん!」
その瞬間、先ほど表情が作れないと言っていた人とは思えないほど、眩しいくらいの笑顔を私に向けた。
私はその笑顔を直視することができずに目を伏せ、妹に背を向けた。
今度は照れ隠しであったり、嬉しかったりしたわけではない。
「この事件のあと夏那の周りの人間はお前のことを忘れてしまった…。そういうことで合ってる?」
「えっ…?う…うん、そうだけど…?なんで…?」
私は淀む空を見上げながら、ため息を一つ吐く。
「私は夏那一人を救えたことでいい気になってたんだと思う…。でも、結果的に私は夏那すらも救えていなかった」
「お姉…ちゃん…?」
私たちが手負いのエゾヒを取り逃がし、隣町までやってきたところでエゾヒは魔蒔化を発動した。
その結果、私たちが対結界を張る前にエゾヒが暴れだし、明日火の人々が戦いに巻き込まれた。
そして、本来シャイニー・レムのことを忘れてしまうはずの夏那の記憶が、五年経った今も残っており、この事件の直後に夏那の周囲の人間たちは夏那のことを忘れてしまった。
そのことが示す意味を、私は理解してしまった。
そして理解してしまったからこそ、私にはそのけじめをつける義務があった。
「私からも、夏那に言わなくちゃいけないことがある」
――エゾヒとの戦いで死者は出ていない。
公には爆発事故があり、偶然にも死者は出ていないと報じられている。
あの事件がきっかけで人生の歯車を狂わされた人たちが大勢居ることは知っているし、街に甚大な損害が出たことも、五年経った今もなお街は復興すら出来ていないことも知っている。
私はどこかで楽観的に考えていた――いや、考えようとさえしていなかった。
果たして本当にそれだけなのか。
あれほど大規模な事故が起きているというに、死者が出ていないなんてことが本当に事実としてあり得るのだろうか。
「――お前の母親から夏那の記憶を奪ったのは、私だ」