Lifriend Flower 7
なんで私に構うの!教室の入口に背を預ける中村を無視して通り過ぎようとすると、足を伸ばして佐伯が進むことを阻む。
あんたが―――をいじめるからだろうが。
呆れ半分、嘲笑半分、中村は嫌味な笑みで地味子の名を出す。
だってそれは。言い訳しようとしてもそれらしい理由は出てこない。姿を見つければ嫌味を言ったり嘲ったりしただけだ。
あいつは関係ないだろ、冷静になれって。まだ付き合っている最中のカレシが惚れて告白して、そしてそのカレシがフラれただけだ。あの地味子には何の落ち度もない。
くだらねぇコトしてねーで、明るくいこうぜ。
嫌味な笑みが消えていく。
交際中に他の女に惚れる男なんてお前から捨ててやれ。
よく知りもしない隣のクラスの初対面同然の男に何を説教されているのだろう。
アンタに関係なくない。踏み込んでくる陽気な男。
関係ないケド、見ちまった以上はね?
で、何?どうすればいいワケ?気楽で自信家、嫌味っぽ喋り方とカラカラした高めの声。
いじめなんてカッコ悪ぃって。
私、いじめなんて別に。馴染めない雰囲気。呑まれそうだ。穏やかな笑みを見ていられない。
おれと付き合う?
交際中の他の女口説くのはアリなの?小柄な身体が大きく見えた。
中村は心底楽しそうに笑う。そしてまたな、と自然に言うのだ。またな?訊き返せば挑発的な笑みを浮かべて中村は隣のクラスへ戻っていく。小さな背中から目が離せなかった。
―――、いじめられてるんだって、いくらなんでも酷くない。
下世話な廊下に響くきゃいきゃいとした高い声は陰湿さを秘めている。地味子がいじめられているという噂は佐伯の耳にも入っていた。中村が言ってきた。淡々と、平然と。責めることもなく、軽蔑の眼差しを向けることもなく。
だから何。地味子と何の関係もない。接点がない。お下がりのカレシを拒絶されたという点を除いては。
別に~、いちお、報告だよ、報・連・相は大事じゃん?
中村は意味ありげに笑う。ふざけて、それから教室に帰っていく。
カレシ奪られたからってフツーそこまでする?
廊下から聞こえる話もおそらくたまたま佐伯と同じ境遇にいる誰かへの非難で。まだきちんと別れてすらいない。地味子に嫌がらせもすでにやめた。中村が煩わしいから。
そうだ、こうしよう、君が彼女をいじめる度におれが君の元に来よう、写真撮らせてよ、あ、おれに会いたいからってダメだぞいじめちゃ。
アンタほんとに何なの。
トイカメラを向けた中村に佐伯は顔を手で隠した。中村が煩いからやめるのだ。バカらしいとか本当は何の意味もないとか、そのような理由ではない。佐伯には何の心当たりもない。地味子は何も悪くなかった。機嫌の悪さの矛先に丁度良かった。それだけ。そしてもうそのことに何の発散も見出せない。
放課後に校庭を見下ろせば中村がトイカメラとは違うカメラを首から下げてリフティングしている。危ない人だと思いながら、小さな身体を見つめる。まだ成長期だと信じて疑わず牛乳パック片手に廊下を歩いていることもある。
何見てんの?
声が掛かって佐伯は振り返る。隣でメールを見つめる友人が佐伯に問う。興味はないのだろう。ただ2人で居るのに携帯電話と睨めっこであることの負い目からか。
何も見てないよ、晴れてたから。
中村はマジでない、と言っていた。佐伯は外を指で差して、それらしいことを言う。友人は何それ、と鼻で笑った。それを掻き消すように廊下から複数人の女子の馬鹿笑いが聞こえる。携帯電話から顔を上げた友人が不愉快そうに眉を顰めた。続けて廊下を歩いてくるのは水滴を垂らす地味子。雑巾同然にびっしょりと濡れて廊下も水で濡れている。
何、してんの。佐伯とは違う茶色の髪が小顔に貼りつき佐伯を泣きそうな目で見上げた。低い声で拒否するような声音で、何故かそう問うてしまった。他に言うことがなかった。すでに無関係だ。地味子は佐伯に何も返さず、重たそうに身体を引き摺って廊下を歩いていく。
何、どうなってんの?誰?
驚いている友人に、何でもない、とだけ返す。
地味子、いじめられてるんだって。耳に入った噂に何の清々しさもない。
大きな犬に甘えられているような感覚だった。座っていた榛名が立ち上がろうとして佐伯は仰け反る。フローリングの床に押し倒されそうな、だが押し倒されない中途半端な体勢で榛名が離れるのを待つ。首の内部が引き攣られるような痛みがあり、身体が冷えていくようだった。榛名の背に爪を立て思考が麻痺していくのを堪える。榛名の背中越しに見えた茶金髪の男の姿はもうなかった。
「もう、いいの?」
吸血される痛痒さが止む。大きな図体の子どもをあやす要領で榛名の後頭部へ腕を回して軽く叩く。捕食されそうだと思った。だが佐伯の胸の奥は心地良い温かさが広がっていく。春の日差しに包まれているような。深い眠りに誘われる。鼻に届く榛名の香り。様々な匂いが混じっていても榛名という男を強く認識させる。ずっとこの中に抱かれていたいと佐伯は思った。榛名の背から滑り落ちそうになる手を放せばこの時間が終わる。それを恐れた。固く熱い榛名の腕の中。帰るところはここなのかもしれない。
「ごめ、ん、なさい」
震えた声で榛名は謝る。誰に向けたものなのか。
「忘れて、全部。何も悪くないから、何も」
床に膝を着き、落ち込んでいる榛名の腕から出るとまた額と額を重ね合わせる。温かかった。
「大、丈夫っス、オレ、大丈夫っス。りっちゃんこそ、忘れて」
大丈夫、という様子ではなかった。力無く佐伯の肩を掴んで無理矢理笑みを貼りつけた。
「私にやましいことはないけど、なっちゃんはあるんでしょ」
やましいことは何もないのだ。窓際に立つ茶金髪の幻影でさえ。
「あるんス」
ほらね、内心同意すれば榛名は「りっちゃんにも」と続け、佐伯は眉を顰めた。
「“てっちゃん”のこと軽んじないで」
斬り捨てられた、そう思った。全て仕方ないこと。葛藤に負けさせたのは佐伯自身。榛名を惑わせた。そこに何が得られるのかといえば独り善がりな満足感。榛名は忠犬で、飼い主は“てっちゃん”であり佐伯ではなかっただえかのこと。
「分かった。それなら尚更、なっちゃんは忘れて」
渋い表情で見つめられる。気付かなかったフリをして佐伯はカウンターキッチンへと戻る。珈琲だけで十数種類、紅茶、ココア、緑茶で数種類揃っている。ここに住んでいる人はとことんこだわるタイプなのだろうか。それも思い出せないでいる。
「珈琲飲める?ココアがいい?」
「構わなくていいス」
「まだ話、終わってなくない」
話す気はあるけれど、訊きたいことは訊けないまま。
「珈琲で頼むス」
海外の珈琲の袋を見比べながら有名な国産メーカーの物を選ぶ。佐伯は珈琲にこだわりはない。
「いつも“てっちゃん”が淹れてくれたんス」
室内に漂う珈琲の苦味と酸味を含んだ匂いにぽつりと榛名が口を開いた。窓から入る曇天なりの光が横顔を照らす。曇りの日の部屋の暗さが佐伯は好きだった。離れたところで世間を傍観しているようで。
「私、あまり上手くは淹れられないよ」
相当こだわりがあることが珈琲の種類以外に器具などを見ても分かる。おそらく自分も飲んでいたのだろう、佐伯は食器を見回しながら思った。
「そういうつもりじゃなかったっス。オレも味の良し悪し、結局分からなかったし」
「分からなきゃこだわっても結局こだわってないのと同じなのかもね」
「“てっちゃん”もそれ言ってたスよ。でも分かる人がそれで満足すればいいって言ってたっス」
弱った笑みを浮かべる忠犬を佐伯は見つめた。恩人だ、裏切れないと言っていた。どういう関係なのか、世間に隠したい関係なのでは、とも思って、佐伯は乏しい語彙から選び取っていく。
「“はやて”となっちゃんの関係も?」
「どっちかっていうと“てっちゃん”とアンタじゃないんスか?」
お互いに首を傾げる。問いを問いで返される。回りくどすぎて通じていない。
「でもその場合満足してるのオレだけスね。りっちゃん、覚えてないんすもん」
付け足される言葉に微かな痛みが胸を走る。飼い主の円満を望む誠実で可愛い駄犬。
「だからオレが背負うス」
穏やかに榛名は言った。マグカップの中、液面に映る自身の顔を佐伯は見られなかった。
大変よろしくない。小さな訪問者に佐伯は訴えるように溜息を吐く。今日は何の用なのか。おそらくカレシの話か地味子の話。余計な世話だ。
何が?私はあなたの日記帳?
おれの日記帳になってくれるならありがたいね、思い出を刻んでいこう、最近物忘れ激しくて。
で、何の用なの?本題はなにか。もう付きまとわないで、というのを飲み込んで話を促す。僅かに怒気を孕み出す中村に地味子の方だと佐伯は察した。案の定、中村の口から出たのは地味子の話。トイレで水を掛けられたらしい。その後のことならば佐伯も目にした。中村が疑っている。あれは私じゃない、とは言えなかった。中村が信じるかといえば自信がなかった。弁解も上手くない。中村は疑っているのだ、最初から。
アンタあの子の何のワケ。返せた言葉はそれだけ。中村は意外そうなカオをして幼馴染、とだけ言った。
じゃああの子が私にいじめられないように監視でもしたら。否定すればよかった。そう思ったが口が上手くないのを佐伯は自覚していた。話すのもあまり好きではなかった。中村は呆けた面をして佐伯を見上げる。いいの?という間抜けな声と謎の許可の問い。
知らない、別にいいんじゃない、私に関係なくない。中村の自信に溢れた嫌味な笑みが消え失せた幼い顔に、見てはいけないものを見た気がして佐伯は目を逸らす。
この会話の次の時間から中村は佐伯のクラスにやって来ては佐伯の近くでクラスの者と関わりはじめた。女子の持っているブランド品の話、男子が食べているパンの話、有名な喫茶店の新商品、高視聴率のドラマ、この前結婚した芸能人、話題は尽きない。もともと人好きのする人気者だ。男女問わず人を集める。地味子の監視をすると言っておきながら中村は地味子を放っておいている。口だけの偽善者。内心罵りながら佐伯は教室を後にする。友人は別クラスのカレシの元でよろしくやっているだろう。他に親しい者はいない。他は結局、上っ面の関係でしかなかったから。中村に居場所を奪われて校舎を歩く。廊下に置かれたゴミ箱の近くにおそらくゴミ箱を外したらしい丸められた紙くずが落ちていた。何の意識もなく佐伯は拾う。ゴミ箱に入れようとした時に目に入る上履き。確認せずとも誰の物かすぐに分かってしまった。
何してんの。中村の声。追ってきたのか。振り返る。ゴミ箱の前に立って中を覗く佐伯の姿は滑稽に映ったことだろう。真面目な面持ちできつく佐伯を見つめる中村。何も言葉が浮かばない。何もしてない、関係ないじゃん、それすらも。何も言わず、何も言えず佐伯と中村は見つめ合う。
中、何か入ってんの?訝しむ中村が佐伯の方へやって来る。ゴミ箱を乱暴に掴み、中を確認して佐伯を一瞥した。その瞬間に再び視線がかち合う。眉間に皺を寄せて中村は何も言わなかった。無理矢理繋がったままの視線を千切って佐伯は立ち去る。待てよ。中村の制止の声も聞かず。
別にそこまでしなくてよくね?投げ掛けられる言葉は誰かに向けられたものではなかった。だが決められた誰かを指していて。この前までは仲が良かった、否、やたら一緒にいる子だった。佐伯は黙って聞き流すだけ。佐伯に向けられたものかもしれなかったが、佐伯に投げ掛けられたものではなかったから。聞く必要はなかった。言い返す必要も。耳に入っただけで、耳に入れるよう仕向けられているだけで。さっさと別れろよ。舌打ちと共に聞こえたのがおそらくは核心だ。
廊下を歩く度に見かける全てが敵のようだ。佐伯のことに微塵も興味の無さそうな人々。
別れているのも同然だ。はっきりと別れた話はしていないけれど見た目だけのカレシも“次”を狙っている。すぐに乗り換えられるように。潮時だとは思っていたけれど。
なぁ、さっちゃんさ、いや、さえの方がいいかな。能天気な声。佐伯は振り返る。背後からひょっこり現れる。たけのこのような、きのこのような男。春を知らせる冬のふきにも似ている。
誰。中村の呼ぶ人物は自分だという確信はある。だが佐伯は中村を睨む。
おっ、さえがいい?おれ的にはさっちゃん。
中村が唐突な内容を問う。どちらも断る旨を伝えれば、中村は困ったカオをして、でも下の名前で呼べないじゃん?と砕けた笑みを浮かべる。好きにしたら、と問えば、なんかおれがイヤ、と鼻の下を掻く。変な人。付き纏ってくる鬱陶しい男。今回の本題は何かと切り出せばふざけて緩んだ顔が真面目のものへと変わる。地味子の話か。どうせまた責められるだけ。話を促したのは佐伯だが中村へ背を向け直し、教室へ向かう。すぐ後ろで中村を見つけた別の男子が中村に話し掛けたようだ。
俺たちやっぱ別れるのが自然じゃない。呼び出されてそう言われた。佐伯は自然って何、と訊きたくなるのを堪え裏腹に肯定する。それが自然でそれが正義でそれが法律。それが天命で啓示でこの世の秩序。だからこのまま別れようかという話になるかと他人事のように考える。惜しいと思う、何かがもう消えていた。何故渋った答えを繰り返して、情けなく縋って、解放しなかったのだろう。少し前の自分の気持ちが不思議だった。周りの哀れみの目を恐れたのか、それとも見た目だけでも良いカレシにある程度情でも寄せていたのか。
じゃあ自然の通り、別れようか。佐伯の返答にカレシは目を丸くする。え、っと声までつけて。その反応に佐伯も、え?と訊き返す。望んだ答えを言ったはずだ。
もう俺のこと飽きたのかよ。飽きられたのは私じゃないの。感情的になったカレシと冷えに冷えた佐伯の確認。破局は秒読みで他の女子たちも次の番を期待していた。これは別れ話であって今後の相談の話ではない。佐伯はカレシに背を向けた。
待てよ―、話はまだ。名を呼ばれたのが気に入らず、佐伯は睨むよう振り返る。話はもうついたでしょ。このまま別れるのが自然なのではないかという言い分に順接のまま従っただけだ。呼び出された場所から去っていけば、足早に去っていく足音が複数聞こえる。カレシと、カレシを順番待つ彼女等の望み通りの答えをしただけだった。そのままの足で佐伯は中村がボール遊びで忙しがる校庭へ向かう。放課後の校庭は運動部が幅を利かせているが中村は隅の隅にいる。声を掛けることはせず、中村が準備体操をしているのを見つめた。首からカメラを提げたまま。隠れるつもりはなく、かといって声も掛けないまま中村の姿を見つめる。佐伯に気付いた中村はにこりと笑って、その後何かいうことはない。マイペースに準備体操を終え、リフティングを始める。一定のリズムを刻みながら中村の足に跳ね返りながら回っていくボールをぼうっと見つめる。ここに何の用もない。中村に佐伯へ用があっても、佐伯から中村には何の用も。どういうつもりでやって来たのか、そういった理由もない。踵を返したところで中村が声を掛ける。写真一枚どう?と何の脈絡もなく、ここで見ていたこと前提で中村はサッカーボールを地面に転がした。
クッキーや犬、コーヒーカップや花、日常で見る珍しさもない物をメインに洒落た雰囲気や気の利いた角度で撮られた写真が写真立ての中に納まり白く反射している。室内のいたるところに飾られ落ち着かない。佐伯には監視されているような気分がした。雰囲気が作られ過ぎて、センスがない。写真立ての写真のように。だがこの空間に榛名のような美丈夫はよく似合う。コーヒーカップを口に運ぶ仕草は特にシャッターを押したくなる。佐伯が見惚れていると榛名と目が合い、瞬時に俯く。
「ごちそうさまっス」
榛名は空いたコーヒーカップを静かにガラスで出来たテーブルに置いた。
「もう一杯どう」
「いえ、いいっス」
引き留めて、でも話すことはあるにはあるけれど気が進まないまま。
「“てっちゃん”となっちゃんとのこと、もっと聞きたかったな」
“はやて”と自身の関係を訊くのが怖いから。だから逃げていく。ひく、と榛名の眉間に寄せられた皺が動いた気がした。
「前のアンタは随分嫌がってたっスから、オレのこと。だからちょっと驚きっス」
前のアンタ。覚えがない。榛名のつまらない冗談の続きか。そういった雰囲気は感じられなかった。
「嫌がってた?」
「かなり。でもこんなナリですから、仕方ないんスけど」
初めて会った、と佐伯が認識している時では想像もつかない柔らかい笑みを榛名は照れ臭そうに浮かべた。
「“てっちゃん”はそういうの気にしないみたいっスけど」
夢の中の男、ふと記憶の端々に現れるちょこまかとした男。榛名とは何の接点もなさそうな質素で貧相な男と榛名が同じ世界の人間だとは思わなかった。2人並ぶとなると尚更。
「どこの職場でも上手くいかなくて荒んでた時期でしたから。人懐こくて明るい“てっちゃん”によく話とか聞いてもらってたんス」
どこの職場も。以前榛名は仕事のことについては触れるなと言っていた。自らその話をすると思わず佐伯は訊いてもいいのか迷ってしまう。・
「小さい頃から夢見てた・・・仕事あって。まぁ就けたんスけど、長くは続かなかったんス。その次の仕事も、夢はあるんスけど、なんていうか、理不尽で。別の店探せばよかったんでしょうけど、どこもこんなものなのかも、って」
榛名の言う、榛名を嫌っていた自分はこのことを知っていたのだろうか、佐伯は榛名を見つめる。柔らかい雰囲気を漂わせたまま窓の外を眺めている榛名の瞳にレースカーテンが写っている。ベランダの外には最近開放された緑の公園が見下ろせる。
「もうムリだ、もうダメだって時に“てっちゃん”に会えたんス。写真撮影の現場にたまたま居たオレを覚えていてくれたみたいで」
榛名は“てっちゃん”を覚えている。綺麗な思い出として。だが佐伯には夢に現れて、時折記憶に現れる程度のことしか思い出せない。
「なんで私だけ、忘れちゃったんだろ」
佐伯が呟いた。榛名の眉がふたたび顰められる。膝に爪を立てて、佐伯は皺が寄るスラックスを見つめた。
「“てっちゃん”の大事な人だからに、きまってるじゃないスか」
「でも忘れっちゃてるんだよ。大事だったのかな」
気分も表情も曇らせて佐伯は俯いてしまう。
「大事だからスよ。だからすぐ消えちゃうんス。薄れちゃうんス。失いたくなくて直視できないんスよ」
榛名も曇った顔をしていた。弱々しい声だが静かな室内には十分だった。榛名の人生にもそう思うことがあったのだろうか。何も言えず黙る。伏せられていく榛名の長い睫毛が音を立てそうだった。大事なはずなのに忘れてしまって・・・
「あ、そういえば、指輪、見つかったの」
思い出して佐伯は指輪を嵌めた手を榛名に見せた。
「騒がせちゃってごめんね、見つかったんだ」
一度伏せた目を大きく見開いて佐伯の指を凝視する。
「見つかったんスね。良かった」
切なく笑って榛名は視線を床に落とす。いつの間にか嵌められていた指輪。昨夜までは見つからなかったはずだ。そして佐伯に昨夜の記憶はない。
「なっちゃんが見つけてくれたの?」
榛名は何も答えなかった。ただ床に落としたままの双眸を閉じるだけ。佐伯は小さく息を吐く。
「夢の中に出てくる人がいるの」
無意識に膝の上で組んだ左手の薬指を撫でる。榛名が伏し目がちに一瞥した。
「その人が昨晩も出てきて、指輪渡してくれたんだ」
指輪のアームを右手で辿る。錆びて歪んでいる。おそらく高価な本格的な物ではないのだろう。
「だからビックリしちゃった」
「りっちゃん訊いてこないし、聞きたくないかも知れないスけど、」
静かな、だが凛とした声は耳に心地良いが嫌な予感を伴っている。
「行方不明なんス」
落ち着いていた。“てっちゃん”に対して駄犬のような榛名は半ば諦めた顔をしてそう言った。ガラス玉のような眼球が煌めいている。外の曇った光を借りて。
「誰が・・・っ」
主語がない。だから受け入れられずに済む。幼稚な理論。だが感情はそうはいかない。返事はなかった。誰が行方不明なのかは話の流れですぐに分かってしまう。榛名の前置きは何の慰めにもならない。
「アンタが供えてくれたカーネーションに引っ掛かってたんス」
榛名が可愛がっていた猫の墓に供えた白いカーネーションのことだろう。
「偶然だとおもうんス。オレ、あんまそういうの、信じないし」
そういうの。どういうのか。明言することを避けている。それは誰のために。
「なっちゃんの猫が見つけてくれたんだね」
そういう風にこそ、佐伯は思わなかった。だがそうしておくことの方がいいと思った。榛名の目元が少し引き攣ったのが見えた。とぼけて的外れな返答に呆れたのだろうか。
「・・・そうだといいんスけど」
独り言なのか、ただの同意なのかは分からない。佐伯はまた左手の薬指を撫でる。元の色が分からなくなるほど錆び、歪んでいる。やはり安物なのだろう。
「りっちゃん」
縋るような目で見つめられ佐伯はどきっとした。
「言うつもりなかったんス。でも・・・すみません、アンタに慰められるの、待ってたのかも知れません。勝手な男でホント、すみません」
計算してやっているのか。疑いたくなるがおそらくこの短い関わりの中でこの男だ愚かなほど素直だと気付いていた。
「気にしないで。なっちゃんは勝手な男なんかじゃないよ」
ソファに身を預けていた榛名の上半身が持ち上がる。テーブル越しの佐伯をめがけて前にのめる。佐伯の肩に触れて険しいが端整な顔が接近した。




