Lifriend Louder 2
救急車を呼ばないで、と細く白い腕に力強く掴まれる。藤花はその手に握っていた端末を落としそうになり、慌てて端末を掴み直す。
「すみません、貧血みたいです」
雨に濡れた、というには不自然に顔が光を反射し藤花と目を合わせた瞬時に藤花が認識したのは涙で見間違いではなかったのかも知れない。藤花にはどう反応したらいいか分からず、苦笑いを浮かべる。青年が縋るように藤花の腕を掴んでいる。顔は背けられてしまったが、腕は掴まれたまま。
「すみません」
蒼白い顔。大きな丸い瞳が藤花に何かを求めるように眉と共に眇められ、煌めいた一瞬。その時から立ち去る選択肢は奪われていたのかもしれない。藤花は溜息を吐く。
「救急車呼ばなくて本当に大丈夫なワケ?」
項垂れてこくりこくりと頷く青年を横目で見て、あの“ギャル”を探す。雰囲気も格好もこの神社には場違いだ。
「君、どこの子?高校生?学校は?今日平日だよね?」
平日の昼過ぎ。青年は首を振る。不登校。または高校生には通っていない。珍しいことではないような、この御時勢では珍しいような。どちらともはっきりしない反応に藤花は黙る。
「おれ、大学生だから」
項垂れたまま籠った声がする。藤花は呻くような声を上げた。随分と年下だと思っていた。
「ここには何しに来たの?もしかして何かに取り憑かれてたりするの?」
あの“ギャル”はどこに行ったのか。不愉快極まりないあの笑い声を聴覚に意識を優先させて探してすらいる。あれは何なのか。青年には見えているものなのか。青年は気付いているのか。大学生と謎の女子高生の格好をした下品な女。探るように訊ねる。自分でも突っ込んだ質問だと藤花は思った。青年は項垂れたまま否定を口にする。
「何かに取り憑かれてます?」
藤花のことを問うたのか、それとも藤花に問うたのか。あの“ギャル”がどちらに取り憑いているのか。
「昨日はどうも」
「何が?」
聴覚に集中していたせいで青年の話を聞き洩らしたのかと思った。
「おれ、川、落ちたでしょ」
「あれ?嘘。あれ、君?」
言うんじゃなかったとばかりに青年は嫌な表情を浮かべる。
「世話になりました」
「いや、別に私は何もしてないんだけどサ」
気付けばまだ手首を握られている。青年も放すことを忘れているようだった。
「迷惑掛けてすみません」
もう一度言われたその声は冷たい。他人の手を握っているということを忘れているのか、青年の手が藤花の手首を潰すような力で握る。
「絶対大丈夫じゃないよね?」
微かに震えている青年の手を藤花がもう片方の手で掴んで放させる。藤花の予想とは違い、容易に放された。真っ白い顔で大丈夫です、を繰り返す。
「やっぱ何か取り憑かれてるんじゃない?」
言ってみてから藤花は後悔した。胡散臭い占い師や宗教勧誘のようだ。そのうちに価値も分からない壺の話まで自分がしだすのではないかと首を振る。青年はやはり首を傾げた。何のこと?誰のこと?この人は何を言っているの?人畜無害そうな顔立ちが、けれど陰険さを帯びた表情で藤花を見る。喋るのが億劫なのか青年は背を丸めた。藤花は背中を摩る。背骨が浮き出て、固い感触だ。
「あたし早く帰りたいんですケド~」
藤花のものではない女の声に藤花は声の方を反射的に向いた。雨の中、傘も差さずに立つ女。雨に濡れることを厭わず、短い丈のスカートから伸びる素肌を出して。曇りの中で膝の少し下でルーズソックスが光るように白い。青年に合わせて屈んでいる藤花は“ギャル”を見上げる。今まで青年を見ていた、どこかの部族あるいはアライグマのような目が藤花を一瞥した。ただでさえメイクで強調された目元が白塗りになって、異様さが増している。口をぱくぱくと動かす。生きた人間なのだろうか。都市伝説の、例えば口裂け女、例えば人面犬、そういった類のものではないのか。青年は何も言わない。
「いつまで居ンの?あたしここヤなんだケド」
“ギャル”は小指を耳に突っ込んで、青年に悪態を吐く。雨に濡れることに何の頓着もなく、手水舎の軒下に入ることもせず。
「ちょっと、まこっちゃん、話聞いてンの?」
青年の体調が悪そうであることを気にもしない。雨に濡れることにも。不機嫌なカオで“ギャル”は青年を見下ろす。人間、なのだろうか。藤花の中で秤が傾く。人間か。人間だ。
「あの、ごめ、んなさい・・・」
青年の背に回した手をおそるおそる引っ込める。そういうつもりではなかった。誤解なのだと。“ギャル”は「はぁ?」と大袈裟に訊き返す。
「ああ、なるほどね」
小悪魔というよりもほぼ、想像するような悪魔と同じ笑顔で“ギャル”は1人納得する。ぎゃはは、と笑って、確信する。藤花が何となく追っていたのはこの女だ。
「先に帰っていてくれ」
青年が“ギャル”から目を逸らし、俯いて吐き捨てるように言う。破局寸前のカップルなのだろうか。それとも自分のせいかと藤花は青年と“ギャル”を交互に見遣る。
「ねェ」
“ギャル”が声を掛ける。藤花と青年は同時に“ギャル”を見た。
「まこっちゃん顔ばっかりのつまらないオトコだから、悪いコト言わないケドやめときな?」
語尾にハートマークがつきそうな明るい声音。だが見た目は人間になりかけているアライグマのようで恐ろしい顔をしている。
「こぶら」
青年の口から飛び出た唐突な単語に藤花は耳を疑った。この場にはあまりに無関係な名詞。
「こぶら?」
目が点になりながら藤花は訊き返す。その様が滑稽に映ったのか、ぎゃはは!と“ギャル”は下品な笑い声を上げる。青年は一度だけ呼んでまた俯いた。藤花は“ギャル”を観察してしまう。
「あたし先帰るわ~」
真顔に戻った“ギャル”が青年を見つめたあと、背を向ける
「え、ちょっと」
この青年は、と藤花は呼び止めようとするが青年が藤花の肩を掴んだ。
「カノジョじゃないの?行っちゃったよ?いいの?」
は?と青年が藤花を訝る。変な質問をしたつもりは藤花にはない。青年は何も答えず、息を長く吐いて、手水舎の天井裏を仰ぎながら柱に身体を委ねている。
「貧血?いつまでもここにいると身体冷やしちゃうんじゃない?雨だし」
血行の悪げな顔を覗きこめば青年は藤花の腕を引いた。バランスを崩してそのまま青年の腕の中で誘われる。立ち上がろうとするも、青年の両腕によって藤花は身体を引くことが出来なかった。ふわりと鼻腔を、淡い花の香りが擽る。自然の花ではないだろう、おそらく洗剤だ。そして混じる、柔らかい布団に包まれているような、安心感を覚える匂い。七原に触れられた時に脳内に広がった光景と、また別の角度で、同じ場所。鼻から得た情報が脳内をまたここへ連れてくる。けれどこの青年とこの場所で会うのは初めてだ。謝ることも拒否することも忘れて匂いがもたらした脳内の正体を追う。この神社で、まだ石畳も敷かれておらず、この手水舎も古く、玉砂利もなかった頃。青年の肩口に鼻が押し付けられたまま藤花は虚像を辿る。2体あるうちの片方の狐の像だけは崩れたままだったことだけは変わらない。




