Dear Finalist 3
「分かった?」
柊の話に空返事をしつづけているとあっという間に40分も経過しているのに気付く。
「う、うん」
「授業中に勝手に抜け出さない、勝手な発言をしない、余所のクラスの子を巻き込まない、遅刻は厳禁、早退は俺か美浦、どっちでもいいからどっちかに言え。副部長だけど生徒会だから忙しいんだよ?美浦は。それに先生は美浦を怖がってるんだから先生に迷惑かけないの」
「え、ちょ。はぁ?いつオレがせんせーに迷惑かけたよ?」
倉木は座らされていたパイプ椅子から立ち上がった。
「ただでさえ1年が失踪して先生方も大変なんだ。顧問の先生が胃潰瘍になってみろって。部活なんて出来ないからな」
「考え過ぎだろ」
「それは、お前にも言えるだろう」
反論が出来ないようで、倉木はうぅ…と呻いた。
「簡単なことだろう?頷くよりも簡単かもしれないな」
皮肉った笑みだ。
「すみませんでしたね、バカで」
「別に君をバカだと言いたいんじゃない。言わなくても分かる。そうじゃなくて俺が言いたいのはもっと君に謹んで欲しいんだよ」
「んじゃぁ要するに…」
倉木は言葉を詰まらせる。
「要するに、後先考えろ。周りのことを考えろ」
柊は時計をちらりと見た。
「…分かったよ。母ちゃん」
「お前のようなバカ息子を持った覚えはちゃらちゃらない」
「へいへい」
「時間が押してる。帰るぞ」
残したいだけ残させたくせに、と呟くと「いいからいくぞ」と腕を引かれる。
「うん…」
倉木はしぶしぶと緩んだネクタイを締める。
「妹、瑠央ちゃんだっけ?連絡してあるの?遅れるって」
柊は部員からの土産のストラップで煩い携帯電話を耳に当てながら倉木に訊ねた。
「大丈夫っしょ。大丈夫。うん、大丈夫」
倉木は何度も頷く。
「瑠央ちゃん心配するよ~」
「あいつだってガキじゃないんだ。飯くらい作れる」
そういうことじゃなくて、と言うと、携帯電話に話しかけはじめた柊。
拗ねたようにスクールバッグとエナメルバッグを背負い、首にかけると倉木は部室から出ていく。
「困ったやつだよ、ホント」
***
久し振りに帰った実家は最後に自分が来たときと何も変わらない。随分と汚れた家だ。けれど、高級住宅のような家だ。見せるだけの家に意義はない。感覚が母親とは違っていた。「いい家ですね」。そんな言葉を言われる必要はない。ただこの場に住めればいいのだ。
風間は暗色に侵食された視界で電気のスイッチに手を伸ばす。柔らかい電灯。リビングは母親の匂いが微かにした気がした。母親とはここで暮らしていた。母親に愛されることは結局一度あったかないか。全てぶち壊しにしたのは紛れもない自分。普段動くことの無い風間の眉間が動く。
住みはしないのに金を払ってまでこの家を売りたくはなかった。「母親」を感じるのはこの家だけだった。けれどここに帰りたいと思ったことはない。風間の記憶の殆どはおかしな施設。あまり楽しいと感じたことはない。母親はごく一部の記憶。父親と接したことなど数えられるくらいだ。風間が父親の不倫を知っていたからかもしれない。不倫にしては随分と父親は風間に喋った。
風間は歳の割には聡明で極めて優秀と評された。天才児として周りからはちやほやされていたけれど、母親にはそれを「異端児」としか受け止めてもらえなかった。気味の悪いほどの知識。悪魔ともとれる冷徹な行動、残虐な遊び。いつしか周りは風間を甘やかすのをやめ、「悪魔」「異端児」「妖怪」「化け物」と罵るようになった。
蛙の解剖。猫の腑分け。蝶の羽と体でおぞましいほどに美しい画を描いたこともあった。風間の母親はその度に幼い風間が服を汚すのを嫌がった。
いつもこの家にくると幼少期を思い出してしまう。ここで自分が何をしたのかも。
風間はリビングのソファに荷物を置いた。埃が積もっていたために塵が空中に舞う。エナメルバッグの中からビニール袋を出した。下校がてら買ってきた夕飯の具財だ。カウンターキッチンに電気を点け、まな板を洗う。料理は得意な方だったが料理をする機会は学校の調理実習くらいだった。冷蔵庫に何も入れていないのは分かっていたことだから全て買ってきた。経済的に余裕はある。人参、玉葱、じゃがいも。豚肉。
うっかりしていた。一番大切なものを忘れていた。肉じゃがにする手もあったが当初から予定にはなかったため、最も好きな糸蒟蒻が足らない。
腕時計を確認する。時間はまだ大丈夫だった。出来るところまで作ってしまえばいい。洗い流したフライパンに油をしいて炒める。鍋に水を入れて火にかける。沸騰するまでまだ少し時間があるだろう。
風間は風呂場に行き、湯を沸かすスイッチを押す。ウィーンという音が聞こえてくる。真っ白い猫脚のバスタブは埃で汚れていた。シャワー主義だったため大して気にはならない。リビングに戻るとネクタイを緩めて、暫くの間開けていないタンスを開けた。私服が綺麗に畳まれている。身長も体形もあまり変わっていないためにまだ着られる。何も引っ張り出さず、今まで着ていた紺色のブレザーをハンガーに掛け、ネクタイも綺麗に整えておく。キッチンの鍋の火を消し、スラックスのポケットに財布を入れる。 玄関に鍵をかけるとマーケットに走り出した。
柊の話は長い。特に説教は。これは確実に言えることだった。今だってそうだ。結局二人で帰ることになって延々と説教が続く。今日一番おかしいのは柊だと倉木は思った。説教など普段はなかなかしない。他人のおかしさは見抜けても自分のおかしさは見抜けないのかよ、と悪態の一つをついたところで面倒事が増えるだけだ。
「あ、風間!」
柊が声を上げて倉木は何?と訊き返す。
「あぁ、ほんとだ」
この季節にワイシャツ一枚か、と柊はある意味で感心ているようだ。倉木は風間の手に持っているビニール袋が目に入った。
「気になるね」
店から出てきたところ。風間もこちらに気付いたようだ。柊は無邪気に手を振っている。
「随分と遅い帰りだね。…説教か」
倉木は絶対についてこないだろうと分かっていた柊は倉木の腕を掴んで風間のもとに走っていく。
「その通り」
あはは、と柊は笑う。苦笑いすると掴まれていた腕がより強く圧迫された。
「風間、珍しいね。今日は実家に帰ったのかい?」
「あぁ、ちょっとね」
「朱鴇さん…自炊してんの?」
倉木が訊いた。
「そうだけど」
柊はいいとしてなんでお前が、とでも言いたそうだった。
「感心するなぁ。同い年として尊敬するなぁ」
「一人暮らしだからね」
柊には兄がいる。倉木には妹がいる。風間は一人っ子だと聞いた。もともとこのメンバーで家庭内の会話は暗黙の了解で禁止されていた。綾瀬のこともあった。風間のこともある。
「そっか…なんかあったら言えよ」
「食べに来ないか。作りすぎた」
「え、でも悪いだろ」
柊が言ったあと、倉木が「行きたい!」と言い出す。
「ちょっと、倉木…下校中の寄り道はイケマセン」
柊が慌てて風間を見る。
「じゃぁ、一度帰ってから来るかい。道は知ってるんだろう?」
「うん。分かった」
柊と倉木は頷く。
「でも…倉木、どういう風の吹き回し?」
不思議そうに柊は訊いた。倉木が風間を苦手としているのは分かり切ったことだ。
「柊、知らねぇの?朱鴇さん料理ちょー上手いんだぜ!マジ美味い」
「あー、家庭科の先生と女子が褒めてたなぁ、ハロウィンとホワイトデーの時」
「別にそこまで上手いわけじゃない」
「んじゃぁ、さっさと帰ってさっさとご馳走になるか!」
倉木は柊の手を引っ張って帰っていった。
一人の食事は慣れている。人生の半分以上は一人で食事をしていた。何人で食べようとも風間にはどうだってよかったのだけれど。寂しいという感情は麻痺しているのかもしれない。一人でいることが殆どだったからだろう。それでも部活にいるときは独りではないという温かさを感じていた。だから柄にもなく誘ってしまったのかもしれない。今更ながら照れてしまう。初めてだ。
いかにも高そうな金色のドアノブに手を掛け、鍵穴に鍵を差し込む。そして開いていることに気付く。風間は玄関に入っていく。柊と倉木が来るには早すぎる。リビングには白く湯気が上がっている。誰もいない。いないように見える。
「誰か…いるのか…?」
風間はリビングに問いかけた。
「やぁ、お久し振りだね」
少年の声。
「誰だ?」
背後からの声に風間は振り返った。
「忘れたのかな?オレだよ、七津川。忘れてたわけないよね?」
赤茶色の髪の少年。これと全く同じ顔を見たことがある。
「朱鴇兄さんがオレ等の母さんを殺して、ちょうどの日。誰か来るの?どうしてこの家に戻ってきたの…?」
問い詰めるかのように一歩ずつ迫ってくる少年。
「…」
風間は黙った。
「ずっと一人なんでしょ?つらいでしょ?厳しいでしょ。生きるのしんどいでしょ。面倒でしょ?ねぇ、死んじゃえば?生きるの嫌でしょ?死んじゃいなよ」
少年の口調は穏やか。
「…帰れ」
風間はそれだけ言う。
「誰か来るんでしょ?やめておきなよ。どうせそいつらだって朱鴇兄ちゃんを利用するだけでしょ?今度は何に使われるのかな?」
少年はくっくっく、と笑った。
「帰れ」
風間は表情一つ変えない。
少年はキッチンに向かった。さっきまで風間が野菜を切っていた包丁を手に取った。
「これで、死になよ」
少年はリビングに突っ立っている風間に包丁を投げた。カーペットに落ちる。
「僕は、死ぬ気はないよ」
「どうして?朱鴇兄ちゃんは死んだ方が楽だよ。だって誰にも愛されてないんだよ?」
風間は少年を見た。
「死ぬ気はない」
「ふざけないでよ、朱鴇兄ちゃん。あんたは母さんを殺したんだ!死ね!死ねよ!ほら!」
少年はもうひとつ包丁をキッチンから出す。
「誰もがお前の死を望んでるんだよ。世の為、人の為だと思って、自害しろ」
浮かんでくる友人の笑顔は、ただの入れ者なのか。
風間は足元に落ちた包丁を拾った。
「遅いじゃないの」
家に着いてばかりの柊を待っていたのは、義理の姉。仲違いしているのだ。
「ただいま」
露骨に嫌な顔をする義理の姉。いつものことだ。柊は笑った。そんな態度が気に入らないらしく、義理の姉は柊の髪を掴んだ。
「…遅いんだよ!」
玄関入ってすぐの壁に頭部をぶつけられる。兄が結婚してから、こんな調子だ。兄がいないときは暴力を振るわれる。玄関からすぐの階段を上がる。
「俺、出掛けます」
なにごとも無かったかのように柊は自室に向かう。
「どこ行くの?」
無視をしてドアに鍵を掛け、電気を点けた。ベッドにジャケットを脱ぎ捨てるとクロゼットからハンガーを出す。4人兄弟だったが次男は過去に交通事故で逝去してしまった。この部屋はもともと次男の部屋だった。両親は家にいない。転勤だったが柊はこの土地が好きだったために残った。柊の弟は両親とともに関西にいる。長男は19歳で結婚し、すでに4年経つ。義理の姉の暴力が始まってからも4年。兄は温厚で聡明だ。弟のことも妻のことも常に気に掛けている。義理の姉は意地が悪く、柊を邪魔だと思っているわけではないが、柊をいじめた。壁にある凹みは義理の姉が柊をぶつけた痕だ。いつの間にか兄の仕事も忙しくなり、2人きりになることが多くなった。ある夜に義理の姉が柊に性行為を強要してきたのが仲違いの原因だったのだろうか、と柊は思った。ショックで泣きながら2番目の兄のもとへ逃げた。しかしそんな兄も去年に亡くなった。
柊は腕時計を見る。急いでジャケットとネクタイをハンガーに掛ける。携帯電話が鳴る。メールが来ていた。部員それぞれに着信音が決まっている。今来たのは倉木から。
『家の前に来てるよv』
柊は携帯電話を握り、電気を消すと階段を下りて玄関に向かう。
靴を履いてドアを勢い良く開けた。
「柊、いた」
「悪い、待たせたよな」
倉木もワイシャツにスラックスという格好だった。
「でこ、血、出てっぞ・・・・・?」
倉木は訝しい表情をしていた。柊はいつも痣があったり擦り傷があったりする。少し間が抜けているだけだろうな、と思うだけだったが柊はそんなに間抜けではないことは百も承知だった。本当に小さな傷だけれど、頭をぶつけたのは確かだ。
「あぁ、いつものだ」
いつもの。貧血。立ち眩みということか。自分より背の高い柊を不思議そうに見上げた倉木に柊は気付いていない。
「部長だなんだっていつも気張ってるけど、なんかあるなら相談くらいしろよな」
「いやだな、そんなの俺が一番分かってることだよ。部員を信用してないとかそういうのじゃないんだから心配しないで。寧ろ相談することが無くて困ってるくらいさ」
柊と倉木の家は近く、風間の実家は倉木の家に近い。歩いていけば10分で着く。
「風間、今日、変だった」
柊が話題を変えるかのように言い出した。
「もとからちょっと変わった人じゃん。鈍いって言うか、気付いてるんだろうけど、どうでもいいって感じで。一匹オオカミってやつ?料理は美味いけどね」
倉木はそう言った。
「頭が良いからね。色々分かっちゃうんじゃないかな。物の見方が違うんだろう」
「だからそういうのを変わってるっていうんだよ」
分かってないな、と呟く倉木。
「ま、料理美味けりゃなんでもいいや」
「瑠央ちゃんは、大丈夫だったかい?」
「おぅ。ジャケットをハンガーに掛けないだけで物凄い怒るんだ」
「しっかりしてるな」
倉木はそうか、と呟いた。
風間の家が見えてきた。場違いなくらいに立派な家だ。どうして風間はここに住まないのだろうかと倉木は疑問に思っていた。
蔦の絡まった門。手入れもされず生えたいだけ生えている雑草。それでも家が立派なだけあって、それさえ絵になる。
呼び鈴を押しても風間は出てこない。暫く待つ。何かあったのだろうか、出てこない。
「鍵がかかってない」
金色のドアノブは軽く回った。倉木は無遠慮に入っていく。玄関で風間を呼ぶが応答はない。
「お邪魔します」
覗き込むように柊は中へ入っていく。 外よりもシャワーの音が強くなる。
「なんか変なニオイする」
「ニオイ?俺分からないけど…?」
柊は急に不快な表情をしだした倉木を見た。
「ごめん、なんかオレ…気持ち悪い…なんか変な匂いする…」
「えぇ!?俺は全然分からないんだけど?」
柊にもふらっとくる感覚があった。貧血だろうか。
「あれか?ガス栓が開きっ放しになってるのか?」
「なってないよ」
倉木は腕で鼻と口を押さえていた。
「これはカレーのルーだ」
ビニール袋に入ったままのカレーのルーの箱。
「風間はどこへ?」
「分からない。シャワーでも浴びてんのかな?」
シャワーの音がずっとするんだ、と倉木は言った。柊は耳を澄ます。
「でも普通はさ、カレー作ってからじゃない?」
「なんか零したとか」
「風呂場見てくる」
倉木がそう言うと同時に柊は携帯電話を取り出した。風間に掛けてみる。
ギィイイイ ギィイイイイ
いきなりだった。心臓が止まるかと思った。マナーモードだろうバイブレータが何かに触れ、それごと振動している。自分の携帯電話ではない。そして自分の、すぐ後ろ。風間のエナメルバッグとスクールバッグの置かれた大きなソファ。それに向かって置かれたテーブル。そしてそのテーブルの上で小さく踊っている携帯電話。
「ひいらぎ!」
大きな声が聞こえた。柊は風呂場へ急ぐ。
バスタブの真っ白は赤に完璧には染まらず、斑模様になっていた。タイルの溝を駆け巡るのもまた、赤。目に入るシャツ。ところどころ破れ、赤が広がっている。シャワーは湯気を立て、バスタブの中にお湯を送る。
「か……ざ、ま…?」
右腕を赤い水の溜まったバスタブに入れ壁に凭れる身体。近くには液体の入ったバケツ。
倉木は何も言わず、その場に座り込んでいるだけ。
赤い水は真っ白いバスタブに斑模様を描いている。
柊は何度も瞬きをする。
排水溝に螺旋状を描いて吸い込まれていく赤い水。
ゲホ…っと倉木が咳き込む。
「どういうことだよ?」
自殺。だが彼はメッタ刺しにされている。殺害。
真っ白くなった頭から思考を呼び起こす。風間の右腕を取り、脈などはかるという考えも浮かばないまま真っ赤になったそこを手で押さえつけた。だらだらと流れ続ける血液。傷が深い。
「倉木、大丈夫か・・・・・?」
倉木の方にも意識を傾ければさっきからずっと咳ばかりしている。
「苦、し…ッ」
倉木はつらそうに、絞りだしたような声でそう言う。目の前の不自然に置かれたバケツに目が留まる。風間が凭れている壁には窓がついている。片手で窓の鍵を乱暴に開けて、柊は頭で考えるよりも早く風間の近くに置いてあるバケツを掴み、中身を放り投げた。
「息、」
倉木は窓に顔を出す。肺を押されていたような圧迫感がわずかに和らいだ。倉木はまだ息苦しそうだった。
「朱鴇さん…」
シャツの胸元を藻掻くようにぎゅっと掴んで息を切らす倉木。
「倉木」
柊は両腕で風間の腕を圧迫する。血が止まらない。
「どうしよ、どうすれば」
倉木は混乱している。
「救急車、救急車!」
溢れた赤い湯によって柊のシャツも染まっていく。
「分かった!」
倉木は風呂場から出ていく。
「風間、おい、風間!?」
息が微かにあることに気付く。
「大丈夫か?」
唇の色は白に近い。
「風間…」
身体中を刺されているようで、風間のワイシャツは所々破れ、赤が滲んでいる。
「生きてるよな…?」
自分の声が震えているのが分かった。
「死ぬな」
圧迫しても傷口から溢れてくる血。生暖かさを感じた。血が止まらない。嗚咽が零れた。視界が歪んだ。助からないと思った。
「かざ、ま…」
力が抜け、柊は風間の腕から手を放した。




