【innocent】3
テニスコートを囲むフェンスの外に桐山は立っていた。昨日の天気予報通りに雨が降りだした。強い雨に視界が邪魔されてしまう。
テニスコート内にこの高校の制服を着た女生徒が倒れている。その近くで、肩で息をしている一年。足元にはこの高校の制服を着た女生徒。
ウェーブのかかった黒い髪の一年が座り込んで「仇、討ったよ」と小さく呟いたのが桐山にも聞こえた。
彼の名前は霧山。漢字が違うけれど、発音が同じ。彼にこの高校の制服ではない学ランの少年が近付いて来ている。
「きりや…」
声を発せようとしたころにはすでに遅かった。学ランの少年は霧山に向かって何かを振り下ろした。
フェンスを強く握り締めた。
赤い噴水のようだった。デキのいいB級の時代劇。忍が暗殺される、そんなシーンのよう。
霧山の身体が倒れて、テニスコートの水溜まりが跳ねた。学ランの生徒は地面に膝をついた。
フェンスがギシギシと微かに軋んだ。
「霧山…」
直接関わったことはない。仲の良かった友人の腹違いの弟だった。ただそれだけ。部活が同じだったわけでもなく、話したこともない。
「きりや…ま…」
霧山から血が広がっていく。フェンスを握っていた手が下りる。
考えるよりも先に桐山の足が動いた。テニスコートの入り口の前で止まる。
桐山はテニス部だった。これからもうテニスをすることはないだろう。テニスコートを穢すというのはそういうことだ。試合をする前とは違う緊張がテニスコートに入るなと訴えているようだった
躊躇う頭と、入り口を開ける手。テニスコートに入って霧山のもとへ歩み寄った。
桐山と目が合うと、脱色された長めの髪の学ランの生徒は諦めたような笑みを浮かべた。
桐山は丸腰。相手は短いナイフを持っている。有利なのは相手であるのに。
「……なんなんだよ…」
学ランの生徒の声は震えていた。
「…くそっ」
学ランの胸元に刺してある小さなネームプレートに、鏑木と書いてある。
桐山は何も言わず鏑木を見つめた。鏑木の手に緩く握られた短いナイフは血だらけだったが、雨に少しずつ洗い流されている。
「死にたくねぇよ…」
弱々しく吐かれた言葉に我に返った。
「霧山だって、死にたくなかっただろうさ」
自分でも驚くほど低い声だった。
「…そこの女…」
鏑木が霧山の元で倒れたままの女生徒を指さした。
「俺の…女なんだ…」
「仇を、討ったつもりなんだね」
一部始終を見ていた。霧山の部活の先輩を殺した女生徒を、霧山が殺した。
「どうだっていい。もう、どうなったって」
鏑木の吐息に嗚咽が混じりだす。それに気付くと、この光景をどこかで見たという既視感を覚えた。
──── こいつは使える
目の前が真っ白になって、また色を取り戻す。 桐山の口元に笑みが浮かんだ。
テニスコートの地面についた手を短いナイフごと踏みつけた。
ナイフの柄を持っているためナイフから与えられる痛みは大したことはない。
「どうだっていいの?へぇ」
ぎりぎりと鏑木の手の甲を踏む力が強まっていく。
「っいてぇ……」
「君を簡単に殺すなんてことはしないよ」
桐山は愉快そうに笑った。
「お前…」
怯えた表情を浮かべた鏑木の頬に肘打ちを喰らわせた。体勢を崩し、鏑木はテニスコートに倒れ込む。
桐山はナイフを拾い上げて、またにやりと笑った。
「人殺すの、初めてなんだよね」
鏑木の首筋にナイフが当てられた。