Lifriend Flower 10
湿気を含んだ風が心地良い。曇り空がわずかに晴れはじめてきた。この空は居場所を知っているのか。昔見たアニメのように空を飛んで行ってみたい。鳥の群れが遠くで飛び立つ。カラスが近くのマンションのベランダに留まる。空に身を委ねるリスク。手摺りに背を預け、居間を見つめる。レースカーテンがわずかに揺れる。暮らしていた。夢の中の男と。センスのない作られすぎだがすでに肌に馴染んでいるこの部屋で、確かに暮らしていた。ぽつぽつと思い出していく光景。だが全ては思い出せないまま。ブラウンのソファで寝てしまう同居人に何度もブランケットを掛けた気がする。無意識に榛名に歯を立てられた首に触れて、そして思い出して、気が重くなる。裏切っているのでは、と。いや裏切っている。何度か指が肌の上を往復した。リビングに戻り、ソファに座る。このソファは覚えているだろうか。小さな身体の重みと温もりを。
シャワーを浴びた後、外に出る。いつもはランニングをしていた。日課だ。何故。ふと疑問。誰かのために。誰か。ランニングルートとは反対方向に進みながら考える。スモークピンクのスカンツに、腕部がシースルーの黒のトップス。デニムジャケットを羽織り、足元は白のエナメルサンダル。ヒールの高いサンダルを見つめると理由もなく胸が締め付けられた。小柄な身体が玄関にあるような気がして。
「行ってきます」
専業主婦だった。指で頭を小突かれるような感覚だ。言われていた挨拶を言ってみて、それからまたひとつパズルのピースが当て嵌まる。
行ってらっしゃい。玄関が閉まり切る直前、そう聞こえた。冷蔵庫の中が何もなかったことを思い出しスーパーへ向かう。いつ通ってもこの辺りの住宅地は隙なく手入れが行き届き、まるでひとつのテーマパークだ。時間帯的にはあまり車の通りが多くはない横断歩道に立つ。ここで初めてあの男と喋った。榛名と初めて、面と向かって2人で話した。雨の日の夜が初対面ではなかったのだ。そしてここで「中村サン」と呼んでいた。あれは本当に自分なのだろうか。記憶の中で榛名が立っていた場所を見る。それなら何故、初対面を装ったのだろうか。信号が青に変わっている。短い横断歩道だが見通しが悪いため事故も多いようだった。少し西に行くだけで大通りと商店街に続く。
中村サン。榛名はそう呼んでいた。けれどその後のことを覚えていない。似合わない黒く長い髪が印象的だった。だが他人の見た光景のようで自分の中のものだとは思えなかった。最寄スーパーである程度の食材を買う。変わらない生活のはずだ。少なくとも佐伯には。気にも留めなかった日常の数々の疑問を除けば。スーパーの中の品揃えも帰り道の風景も、何も変わりはしていない。両手のビニール袋。隣に誰かいたのではないか。いつものようにアパートに戻り、いつものように冷蔵庫へ買った物を入れていく。好きではない牛乳も、消費期限が切れていたからという理由で買ってしまった。ふいに同居人の自室が気になった。これも今まで全く気にすら留めなかった。佐伯の部屋のすぐ隣。まるで無いも同然だった閉まった扉。ドアノブに手を掛けた瞬間、ばちりと静電気と思しき痺れが走る。反射で手を引っ込めてしまうが佐伯は再びドアノブに手を掛ける。佐伯の手に骨張った小さな手が重なった。佐伯よりは大きく太い手だったが、佐伯は瞬間的に小さな手だと思った。
ダメだよ。耳元でそう聞こえた。肩に顔が乗っているような感覚さえあった。
「は、やて?」
ほんの一瞬の出来事。気のせい、で済むほどに現実みはなかった。
「開けちゃ、ダメ?」
男性にしてはやはり幼さの残る手だった。触れられた手の甲に触れる。返事はない。気のせいだと言われたら、自信がない。見られたくないものがあるのかもしれない。記憶にない同居人の強い意志がそうさせるのか。
「分かった、開けない」
背に何か質量を感じた。こつん、と右肩辺りだ。服をきゅっと軽く引っ張られるような、爪を立てられるような感触がする。ほんのわずかに佐伯のほうが背が高かった。
「男の子だもんね」
男の子などという年齢ではない。温もりのない感覚が微妙に動いた。ドアに手を添え、佐伯は俯いた。
「はやて」
気安く呼べる関係だったのだろうか。そして気安く呼ぶことに違和感が拭えない。
「どこにいるの」
右肩に当たったままの質量のある感触がぐりぐりと、まるで頭部を押し付けているかのようだった。
「帰ってくるんだよね?」
事情も理由も何も知らない。榛名が行方不明だと言っただけ。今背後のにいるものはいつもの夢なのだろうか。可愛い忠犬が待っている。記憶の抜けた落ちた女と共に。
「早く帰ってきてよ」
そうすれば思い出せるはずだ。そうすれば首筋に噛み付かせた大型犬のことも、これ以上。
背に貼りついていた腕が佐伯の腹部に回される。抱き締められているような体勢になるが両手がかさなったところから腕は薄くなっていく。また何も言わず消えてしまうのか。
「はやて」
子供のような手が完全に消え、背にまとわりついている質量も軽くなっていく。ドアノブから手が滑り落ち、ドアの前でしゃがみ込む。ごめん。目を瞑る。フローリングが光る。榛名が噛み痕をつけた首を撫でる。
名前を呼ばれて雑誌を閉じる。佐伯が橋に座り、ソファの大半を中村が肘置きを枕代わりに眠っていた。掠れた小さな声は確かに佐伯に聞こえていて、中村のほうへ目を向ければ目元に腕を載せて、隙間から佐伯を見ていた。小さな目が変に反射している。潤んでいる。もう片方の手が佐伯が掛けた植物柄のブランケットを握りしめている。
何か飲むかと問えば中村は小さく首を振る。目元を腕で覆い隠して、大きく息を吐いている。大丈夫かと問えば首だけ動かした。キッチンに向かって数種類ある紅茶を選ぶ。マスカット風味のルイボスティーにした。中村が選んだスケルトンカラーのポットで淹れる。テーブルに2つのカップを置いて佐伯はソファに座った。中村が上体を起こして縋り付く。額を佐伯の肩に押し付け、腕を掴まれる。同い年の男が甘えている。何も訊かない。強い赤みを帯びた琥珀色が天井を映す。何も言わず、何も訊かず佐伯はルイボスティーを飲む。甘さも苦さも特にこれといった味はない。酸味を残すだけ。中村が食後に一時期飲みたがり、そしてそのブームが過ぎて余ったままだった。
小さな子どものような中村を暫くそのままにしてテレビを点ける。最近よくテレビに出ている芸人の笑い声。大御所俳優の訃報。政治家の会見。チャンネルを変える。違法薬物で逮捕された男のニュース。元アイドルの不倫報道。画面上部の天気予報。
怖い夢を見た。中村がそう言ったのはカップラーメンのコマーシャルが終わり、化粧品のコマーシャルが始まる頃だった。ワンテンポ遅れて中村へ顔を向ける。顔を逸らすように中村は温くなりかけているルイボスティーに手を伸ばす。昨日ハルナが来ていた。ハルナが来るからとホラー映画を借りて来ていた。ハルナが持って来たピザ3箱を開けて2時間弱ある大人気のゾンビ映画を3人で観た。もしやそれか。ルイボスティーを一気に飲み干す中村を見つめる。怖くて寝られないんじゃないかとハルナをからかっていた。
ベッドのシーツを洗ったままでまだ掛け直していない旨を中村に伝えると中村はきょとんとして首を傾げた。目が少し赤い。もう寝るんじゃないのか。中村はまだ寝ないと笑ってテレビを観はじめる。
今度どこか行こうか。いつになく真剣な表情をして中村が言った。どこか行くという話をしているとは思えない顔。佐伯は洗濯物を取り込んでいるところだった。黙ったまま中村を見つめると、中村は一呼吸おいて軽い笑みを浮かべた。佐伯の取り込んだ洗濯物のタオルだけを引っ張りだして畳みはじめる。中村はタオル類しか畳めなかった。
水族館がいいかな。動物園がいいかな。モチーフ探しに植物園もいいとひとり楽しそうに喋りはじめる。それが佐伯にはどこか無理しているように思えた。佐伯はなるべく明るい声で相槌を打つ。その日の夜、寝る前に水を飲もうとリビングに行けばキッチンにだけ照明を点け、中村が暗いリビングのソファでぼうっとしていた。まだ寝ないの。もうすぐ寝る。やりとりは簡潔だった。寝られないの?と問えば、眠そうな瞬きが目に入る。だが寝ようとしていないように思えた。少し困ったカオをして中村は肯定も否定もしない。中村の前に立ち、額と額を重ね合わせる。体温は普通だ。両頬を包む。熱くはない。
とりあえず布団入ろう。
中村は布団に入った佐伯の背に頭を押し付けて、どこか行きたい?と訊いた。考えておくね。うん。おやすみ。おやすみ。すぐに寝息が聞こえ始める。穏やかだけれど、どこか切なく思った。
行ってらっしゃい。毎朝玄関で言っていた。絵に描いたような家庭。佐伯には父親がいなかった。アニメや漫画、ドラマで見た夫婦が毎朝出勤を見送り、見送られることが現実でよくあることなのか否か、佐伯には分からなかった。だがあの男が佐伯に、ひとつの答えとしてそれを与えてくれた。その機会を、日常を。佐伯が屈みこむ同居人の自室の扉の前から、同居人が毎朝出て行く玄関扉を見つめた。まだ取戻しきれていない記憶の中で浮かべている愛らしい笑みを浮かべて今すぐ帰ってきそうだった。




