Lifriend Flower 4
またか。佐伯は突っ伏していた顔を上げる。両腕を枕にして公園で眠ってしまった。酔っ払いのようだ。同じ夢。内容は違うけれど、同じ人、同じ場所。いつもいいところで目が覚める、それは“いつもの”夢と同じだけれど。
欠伸をしながら脳が状況を整理しだす。榛名に会った。猫を産め、佐伯はそこにカーネーションを供えた。榛名の背を見送り、それから茶金髪の男に夢の中で。
身体を伸ばすと左手に違和感を覚える。全く見覚えのない輪。金属だろう。だが錆び、元は金色だったのか銀色だったのか。古びた硬貨と似た斑模様に変色し、輪は歪んでいる。指に嵌まっているが指輪というには古く傷み、輪としては機能しないほど形を崩している。左手の薬指にほぼガラクタと化しているその輪を外した。気味が悪い。無防備に寝ていた自身の非を認めるしかなかった。慣れることはないが慣れてしまう数だけこういうことが佐伯の歳の半分以上の時分で何度もあった。成長とともに顔が引き締まり、顔立ちがはっきりとしてからは。背も伸び、胸が発達し、ある程度の膨らみと身体の丸みを帯びてからは特に。“そういう”つもりでなかったことが“そういうつもり”と受け取られてしまう。衝動的にその輪を投げる。行動の説明がつかないような、酸素を得た炎のような怒り。音も立てず、その輪は放物線を描き視界から消えた。汚いと思った。それは輪の古さや錆びの汚れとは違う。左手の薬指を何度も擦る。いずれ誰かが嵌める場所。寝ている間に誰かにされたその行為。勝手に身体を暴かれたような気分で、佐伯は何度も擦る。と同時に何も嵌まっていなかった今までの感覚にさえ違和感と奇妙さを覚えた。もともと何かが嵌まっていた。指に。指輪以外に思いつかない。だが何か。
公園は静かだ。佐伯の思考を止めるものがない。指輪から連想される人物が1人だけいる。だが顔も名前も思い出せない。1人というのも自信がなかった。思い出せそうで思い出せない人物と、その光景だけが浮かび、それが明確な現実であるとは佐伯には思えなかった。
誰。夢の中で問うたこと。誰なの。1人だけ思い出せない。爛れた付き合い方をしていたはずはない。入れ込んだ相手だろうおそらくは。誰。記憶の奥底に貼りついて、剥がすことを試みるが頭文字すら分からない。
忘れていいよ、忘れていて。都合の良い幻聴。この幻聴が佐伯の本心か。自嘲する。夢の中の男の声に似ていた。鼓膜を揺らないあの声がこびりついているだけか。聴覚に訴えてこないくせ、男性にしては少しだけ高めな声。夢の中の男の声だ、何の疑問もなくそう思った。
忘れていいんだ、何もかも。
何もいない。人の気配もしていなかった。
もしかしてあの指輪、あなたの?
夢の中と同じように訊ねた。だが返事はない。ここは夢の中ではないのだから。
夢の中の人物の物であるはずがない。夢の中なのだから。割り切ることはできなかった。衝動的に投げた輪が落ちたであろう場所へ徐ろに歩み寄る。見つかったところでどう夢の中へ渡すというのか。考えもなしに投げ、考えもなしに指輪が落ちていないかと視線を地面に巡らせる。微かに見えた猫の墓に置かれた場違いな白のカーネーションがそよ風に揺れる。
寂れた公園だ。芝生の大規模な広場はあったが球技は全面禁止になっている。入口に面した遊具がある公園は小規模過ぎる。隣の大規模な公園は遊具こそないが水のオブジェや設備の整ったトイレ、多目的スペース、種類の豊富な自動販売機がある。この公園は新興住宅街の中にあるが生い茂る木々で隠されたように、どこか置いてけぼりを喰らっているような気がした。湿った地面を見回しながら、サンダルのヒール部分のおかげで屈みこむことは楽だ。俯きながら小石ひとつひとつを数えるように目を移していく。もっと遠くへ飛んだのだろうか。音はしなかった。音がするような質量ではなかった。
突如、佐伯の頭が軽く押さえ付けられる。突然のことに反射的に何者か、何事かと顔を上げようとするが軽く押さえ付けられているつもりでも頭が上がらない。変質者か、具体例が浮かび汗ばみはじめる背筋。
怖がらないで。地面に着く裸足が視界に入る。あの茶金髪の男だとすぐに佐伯は理解した。真っ白い裾から見える裸足は骨張っている。頭部を押さえ付けられたまま怖がらないでと茶金髪の男は言った。白昼夢にしては鮮明に映る。足の爪に走る縦筋も数えられるくらいに。
気にしないで、もう忘れて。茶金髪の懇願に、何を、と返したいが喉が固まったように声が出ない。ごめんなさい、あなたの指輪。突然沸点まで上り詰めた怒りによって投げ捨てたことを詫びねばならない。そしてすぐに冷え込み、こうして探していることを伝えねばと。だがやはり、あれが茶金髪の男の物であるはずがない思いながら、茶金髪の男の物であると思わずにいられない。
捨ててくれていいよ、おれには捨てられなかったから。茶金髪の男の押さえる手が撫でているように感じられた。懐かしさと擽ったさと安堵感。悲しさなどひとつもなかったが目頭がきゅっと締まる。視界に波が起こり滲んでいく。
探す、探すから、待って、お願い。ぽたりと溢れた雫が地面に光る。もう会えなくなるかもしれない。そうは言っていないけれど、茶金髪の男がそう言い出しそうな予感して佐伯は慌てて繕っていく。探すから、探すから待って。祈るみたいに内心繰り返せば口にも出ていた。線香の煙が消えるのと同じ様で茶金髪の男の裸足がふっと消え、頭部を押さえ付ける手の感触が消える。佐伯は頭を上げる。涙が頬を伝って湿った地面に落ちていく。痛みも悲しみも苦しさも喜びもない。胸に僅かな寂しさだけは残っているけれど。




