Lifriend Flower 6
ごめんね。真っ白い部屋には誰もいない。あの茶金髪の男がいつも立っていた窓の前も。佐伯は確認してそう内心呟いた。水浸しの床に波紋が広がり、カーネーションが揺れるだけ。レースカーテンは死んだようだ。応えは何もない。
ごめんね、あなたのこと。窓の外は光に溢れている。あの茶金髪の小柄な体躯がないだけで、眩しすぎて直視できない。
あなたのこと、何も。カーネーションが揺れるだけ。レースカーテンはひらりとも動かず。
何も、知らないの。佐伯以外は誰もいない部屋。レースカーテンと窓の光りが迫るように大きくなっていく。
好きな人デキたから別れてほしい。美男美女カップルと噂され、おだてられていた。佐伯は告げられた言葉に目を見開く。長身で窪んだ眼と薄く広い二重瞼。黒い髪がセットされ、スタイルの良い美男子。性格も明るく軽そうな印象はなく、クラスのしっかり者という図像。どういう出会い方をしたかは忘れたが気が付けば周りに押されるカタチで“美男美女カップル”を演じさせられていたようにも思う。だが佐伯を頷かせなかったのは、そこに本当に恋愛感情があったかどうかよりも、意地だった。押し付けられた羨望、勝手な憧憬の裏返しにある同情とやっかみ。佐伯は首を縦に振ることはなかった。高校という狭い枠の中で相手を選ぶ、選ばせられる。周りの節介と迫られる理想像にすでに押し潰されている。見た目だけ、見た目だけ。誤魔化し慣れていく脳。性格も悪くはない。何の刺激もないことを除けば。
教室から見下ろした校庭ではその美男子が穏和そうな女子にしきりに話しかけている。隣のクラスの地味な、だが可愛げのある子。佐伯と違い小動物を思わせる雰囲気を持っている。佐伯に見せたことのない自然さと柔らかさを帯びた笑み、立ち振る舞い。佐伯と共に居た友人の気不味そうな表情を横目に見る。掛ける言葉が見つからない、下手なことは言えない、というのを隠せるほど場数を踏んだ歳でもない。全て佐伯の思い込みなのか。
いいんじゃない、別に、結婚してるワケじゃないし。
こういうのは困る、と言いたそうに美男子に口説かれる地味な女子は身を竦めているが佐伯のカレシは気付くこともなく話し続けている。気が利く空気の読める男だったはずだ。話は得意じゃないからごめんね。カレシはそう言って、だから佐伯も無言の空間に慣れていったというのに。
お~い、浮気からよ~、いい御身分だな~?
美男子の足元にサッカーボールが転がっていく。カラカラとした声と少し嫌味っぽい喋り方。隣のクラスの、地味子と同じクラスの、中村だ。カメラを肩から下げている。写真部の中でもアクティブで、運動も好きらしく度々サッカーボールで遊んでいる姿を見かける。
中村マジであいつバカ。佐伯の横で友人が言った。佐伯はけたけた笑ってカレシにサッカーボールのパスを要求している中村を見つめた。まず小柄。高校2年ではまだ未発達で成長の余地はある。目立つ存在ではあったが顔は地味。醜いわけではないが冴えない。華がない。頭の回転の良さは言葉の端々から時折窺えたが嫌味が効いている。成績は噂で聞かない。おそらく中間だろう。
気にしなくていいと思う、中村バカだから。
横の友人の気遣いにも佐伯は気付かず。カレシと地味子の言い分は聞こえなかった。中村の故意的なくらいの大きな声が校庭に響く。カレシが地味子の肩を軽く叩いて去っていく。地味子がボールを取り戻してリフティングしている中村を少しの間見つめてから校門に向かっていくのを佐伯は見つめていた。
マジで中村、ないわ。疲れた様子の友人がうんざりしている。確かに中村はない。同意して佐伯はミニテストの勉強中だったことを思い出した。
両耳を鋭く細く貫いていくような耳鳴り。悲しくはない、苦しみも、痛みも、喜びもなく頬を涙が滴っていくのを榛名は一度躊躇した指で拭う。
「大丈夫、スか」
落ち着いた低い声。公園のベンチに座ったまま、だが隣り合っているわけでもない。榛名から出た告白は喜ばしいものだったのかも知れないが、もっと誰かの呪縛にも似ている。
「大丈夫ッス」
榛名の声で我に返る。榛名を忘れて支配していた男の顔が消えていく。
「すぐに納得しろとは言わないスから」
「え?何の話だっけ?」
榛名が呆れて項垂れる。佐伯はごめんごめんと謝った。榛名の首筋に残る赤い2点が目に入った。
「ごめんね」
誰もいなかった真っ白い部屋で吐いた謝罪と同じ響きが漏れる。榛名の首筋に伸ばした手は榛名によって掴まれ、静かに下ろされる。
「謝らなくていいんス。“てっちゃん”にはずっと、オレから謝るスから」
榛名が言っていることの意味を問いたかった。疑問は多くある。だが訊けなかった。聞きたくなかった。特に榛名の口からは。それからその答えも。
「私にやましいことなんてない」
不細工な笑みを浮かべて榛名は首を振る。そんなこと言っちゃダメっスよ、口にはしなかったが、だがおそらくそう言ったかったのは伝わった。
「りっちゃんは、」
幾分柔らかい声で呼ばれ、胸がまた疼く。
「オレが背負うから、オレとのことは忘れてください。アンタは“てっちゃん”のことだけ考えて」
続く言葉は鋭い刃のように佐伯には思えた。榛名なりの気遣いが首に巻き付いて甘く優しく締め上げていく。
「なっちゃんとのことって何」
意地の悪さはただの抵抗のつもりで。身に覚えも記憶もない。幻覚と夢に囚われたモラルに佐伯は窮屈さを感じて。榛名が言葉に詰まるのを内心喜ぶと同時に、そういうつもりじゃなかったのにと矛盾した情が押し寄せる。
「“てっちゃん”に申し訳ないって思う瞬間のコトっス」
明言せず、小さな小さな声で榛名は戸惑いながら口にする。そういった状況があとどれほど続くのか。
「私がなっちゃんをさっきみたいに欲しい、て思うこと?」
唇を噛んで地面を見つめる榛名に意地悪が過ぎたと佐伯は思った。
「なっちゃんは“はやて”が大好きなんだね」
「その言葉、アンタから前にも聞きました」
困った笑みを浮かべて佐伯の顔を見上げる。誰に。佐伯に言った覚えはない。それなら誰だろう。“はやて”本人か。いや、佐伯からだと榛名は言っている。
「私が?」
榛名がこくりと頷く。何か騙されているのかもしれない。からかわれているのかもしれない。
「ヤだな、シュミの悪いショーダン」
「今の言い方“てっちゃん”そっくりっス」
榛名は力なく再び視線を地面へ移す。足元を通っていく蟻がチョウの羽根を運んでいる。
「なっちゃん、私のこと知ってるの?」
「忘れたいくらいには」
「私となっちゃんはこの前初めて会ったんじゃないの」
「オレは“てっちゃん”と一緒にいる時から知ってたっスよ」
佐伯は榛名の昔を知らない。はっきりしない榛名の言い方に苛立ちが募る。
「私と・・・なっちゃんてどういうカンケーなの」
「“てっちゃん”を通しての顔見知り。それだけっスからアンタがオレを知らなくても当然ス」
「うそでしょ、だって忘れたいくらいにはって」
「強烈な人でしたから」
やはり榛名のつまらない冗談なのだろう。かわいい男だ。その冗談に乗る。
「何がキョーレツよ、もう!」
「そういう風に笑うんだ、そういう風な優しい声してるんだ、って。オレは別人に会った気分ス」
視線を寄越すことはないが、口元に浮かべた淡い笑み。美しい横顔をかたどる反射。胸が甘く切なく痛む。
「なっちゃん、タラシ」
「へ?」
雄々しく険しい顔立ちが間の抜けた色に変わる。それに満足し佐伯も笑った。
佐伯と―――、別れたんだってさ。噂は1人歩く。いつの間にか収まる日まで待つだけ。或いは故意的に終わらせる。新しい話題が生まれればいいのだ。だが合わさればリスクがある。目立たない奴等の華々しくない生活、目立つ奴等の華々しい生活がこういうところで逆転する。目立つだけ、消費される側になる。別れるときっぱり決まったわけではないはずだ。合意ではないが別れた気になられているなら、もうすでに終わった。佐伯は下世話な廊下を歩く。有名人ではないが全てが自身の、その件に触れているような気がしてならない。神経と理性の折り合いがつかないまま感情へと繋がろうとしていく。
教室から出てきた隣のクラスの地味子と鉢合わせる。小柄で、肩で切り揃えられた茶髪、童顔で大きく丸い目、小さな口、撫で肩。佐伯の反対の要素を備えた外見。性格も穏やかなのだろう。体格差だけではない意味を含んで、地味子を見下ろした。地味子は気不味そうに身を縮こまらせて足早に去っていく。その様が癪に障った。長身を馬鹿にされているようで。体格差の埋まらないカップル像を否定されたようで。
「待ってよ」
地味子と話したことはなかった。昨年も同じクラスになったことはない。
「いい気にならないでよ。陰気なクセに」
怯えた目で顔を歪ませて去っていく。冷たいと陰口を叩かれる声がさらに冷えた。
今のは脅しだなぁ。
背後からふざけた口調に佐伯は振り返る。目線の高さがほぼ同じ。中村だ。ニヤニヤとしまりのない顔。姿はよく見るが、話すのは初めてだ。
関係なくない。
気分は最低だった。中村は挑発的な視線を向けたまま。放課後に首から下げているカメラとは違う、軽量化されたトイカメラを佐伯に向ける。
撮影料取るよ。冷たく言えば、じゃあ本格的に仕上げなきゃ、と中村は笑った。
くっだらない。
カメラは銃口じゃないんだし、そんな固くなるなって。
説くように中村は少し真顔に変わる。肖像権って知ってる?そう言って佐伯は教室へ向かう。馴れ馴れしい男。見た目ではなく雰囲気で人を集める男。
おいおい中村、あいつはやめとけ。後ろでそう聞こえた気がした。
ソファの上で榛名が噛もうとする爪を佐伯は手で包み込みやめさせる。家に上げることを拒む榛名を説き伏せリビングへ案内するとソファに座らせた。玄関扉に掲げられたネームプレートの「中村」も今までまるで気にしたことがない。在るのか無いのかも不明瞭な今までの暮らし。趣味の悪い、色調が統一されたインテリアや部屋の片隅の観葉植物にも何の疑問も抱かず、そこに在って当然だった。ブラウンやホワイト、グリーンを基調にコーディネイトされた部屋は家具屋のサンプルのように上手くまとまって生活感が作られている。部屋中に飾られた写真は全て綺麗に写真立てに収められ、被写体に合った色味や素材が使われていた。何も抱かなかった、在って当然のそれらが疑問の色を強くしていく。
「何か食べる?」
朝早く、何の用で榛名はここに来たのだろう。ソファに座ったまま放心状態の榛名に冷蔵庫の中を覗きながら問う。
「おかまい、なく」
冷蔵庫の中は消費期限が切れた牛乳とまだ開けていない緑茶のペトボトルがあるだけ。家電屋の見本の冷蔵庫のような殺風景さ。
「じゃあコーヒーでいい?リンゴあるけど食べない?」
冷蔵庫を閉じてカウンターキッチンの上に無造作に置かれたリンゴ数個を確認する。
「いや、いい、ス」
覇気のない榛名に具合でも悪いのかと佐伯は近寄った。眉間に皺を寄せて榛名は佐伯から顔を逸らす。
「何?何か怒ってるの?」
佐伯を拒絶する榛名の仕草に非難の色を強めないように訊ねる。怒っているなら何か言うはずだ。もしくは嫌味ひとつでも返してくるはず。
切なく寄せられた眉根と歪められた目元から覗く、とろんとした瞳。本能的に危険な匂いがした。何かまずいやつだ、やばいやつだ、と佐伯は思ったが榛名は何も仕掛けてはこない。耐えるように背を丸める榛名に触れようとした腕を取られ、強く掴まれるだけ。
「触ら、ないで、ください」
細く弱く榛名は拒絶を紡ぐ。つらそうだ。痛いくらいに佐伯の腕を掴む手が震えている。
「お腹、痛い?」
お湯沸かすね。そう続けて電子ポットを探そうとすれば榛名は佐伯の腕を放さない。
「なっちゃん?」
聞き分けの悪い子どもを諭す口調で名を呼ぶ。
「“てっちゃん”のことは裏切れないんス」
震えながら榛名はそう言った。
「なっちゃんが“てっちゃん”のこと大事なの、よく分かってるよ?」
「ダメっス、ダメなんス」
頭を振る榛名は本当に聞き分けの悪い子どものようだった。力が弱まった榛名の手を外し、佐伯は榛名の頭を抱き締める。額と額を合せて、泣きそうになっている顔に優しく振れる。
「私にやましいことなんてないから」
唇を噛んで強く強く首を横に振る。確信はなかった。だが佐伯も一度経験した身だ。まるで他人事のようだったけれど、抗いきれない衝動。榛名を今苛んでいるもの。何となくだが佐伯にも分かった。
「私も背負うから。私とのコトは忘れて。なっちゃんは大好きな“てっちゃん”のことだけ考えて」
榛名に言われたことをそのまま借りて、つらそうな榛名は両耳を塞ぐ。
「じゃあ2人で背負う?背負える?大事な“てっちゃん”のこと、忘れる?」
ゆっくり榛名の後頭部を軽く優しく柔らかく、リズムを刻みながら叩く。
「りっちゃ、逃げ・・・」
佐伯の腕を剥がそうと榛名は指を掛けるが、力が入らず擽っているかのようだった。
「逃げない。なっちゃん、大丈夫」
榛名を抱き締め、首元を口元へ導いていく。
「何も知らないから。何も見てない。全部忘れていいよ。無かったことにして」
僅かな甘さを帯びた清涼感のあるスパイシーな香り。それから薬品の匂いを残す整髪料の香り。榛名の匂い、幼い頃に嗅いだ、日向ぼっこ後の黒猫の匂い。鼓動が伝わりそうだ。おそるおそる榛名が口を開ける。
「流されていいよ。私は本当に・・・」
榛名越し、遮光カーテンが両端に開かれレースカーテンの向こうに曇り空が広がる大きな窓ガラス。誰か立っている。ベランダの柵を背景に。真っ白い上下が逆光していても、まだ明るい。曇天にも関わらず茶金髪が煌めく。真っ白い裾が床に着き、裸足を覆いそうだった。2人の状況に構うことなく、茶金髪の男はぼうっと佐伯を見つめている。
首筋に走っていた痛みは段々と熱へと変わっていく。ぼんやりと意識が濁っていく。視界にも靄がかかり、耳まで生温かい。榛名の両腕が背に回り佐伯を固定する。身体が密着していく。下半身からどろどろと溶けていきそうだった。




