第23話 魔法少女は赤い糸で。(1)
夏那は私の問いに答える意思は無いとでも主張するように、固く結んだ口を開こうとはせず、私が視線を合わせるとそっぽを向き、近付こうと一歩足を前に出すと合わせるように一歩後退する。
例えるならそれは、特定の動きに対してそう反応するように設定されている、ゲームキャラクターのような動きだった。
「…」
ある程度予想されていたこととはいえ、苦労の末にようやく辿りついたのに、ここまで嫌厭されると苦労の甲斐は薄れてしまうというものだろう。
それだというのに、私は今という状況が可笑しくなり、思わず笑いを堪えられなくなってしまった。
「ぷっ…はは。こうしてると、私たちが一緒に住み始めた頃に戻ったみたいだなー…なんて――」
妹の態度はデジャヴかと思うとくらい、我が家に来た頃の態度そのものであり、私は不思議と懐かしい気持ちになった。
私が冗談話を交えて少しでも状況を変えようと試みても、私の心持ちとは対照的に、妹はその当時に戻ったかのように頑なな態度を崩すことはなく、私の言葉に耳を傾ける気さえ微塵も感じられなかった。
「なるほどねー…」
対話すべき相手が会話や接触を拒んでいる。
それであればと私は眼鏡を外し、この手の慣例に倣ってアプローチの方法を変える。
「――それにしても、お前の両親は本当に酷いな。父親も、母親も」
静止する男女二人を流し見しながら私がそういうと、夏那の眉がピクリと動き、私を睨みつけるように一層目を細め、それまでとは明らかに違った反応を見せた。
「ま…。ママは…悪くない…」
感情を押し殺すように小さな声で呟くと、下唇を強く噛み、それ以上口を開こうとはしなかった。
しかし、それは私の目論見どおりの反応に違いなかった。
「どうしてそう思う?その根拠はなんだ?」
「そ…れは…」
否定されるようなことを言ったのは、夏那からの反応を引き出すためであり、私から見れば反応があっただけ事態は好転していると言える。
そこで私は、僅かに出来た綻びを見逃すことなく、更なる追い討ちをかける。
「お前のことをこんな目に遭わせた人たちだぞ?妻と子供に暴力を振るう父親は当然だけど、我が子を守れない母親だって、母親失格に違いは無いだろ?」
「――!?」
悪意の込められたその言葉に反応するように、怒りの胞子が夏那の体から放出されているのを確認した。
その直後、夏那は俯きながら私に詰め寄り、触れられるくらいまで距離を詰めたところでピタリと動きを止め、思い留まるように浮いた片足を下ろした。
再度訪れた一時の静寂の後、夏那はその重い口を開いた。
「取り…消して…。ママは…ママは悪くない…から…」
視線を逸らし、私だけに聞こえるくらいの搾り出すような声で夏那はそう言った。
だが、私は首を横に振る。
「何が違うんだ?じゃあ、夏那はなんでうちに引き取られた?お前のことを手放したあの母親が母親失格じゃないって理由を私に話してみろ。さあ」
「お…お姉ちゃんには…話せ…ない…。お姉ちゃんには…わからない…」
その瞬間、私の中で何かが弾けとんだ気がした。
まるで川を塞き止めていたものが壊れたように、長年に渡って抱えていた想いが溢れ出し、それは言葉となって止め処なく口から流れ出てゆく。
「――そうだよ…。私にはわからない…。昔からお前が何を考えているのかも、お前が本当はどんな子なのかも…!お前は自分のことは何一つ話してくれないからな…!!」
「――!」
夏那からは、おびただしい量の怒りの胞子が出ていた。
だが、夏那はそれすらも抑え込み、本音を隠し、私とぶつかることを避けようとした。
きっとそれこそが、私が崩すべき壁なのだろう。
「私たちはこんなふうに喧嘩もしてこなかった…!相手の顔色ばっかり窺って、言いたいことを言わずにいた…!私たちの誰かが塞ぎ込めば、時が解決するって都合の良い言い訳をして、深く関わる事をずっと避け続けてきた…!私たちは“家族ごっこ”をしていただけなんだって、私はようやく気付いたんだ!!」
私の豹変ぶりに驚いたのか、夏那は一歩だけ後退した。
「家族…ごっこ…。私たちが…」
私たち姉妹――いや、私たち家族には欠けているものがある。
そのことに、私は薄々気付いていた。
私たち家族は共生関係を保つことを優先するあまり、無意識に壁を作り、互いを知ろうとする努力を怠ってきた。
私たちは、ただただ共同生活を送りながら、家族という役割を演じていただけ――つまり“家族ごっこ”をしていただけなのだ、と。
その結果、普通の家族であれば当たり前に持っているはずのものを、私たちは手にすることなく、数年という月日が流れ去っていた。
「…だけど、私の中にはそれだけじゃない気持ちも確実にある。夏那が家に居なければ静かだなと思うし、心配だったり、寂しくも感じる。一緒に居ると騒がしいけど、一緒に食べる食事はなんか楽しいって思えるようになった。夏那の笑顔にはいつも助けられてるし、いつも笑っていてほしいって思ってる。これは私のエゴかもしれないけど、私はもう夏那の悲しそうな顔を見たくないし、させたくない…。もしお前を苦しめているものがあるのなら、私はそれを知りたい…そして、どんなことがあってもその苦しみから救ってやりたいとさえ思う…。私がそう思えるのはきっと、一緒に住んでいるからとか、付き合いが長いからとか、そんな理由じゃないってことくらい判る。だから――」
私は手を差し出す。
「――今度こそ“本物の家族”にならないか?」
夏那は少し考えるような素振りをみせたあと、ニッコリと微笑んだ。
「…ありがとう、お姉ちゃん。その気持ちは嬉しい。でもね、違うんだよ…」
「違う…?何――」
「私の笑顔は全部作り物――仮面なの」
夏那がそう言うと、一瞬前まで私に向けられていた笑顔は突然消えた。
そして、静かに瞼を閉じると、突如として止まっていた周囲の時間が動き出した。
…
『ママ…』
女の子の声が微かに聞こえたかと思うと、幼い夏那が男性の背後に回り込むように物陰を移動していた。
『ママを――』
私はこれから起こることに目をそらすようなことはせず、一秒たりとも逃がさんと、その光景を目に焼き付けるように凝視する。
『いじめるな』
幼い夏那はテーブルに飛び乗ったかと思うと、サッカーボールほどもある花瓶を男性の頭部にへと振り下ろした。
『――ぐぁ!?』
それをモロに食らった男性は片膝をついた。
『けほっけほっ…!?か…夏…』
テーブルに乗り上げる夏那の表情を見て、女性は驚愕したように声を失った。
私はすぐに理解した。
幼い夏那には動じた様子がまったく見られなかった。
それどころか、まるでこの状況を楽しんでいるかのような笑みを浮かべていた。
恐らく女性は、そこに立つ存在に本能的な恐怖を覚えたのだろう。
『いってぇな…。てめぇ…このガキぃ…。気持ち悪いから放っておけば…』
男性は体勢を崩したものの、その衝撃は致命傷には至っていなかった。
頭から流血しながらもゆっくりと立ち上がり、怒りの矛先を幼い夏那へと変え、その腕を幼い夏那に伸ばす。
『――ぐああっ…!?』
すると次の瞬間、男性は苦悶の声を上げながら伸ばした腕を抑えた。
その理由は考えるまでもなかった。
なぜなら、伸ばした男の手の甲には、いつの間にやらフォークが深々と刺さっていたのだから。
『…ビックリ…した』
『な…なにが起きて…!?お、おお…お前がやったのか…!?』
私は一連の動きをこの目で捉えていた。
まるで舞い寄ってきた虫を払い落とすかのように、幼い夏那はさもそれが当たり前のようにフォークを拾い上げ、そして躊躇なくそれを男の手に突き立てた。
しかし一番不可解だったのは、「ビックリした」という言葉にはまるで当てはまらない、悲しそうな表情を浮かべながらそうしていたことだった。
『…』
幼い夏那は無表情になると、男性に突き刺さったフォークを笑顔で引き抜いた。
『ぐああぁあっ!!?いってえー!!』
引き抜かれたことで血液が噴出し、幼い夏那の右手を赤に染め上げる。
私は目の前で起きている状況の整理が追いついていなかった。
それだというのに、容赦なく秒針は回り、止まることなく状況は動く。
『ダメ…!!』
女性が隙をつくように男性を押し退け、幼い夏那を抱きかかえる。
そして、そのまま飛び出るように部屋を出て行った。
『あ…!?待――』
その直後、男性は硬直して動かなくなった――といっても、致命傷を負って死んだとかではなく、再び静止した。
恐らく、その先は夏那の知ることのない情報のためだろう。
…
壁掛け時計の針が止まると、夏那は閉じていた目をゆっくり開き、すぐさま私に背を向けた。
「――こんな私の姿、お姉ちゃんには見てほしくなかった。幻滅したでしょ?」
そして、部屋の片隅のテーブルに置かれている、伏せられた写真立てを指でなぞった。
「本当のパパが死んだあと、ママが新しいパパを連れてきたの…。最初はあんまり馴染めなかったけど、新しいパパとは少しずつ仲良くなっていった。その頃から全部が変わった…。新しいパパは仕事が上手くいかなくなって、家に居ることが多くなった。お酒を飲んだらママを虐めるようになった。ママは働くようになって家に居ることが少なくなった。そうしたら、パパは私のことも虐めるようになった。気付いたら、私の周りにあったはずの幸せは全部消えてなくなっていた」
ベラベラと話すような軽い内容ではないにも関わらず、夏那は無表情のまま、世間話をするかのように話を続ける。
「その頃からかなー…。私が自然に笑うことが出来なくなったのは。思ってることと表情がかみ合わなくなっちゃったの。悲しいけど怒ったり、怒ってるのに笑ったりして。自分でも分かってるの、私の感情は壊れちゃったんだって。それから友達からも不気味がられて気持ち悪いって言われるようになっちゃった…。だから、私はずっと笑顔でいられるように表情を作ることにした。驚いたときは驚いたように、悲しいときは悲しい表情を作って周りの人に合わせられるように、鏡と向き合って練習した。だって、そのほうが楽だし、誰も不思議に思ったりしなくなるから」
感情によって表情が動かないため、それを周囲に合わせて強引に動かすことで普通を演じる。
それはさながら、感情を表に出さないポーカーフェイスとはまったく逆のことであり、言うなれば「空気を読む」ことを限界まで高めた、コミュニケーション能力の上位スキルと言っても過言ではないかもしれない。
そんなことを考えながら、私は気に掛かったことを尋ねる。
「それは今も…なのか…?」
私の問い掛けに、夏那は迷ったようにしながらも頷いた。
「…そうか」
私が知り得る限り、夏那からそんな様子を感じとることは無かった。
しかし、考えてみれば不思議は無い。
感情を表現しているのは脳からの電気信号によって筋肉を収縮させているだけに過ぎず、表情と感情に関連性は無く、感情を視る力ではその違いを区別することは出来ない。
それに加えて、周囲に合わせて表情を変えるなどという芸当が出来るのであれば、私の目を誤魔化し続けていたことも頷ける。
そして恐らく、夏那はその悩みを他人に打ち明けることはしてこなかった――というよりも、出来なかっただろう。
「…一人でよく頑張ったな」
そのことを誰かに話せば、発端である過去に触れることになるし、自分から友達が離れていったという過去がある以上、友達が居なくなってしまうのではと危惧してしまうほうが自然だ。
水族館で話していたように、“今という時間を壊したくない”と考えていたのであれば、尚のこと打ち明けることに抵抗があったはずだし、姉である私にまでそれをひた隠してきた事実もある。
故に、誰かに打ち明けることさえ叶わず、笑顔の仮面を被りながら、たった一人でその苦悩を隠し通してきたことになる。
言葉で言うのは簡単かもしれないが、それがどれほど大変なことなのかは私にはまったく想像もつかないし、それが仮に出来ていたとしても、私の想像力では及びもつかない苦労があったことだろう。
「…」
私はたまらず、背を向ける夏那の二の腕を引っ張り、振り返らせる。
すると、夏那は無表情のまま私を見つめ返した。
だが、その瞳からは一筋の涙を流していた。
「…その涙が証明。人は感情が昂ぶれば涙を流す。だから、お前の感情は壊れてなんかいない。ちょっと感情を顔に出すのが不器用なだけだよ」
「お姉ちゃん…」
妹の感情が壊れているなんてことがあるはずはなかった。
私は妹が感情を揺れ動かしていることを毎日この目で確認していたし、先ほどまで目を閉じていたのは過去を目視してしまうことで動揺してしまうと、自分自身で理解していたから。
きっと、自分に感情が無いと言い聞かせることで、無理矢理に納得しようとしていたのだろう。
「ゴメンな…。辛いことを思い出させるような真似して」
私は少しだけ背伸びをして妹の頭を撫でる。
「…ここで見てきた過去の夏那には、こうして触れることすら叶わなかった。正直、それがすごくもどかしかった。だけど、今の夏那にならこうして触れることが出来るし、私の声を届けることも、本音でぶつかり合うことだって出来る。夏那が過去のことでどれだけ悩んだり苦しんだりしてきたかは私には想像もつかない。だけど、これからは私が一緒に背負うことが出来る」
私は夏那の両手を暖めるかのように両手で覆う。
「苦手なことなんて誰にだってある。私は家事もろくに出来ないし、人付き合いだって夏那のほうが上手。身長だって夏那のほうが大きいし、運動神経だって夏那のほうが上。夏那に比べたら、私は何もかもダメダメなお姉ちゃんだって自覚くらいはあるんだぞ?」
夏那は首を大きく横に振るが、私はそれを制すように覆った両手に力を込め、強く握り返す。
「星の巡り合わせで姉妹になっただけかもしれないけど、私は夏那が妹になってくれて良かったと思ってるし、それを誇りだと思ってる。これが今の私の本音だ」
「そ…んな…はずない…。私は…そんな…」
――感情を表情に出来ない妹と、感情を視る力を持つ姉。
二人が出会ったのが星の巡り合わせだというのなら、それは良く出来た話だとさえ思う。
しかし、それは間違いなく不幸などではなく幸運だった。
私はそう断言できる。
「笑顔は皆を幸せにする魔法。さっきも言っただろ?私は夏那の笑顔に助けられてるって。たとえ、作り物の笑顔だったとしても、私はその笑顔に救われてきたって事実があるし、きっと夏那の友達だってそう思ってる」
――私は今でも覚えている。
私が魔法少女に変身して見せたあの時、夏那が私に初めて見せてくれたあの笑顔を。
あの笑顔が、作り物や偽りの笑顔である筈がない。
私を救っていたのが夏那の笑顔なら、私が救うべきものも決まっている。
「もし、夏那が自然に笑うことが出来ないって言うのなら、私がその笑顔を取り戻す。こんな私だけど、今度こそお姉ちゃんらしいことをさせてくれないか?」
――可能性が少しでも残っているのなら、私は取り戻す。
魔法少女だからとか、困っている人を救うとか、そんな理由ではない。
私は夏那の姉だから。