第19話 魔法少女は二律背反で。(4)
◆5月8日 午前5時13分◆
雹果の胸元でぬいぐるみのように抱えられている自称・妖精は、終始笑みを浮かべたカワイイ顔で答える。
『…つまりキミは、願いが叶っていないじゃないかと文句を言いに来たクレーマーさん。そういうことかい?』
私は大きく頷く。
「事実そうなんだけど…その言い方は腹立つ…。あと顔も」
普通の女子高生にはカワイイなどと持て囃されるであろうその二次元フェイスは、私にとっては不快の象徴でしかなかった。
言うなれば、“生理的に無理”という表現が最も近しい表現になるだろう。
『キミの二つの願いは今も有効に働いているよ。それは間違いない』
だが、そんな私の気持ちや苦言はまったく本人に伝わらず、ノワは気に掛けた様子もなく話を続ける。
「じゃあ、どうやってこの状況を説明する?私、このとおり変身してるんだけど?」
私は指先を首から下に向け、自分の着ているピンク色の衣装について主張しながら説明を求める。
だが、決定的な状況証拠があるにも関わらず、ノワは揺らいだ様子も見せずに堂々と言い放つ。
『キミには前に言ったよね?願いを叶える力の源が何なのかって?』
唐突に方向性の違う質問が投げかけられた意図を掴めなかったが、私はあの日の出来事を思い出しながらその問いに答える。
「…その人の願いの強さに比例する想いの力。確かそんな感じだった」
『その通り。じゃあ、二つの願いが相殺し合っているという状態が崩れれば、それはどうなってしまうと思う?』
「…?前の願いと、それを打ち消す願い…。相殺ってことは、強いほうの願いが叶う…?」
『正解者に拍手!よくできましたー!ぱちぱちぱちー!』
――お前はどこでそれを覚えたんだ…。
私は心の中のツッコミをそこそこに、クレーマーらしくクレームを入れる。
「というか、それこそ詐欺じゃないか?この力を消せなきゃ、なんのために願いを一つ使ったのかわからない」
『詐欺とは人聞きが悪いねー。僕は君たちの願いを言葉通りに叶えているだけだよ?』
「言葉通りに叶えている…?二つの願いは今も有効に働いていて、強いほうの願いが叶う…」
どこか意味ありげな言い回しに、違和感と腹立たしさを同時に覚えながら、私は仕方なく思考を巡らせる。
すると、ようやくその引っ掛け問題に気がつく。
「――願いは叶え続けられているのか…?」
ノワが願いを叶えるという行為は、言うなれば“この世の概念を変えるもの”だと私は考えていた。
魔法という概念であれば、原動力となる力を変換し、火や水といったものに干渉・変換する何かしらの機構さえあれば、結果的にそれらを扱えることと同義である。
例えるなら、電気で冷蔵庫や電子レンジを動かすことにイメージは近い。
そうして創った“魔法という概念を扱う道具”と、それを扱うことの出来る知識と技術を誰かに与えれば、魔法を行使する存在を簡単に作り出すことができる。
つまり、魔法少女は“魔法という道具を扱う知識と技術を与えられた存在である”とすれば、それほど現実離れした存在ではないと言える。
だが、その仮説はまったくの的外れのようだった。
概念の創造や知識の植え付けだけであれば、それは一度行えば済む話であり、私たちにしたように、魔法少女に変身する道具と、魔法を扱う知識を与えてしまえばそれで終わりのはず。
しかし、ノワは願いのことを再三に渡って、現在進行形で語った。
つまり願いとは、その時その瞬間に叶えられるものじゃなく、継続するもの。
「願いのバランスが崩れて強いほうの願いが叶うのだとしたら、私はあーちゃんになりたいと思ったってこと…?でも、そんなはずは――」
私はそれを言い終える前にあることを思い出し、声量を一気に落とす。
「違う…そうか…。私の願いは――」
『思い出したかい?キミの本当の願いを?』
私の中で起こったであろうそのカラクリをようやく理解し、私は思わず視線を少し上に向ける。
「…?何…?」
キョトンとした雹果の顔をまっすぐ見つめていると、雹果はこちらの視線に気が付き、ノワを揉みしだいていた手を止め、首を傾げる。
「私の願いは、あーちゃんみたいになりたいことじゃなかった…。そして、あの時、あの瞬間、その願いの強さが以前の願いを打ち消す願いを上回った…」
屋上で変身してしまったあの時、私は雹果に問いかけた。
そして私は、心のどこかでその想いに応えて欲しいと強く願っていた。
恐らく、その想いが以前の願いを打ち消すほどの願いとなり、願いの均衡が崩れた。
なぜなら、私がノワに叶えてもらった願いは『あーちゃんみたいに友達が欲しい』という願いだったのだから。
「けど、それだけじゃ変身したことに説明がつかない…」
私が魔法少女に変身できるようになったのは、雨の願いに由来するもの。
たとえ私の願いがバランスを崩して逆転したとしても、雨の願いも私同様に逆転した状況でないと、このような事態にはならない。
「まさか、あーちゃんも私と同じ状況だった…?でも、あーちゃんは自分にはそんな力は残っていないって…」
『本当にそうなのかな?それを本人にちゃんと確かめた?』
「…!」
私はノワに言われたその一言で、それまでの出来事をつぶさに思い返しはじめる。
すると、私の中で一つの仮説が出来上がった。
「まさか…」
結果的に、私はノワの言葉に反論することは出来なかった。
なぜなら、雨のとっていた今までの行動が、私の脳裏に過ぎった僅かな可能性を肯定するものだと気付いてしまったから。
「あーちゃんは魔法少女の力を私に隠そうとしている…?」
赤狐面ことメルティー・ミラに襲撃されたあの日、人間とは思えないほどの反射神経や身のこなしで、雨は互角に渡り合っていた。
それに加えて、七不思議を解明しようとしたあの日の帰り際、校門で見せた門扉に飛び乗る跳躍力や、私の体重を軽々と引き上げるほどの腕力も、並みの女子高生とは言い難い。
その後の芽衣から聞かされた話でも、階段落ちに鬼ごっこ、メルティー・ベルに鎖で縛り上げられた挙句に、普通であれば病院にお世話になっていてもおかしくないほど蹴り転がされたと聞かされていた。
それらのどれをとっても、雨が通常の身体能力に戻っているとは到底思えない。
雨は私が危険なことに巻き込まれることを避けようとしていた。
もし、魔法が使えることを隠そうとして、私たちの前では魔法を使わず、隠れて魔法を使いながら自分の身を守っていたのであれば、私同様に魔法の使いすぎで倒れたことや、倒れたことを隠そうとしていた理由も納得できる。
そして、私が変身したことに驚き、ノワに対して憤りを見せていたのは、自分だけで無く、私の魔法少女の力が失われていなかったから。
そう考えてしまえば、全て辻褄が合う。
私は大きく溜め息をついたあと、口を開く。
「…ノワを問い詰めることが筋違いだってことは理解した」
私はこの件に関しては、胸の奥にしまうことを心に決めた。
雨が私に隠し事をしていようといまいと、そういったことを含めて雨のことを信じると私は既に決めていた。
故に、魔法少女の力が残っていることを雨が私に隠していたとしても、それは私の決意とはまったく無関係の話である。
しかし、それはそれとばかりに、私にはもう一つだけ問いたださなければいけないことがあった。
「――けど、それとは別にもうひとつ聞きたいことがある。ミラ・フォームってなに?」
『ミラ・フォーム…?それは一体何のこと?』
「まったく…」
私は少しだけ距離を取り、足場の安定している場所まで移動する。
「光輝く、希望の花!真の輝きに照らされて――」
…
「――ミラ・フォーム!!」
私は息も絶え絶えになりながらも再び生還を果たし、ポーズを決める。
――それにしても、やはりあの水中空間は慣れそうもない。
「…というわけで、これがミラ・フォーム」
『これは驚いたねー。その姿からはもの凄い力を感じるよ』
とは言っているものの、ノワの表情は着ぐるみのようにまったく変化していない。
こういった生物らしからぬところが、私の中で愛着よりも不快感が勝っている原因なのだと思う。
「驚いた…だって…?ってことは、これはノワが用意していたものじゃないの…?」
『残念ながらそういうことになるね』
私はそう言われても、その言葉を素直に信じることが出来なかった。
なぜなら、元々プログラムされていたかのように私の体は勝手に動き、口が勝手に口上を発したことからみても、私の頭がおかしくなっていない限りはそれが自然発生したとは考えられない。
「本当のことを言う気がない…と?」
私はノワに揺さぶりをかけようと、かまをかける。
『キミが僕のことを疑いたくなる気持ちは判るけど、そのことに関して今の僕がキミに話せることは何も無いよ』
相変わらずのポーカーフェイスで、その胸の内はさっぱり判らなかった。
「じゃあ、一体なんでこんなことに…」
ノワがこの現象について関知していないとすれば、可能性はもう一つ考えられた。
それは、シャイニー・レムではなくメルティー・ミラのほうに要因があるという可能性。
――やっぱり、そっちの線を調べるしかない…か。だけど…。
一ヶ月前の私は、「もう誰かを巻き込むようなことはしたくない」とか、「魔法少女を捨てることが贖罪になるなら、私は望んでそれを捨てる」などと豪語していた。
それにも関わらず、今の私はこの期に及んでこうして迷っていた。
メルティー・ミラについて調べようとすれば、私は再び“魔法少女”という存在に首を突っ込むことになる。
それによって周囲に危険を及ぼしたり、迷惑を掛けることも想定される。
二人との関係を維持するのであれば、目立った行動は控えるべきであるのも事実だし、私も雨もそれを望んではいない。
だが、謎を解かずに放ってはおけないのが私の性分であり、事ここに至って明るみになった数々の謎をそのままに、未来永劫モヤモヤした気持ちを抱き続けるなど、この私に出来るのかさえ疑わしい。
「二律背反…か…」
どうするべきかを葛藤しながら思わずそう呟くと、タイミングを見計らったかのように声を掛けられた。
『ひとつだけ、キミにヒントをあげよう』
「ヒン…ト…?」
『今の僕から言えるのは、君は周囲の事を知るよりも、まずは自分について知ったほうが良いってことかな?』
――周囲の事を知るよりも、自分について知る…?
当然ながら、私はその言葉の意図をまったく理解できなかった。
「私について…知る…?どういう意味…?何か知ってるのか…?」
人が何のために生きて、何のために死んでゆくのかとか、そういった人生論や哲学の話をすれば、私が何なのかは判らないことだらけだし、そこに答えを見出す頃には私はお婆さんになっている可能性が高い。
だが、ここでノワの言っていることはそういった概念的な意味合いではなく、私が自分自身について知らないことがある、ということを示唆したかったと考えられる。
私の知らない私自身のことと考える場合、物心がつく前の幼少の私や、寝ている間の私、日々の中で忘れてしまった私の記憶、そして他人から見た私などが挙げられるのだろう。
しかし、そのどれもが私には難題に思えた。
『その言葉がキミの求める答えに繋がっていると思うよ。それに、キミならきっと自分自身の力でその答えに辿り着けるはずだ』
「…なんか、適当なこと言ってこの場をやり過ごそうとしてないか?」
『どうだろうね?信じるも信じないも、キミ次第だよ?』
どこかで聞いたような相槌に多少苛立ちを覚えつつも、私は踵を返す。
「…まあいい。聞くことは聞けたし、私は帰る。そっちは残るの?」
私たちの会話が退屈だったのか、足元で丸まっていた大きな毛玉に問いかけると、それは顔だけを上げる。
『…少しばかり気になることがあるのでな。そこの妖精と二人で話がしたい。故に、先にその子を連れ帰ってくれ』
その視線の先には、子供のようにぬいぐるみをこねくり回す女子高生の姿があった。
「…了解」
私はノワの頭部を鷲掴みにして、雹果から一気にもぎ取る。
そして、それを後方に放り投げる。
「ああっ!?マルちゃん!!」
――いつの間にか勝手に名前が付けられている…。
「帰るぞー。ノワにはまた今度会いにくれば良い」
「うう…」
不満の表情を浮かべる雹果の手首を強引に引っ張りながら、私と雹果はその場を後にする。
『じゃあ、またねー』
まるで下校の挨拶をする友達のように、ノワは別れの挨拶をする。
「…さよなら」
だが今の私には、再びここを訪れる気はこれっぽっちも無かった。
◇
◆5月7日 午後5時10分◆
キーボードを叩く音と、紙の擦れる音だけが鳴り響く中、天草雪白が思い出したように口を開いた。
「部活を創らない…ということは、どこの部に入るのか決めたのですか?」
「いや…。それはまだ…です」
私はその問題が残されていたことを思い出して憂鬱な気持ちになりながらも、そう答えて入力作業を継続する。
「そう…ですか」
一瞬だけ何か考えるような素振りを見せたものの、天草雪白はその思惑を語ることはなかった。
「…」
会話が始まったばかりだというのに、早々に訪れた沈黙に居心地の悪さを感じた私は、気になっていたことを聞くことにした。
「妹さんって、どんな子なんですか?」
私がそう質問すると、天草雪白はさも当然のように答える。
「霖裏ですか?そうですね…。あの子は何事にも熱心で、一つのことに集中すると周りが見えなくなってしまう。ただ、人付き合いが苦手で…。両親が離婚して、今は別居状態ではあるのですが…」
再び何か考えるように眉間にしわを寄せる様子を一瞬見せたが、そのまま棚の整理を続けていた。
「…なるほど」
私は何が起きているのかを理解し、このことについてはそれ以上は掘り下げないことを決める。
「もう一つ。メルティー・ミラに変身できるあのスマホ。あれはどこで?」
その問いに天草雪白は手を止めて口を噤み、数秒間沈黙した。
「実は…まったく覚えがないのです…。一人暮らしするために実家から引っ越した際、引越し先の荷物から出てきたことは覚えているのですが、いつどこで紛れ込んだものなのか…」
「覚えがない…?じゃあ、メルティー・ミラに変身するようになってからどれくらい経つ?」
「確か、五年くらいでしょうか…?」
「…ふむ」
本人が持っていたことを忘れているという可能性や、誰かがその荷物に故意に紛れ込ませたという可能性も勿論ある。
だが、この状況で一番可能性が高いのは、彼女の言葉のとおりなのだろう。
「霖裏ちゃんが同じものを持っていたのは?」
「それに関しては私にも…。メルティー・ベルがあの子であると知ったのも最近の話ですし…」
「…なるほど」
結論から言えば、今の天草雪白から元のスマホの持ち主を辿ることは難しい。
自分の行動が有力な手掛かりを消してしまったなどとは考えたくはなかったが、天草雪白の記憶には大きな矛盾が生まれている。
となれば、もう一人の所有者であった八代霖裏を当たる他ないことは自明の理だろう。
幸いにも彼女は妹の友人という立場であり、一応面識もあるので、探りを入れる機会を作ることはそれほど難しくないだろう。
そんなこと考えていると、どこか落ち着かないといった緊張した面持ちでコチラにちらちらと視線を送る姿が私の目に留まった。
「…もしかして、私に聞きたいことでもあったりします?」
私は入力作業を続けながらも、一瞬だけ視線を向ける。
「宇城先輩の最期を…貴方は知っているのです…よね?」
――やっぱり、そのことか。
私は最期という言葉に違和感を覚えたが、話を合わせる。
「…まあ」
「あの人は…宇城先輩はなんと仰っていました…?」
俯くようにして固まっている様子を見て、私はその問いに答える。
「何も言ってませんでしたよ」
あの言葉は私に向けられた言葉で、彼女が知るべき言葉ではない。
そう考え、天草雪白にそれを気取られぬよう、即答で返す。
「そう…ですか…」
「こっちの分は終わりましたから、次の分お願いします。口を動かすのも良いですけど、手を動かすのも忘れないで下さい。このままだと今日中に終わりませんよ?」
私はあからさまに落ち込む天草雪白を見兼ね、あえて茶々を入れる。
「あ…貴方に言われなくても判っています!」
…
「ふぅ…。終わったー…」
壁掛け時計を確認し、もうすぐ八時であることを知った私は少しばかり驚く。
普段だったらとっくに下校している時間であり、残っていたとしても教師に“帰れ”と言われて強制的に退去を命じられるのだが、こうして堂々と残っていられるのはちょっとした特権のように思え、私は少しだけ悦に浸っていた。
「こんな時間までご苦労様でした。こんなものしか出せませんが…」
タイミングを見計らったかのように天草雪白が入り口の扉を開けて現れた。
見ると、自販機で購入したであろう苺牛乳とコーヒー牛乳の紙パック飲料がその手に携えられていた。
「どうぞ」
どちらが私なのかを考えるまでもなく苺牛乳を渡されると思っていた私は、コーヒー牛乳のほうを手渡され、内心で驚く。
「あ…。こちらのほうが好みでしたか?」
「大…丈夫」
天草雪白は生徒会長席に座るでもなく、机に寄りかかるようにしながら苺牛乳に口をつける。
「それにしても、正直意外でした…」
その言葉をそっくりそのまま返したいと思いつつもツッコむことも出来ず、私はコーヒー牛乳に口をつけながら黙って話を聞く。
「貴方は見返りもなしにこういうことをする人だとは思っていませんでしたから」
「こう見えても、お人好しが過ぎるってくらい、お人好しらしいですよ。私はそう思ってないんですけど」
確かに、以前の私であれば天草雪白に対してここまで気を遣うことは無かったと断言できる。
宇城悠人の言葉が引っかかっていたことも理由の一つでもあるが、それが全てではないとも言える。
元々あの子の計画であり、私はそれに巻き込まれた被害者という立場だったものの、この状況を招いたことに私自身少なからず関わっていることも事実だった。
そのため、後ろめたさを感じていると言えば大袈裟かもしれないが、それに近い感情は抱いていた。
だからこそ、私は迷うことなく彼女に手を差し伸べたのかもしれない。
「確かに、そうみたいですね…。まあ、卑屈そうに見える貴方にはあまり似合っていませんね?フフッ…」
そう言って、天草雪白はクスリと笑った。
「卑屈って…。ハッキリ言うところ姉妹そっくりだな…」
私が聞こえないくらいの小さな声で呟くと、天草雪白は眉をひそめた。
「何か言いましたか?」
「いえ…なんでも…」
天草雪白は大鏡の前まで移動し、鏡に映った自分の全身をボーっと眺めながら直立不動で固まったかと思うと、思い立ったように指先で触れようとする。
鏡はコツリと音を立て、その指先は表面に触れたところで静止した。
すると、天草雪白は何も言わず、残念そうな表情だけを浮かべた。
「さて、と…」
気を取り直してと言わんばかりに、壁に備え付けてあった大きな垂れ布を大鏡に掛けると、哀愁を漂わせるような口調で呟く。
「この部屋とも、これでお別れですね…」
私としてはここに至るまで、まったくと言っていいほど良い思い出のない部屋ではあったものの、改めて眺めると風情漂う居心地の良い場所に思え、とても不思議な感覚だった。
「…こうして片付けてみると結構広くて良いところですね。静かだし丁度良いソファーもあるから読書が捗りそう」
そんなこと考えていると、天草雪白が突然振り向き、私をまっすぐ見据える。
「当然です。ここは私のお気に入りの場所であり、もう一つの家みたいなものですから」
その顔は今までに見せていたような固い表情ではなく、無邪気な少女のような笑顔だった。
私はその笑顔に、少しだけ救われた気持ちになった。
天草雪白にとって生徒会室という場所は、好きな人と同じ時を一緒に過ごした場所であり、記憶と同じくらい大切なものなのだろう。
もし、宇城悠人との記憶を全て失っていたのなら、この部屋で過ごしていた彼女の思い出は、ただただ孤独だったという偽りの記憶に置き換えられていた。
それがどれほど辛いことなのかを、私は良く知っている。
だからこそ、大きな代償を払っていたとしても、私が選び、掴みとったこの未来が価値のあるものだったと、胸を張ることができる。
「花咲さん。貴方、自分の居場所に困って部活を創ろうとしていたのでしたね?」
「えっと、それは…まあ…」
その不自然な問いに不審感を抱きつつも、適当に相槌を打つ。
「それであればいっそのこと、生徒会役員に立候補してみる気はありませんか?」
「は…?」
私はその言葉を理解するのに数秒費やした。
「生徒会…役員…?私が…?」
一体どこからその根拠が沸いてきたのかを、小1時間問い詰めたいという衝動を抑えながら、
ひとまず全力で否定する。
「…って!む、無理です!私、コミュ症ですよ?選挙活動どころか、人の前に立つのだって…」
「あなたの言う居場所に、ここは良い環境かと思ったのです。生徒会に所属していれば部活に入る必要もありませんし、部室のようにここを使うことが出来る。なにより、貴方なら宇城先輩や私とは違った、新しい生徒会を築くことが出来るのではないかと感じました」
「い…いや…それはまあ、確かに好条件ですけど…。買いかぶり過ぎですよ…それは…」
天草雪白はそれを否定するように首を大きく横に振る。
「木之崎さんと五月さんの姿を見ていて思いました。あのお二方は貴方の言うことを疑うでもなく、それが最善だと信じて行動していました。かく言う私も貴方の考え方や咄嗟の機転、そしてその奇抜な発想を評価しています。貴方には人の上に立って皆を導く素質があるのではないかと感じました」
「最後のほうは誉められてなかった気が…」
私の意志がどうやっても傾かないことを察してか、天草雪白は奥の手とばかりに少しだけ微笑んでから口を開く。
「…それなら、こんなのはどうでしょう」
天草雪白は古びた机をそっと撫でながら言う。
「貴方なら、私と宇城先輩が過ごしたこの部屋を大事に使ってくれると思った。これなら理由になりませんか?」
「…」
その瞬間、私はこの先輩はズルイなと思った。
天草雪白は私がお人好しであることを逆手に取り、理屈よりも感情で訴えかけてきたのだ。
私は大きな溜め息をつき、自分の思いを述べはじめる。
「やっぱり、私たちって似たもの同士なんですね」
「…?」
「幸せな時間がずっと続けばいい。大切な場所を失いたくない。そう思うことは私だってありますし、そのためになら何だってする覚悟もある。だから、先輩の気持ち…私には理解できちゃうんです」
私が天草雪白の目をじっと見つめると、その意図に気付いたのかどうかは判らないが、その綺麗な瞳を大きく見開いた。
「――だから、いつでも来てください」
私はそれ以上反論するようなことはしなかった。
なぜなら、理由はそれで十分だったから。
「きっと今度は、私がここで先輩を迎えます。そして、たくさんの思い出が詰まったこの生徒会室を大切にしていきます」
この瞬間、私に新たな道が生まれた。