契り千切る 7
目が見えなくなった日のこと、よく覚えてない。目が覚めても、ずっと視界が暗いままだった。漆黒の中に引き擦り込まれたようだった。
誰かいないのか。傍には誰もいないのか。年甲斐もなく童のように喚いた。歩こうにも、足に力が入らなかった。誰か、誰か。誰でもいい。誰か。
手を伸ばしてもぶつかるものは何もない。声を上げても応えるものは誰もいない。
誰でもいい、誰か。茶会で浴びた冷ややかな目が思い起こされて。すれ違いざまに冷たい対応をされたのを思い起こして。
誰でもいい、誰か。私は独りか。
誰でもい、誰か。誰か私を。
――――どうした、紀之介!俺がここにいるぞ!
「大谷様!大谷様!」
誰かが僕の肩を押さえた。誰かがいる。よかった。まだはっきりとしない意識のまま目を開いた。逆行して顔はなんとなくしか見えないけれど。
「どうなさりました。うなされておりましたぞ」
心配したとばかりに、僕の狭い部屋に駆け込んできたらしい同居人・島殿は溜め息をつく。襖とで僕を挟んだ位地にある窓と雨戸を島殿は開ける。
「暗闇が苦手、とは聞いていたんですがねぇ」
やってしまった、と島殿は長すぎる髪を掻く。この部屋の隣の和室は明るかったのに、この狭い部屋は昨日の台風で雨戸を閉めっ放しだった。そして襖も分厚かったせいか、隣の部屋の明るさが漏れてこず、いつもより暗めであった。
「すみません。僕のことですから、僕の不注意です。煩わせてすみません」
上体を起こして掛け布団を強く握った。情けない。今からずっと昔、この男の息子が、自分の家臣だった。あの戦で、死なせてしまった。このことにはお互い、一言も触れなかった。けれど確かにその事実は、この時代であるから、重荷になった。天下分け目のあの戦で、散らせたことを、誇っていいものか。そんな判断もできない。この平和な現代に馴染みきってしまったのだと思った。
そういえば。
「紀之介・・・・」
思わず口にだす。懐かしい名前。彼にそう呼ばれていたけれど。僕の記憶の中では、彼は僕を「大谷殿」と呼んでいたような気がする。
「島殿。彼は僕を、何と呼んでいました?」
雨戸を開け、窓を開けてそのままその奥の、朝の風景を眺めている島殿の背に声をかけた。
「紀之介・・・・?いや、吉継・・・?ちょっと気にしていませんでしたね」
島殿はまた髪を掻いた。艶やかではあるのだか硬そうな髪がごわごわと広がる。
「僕はずっと、彼とは大きくなってから出会ったのだとばかり思っていました」
夢にみた彼は、僕を「大谷殿」と呼んだけれど、「紀之介」と呼ばれていたことに妙な懐かしさを覚える。
「しっかりとは、思い出せないんですね。あまり左近めがごちゃごちゃ言っても混乱なさりますでしょうから、ここは何も言わないことにします」
朝の外のちょっとした騒音を堪能してから島殿は窓を閉めた。そこから見える風景は田園とどちらかといえば細い道路。それでも朝は通勤のためかよく車が通る。寝起きはいい方なのだけれど、ときどきこうして昔に触れる夢をみてなかなか起きられないとき、島殿は起こしにくる。そしてここから窓の外を見る。この部屋を借りてよかった、といつも満足している。リビングから見える風景が住宅街だったり、遠めにコンクリートジャングルが見えるので、ここから見える田舎らしい風景が好きなのだろう。
「暫くは、百姓として生活していたんですよ」
大体500年近く生きていたら、様々な職に就くだろう。現代は職種も多いというのは僕も理解している。
「今では腹いっぱい、白米が食べられる。しかも3食。変わりましたな、随分と」
島殿はふぅ、と息を吐いた。
「変わりましたよね、島殿。前はそのような感じの人ではなかった。400年の間に、変わったのですかね」
僕は思っていたことをそのまま口にした。島殿は情けなく笑う。そうだ、それ。その情けなく笑うところとか。
「現代の平均寿命は、男女で少し違いますが、大体80歳から90歳くらいらしいです。その間に、人は外見だけでなく中身も変わってしまう。それと同じなんじゃないですかね」
「そのようなものですか。平和ぼけでないのなら、それでいいのですが」
「平和ぼけかもしれませんね。命を狙ってくる相手も、狙う相手もいませんし、殺意を覚えるほどの憎しみを抱く相手はいない」
僕が、僕ではなく生まれてきた意義。無くてもいいけれど。僕個人として生きてもいいけれど。それならば要らない記憶など捨ててしまいたい。顔も知らない親友と記憶している人物だとか、目の前の胡散臭い格好の養父だとか。
「左近が死なずにここまで不老・・・むしろ若返って生きているのはこの妖怪のせい。ですが大谷様、貴方が大谷様の魂を持って生まれたことは偶然かもしれません。だから、貴方が貴方のままで生きたいというのなら左近はもうこの話は致しません」
「何度訊かれても答えはいいえ、ですよ。この記憶を消せるのならそうしますがね。生憎はそうもできませんから」
罰かもしれない。僕が徳川につけば、僕の家臣を多く死なせることはなかった。けれど僕が彼を選んだから死んだ家臣は多い。彼が負けるかもしれないという可能性は高かったのに。それでも、彼という存在が大きかった。大きかったから、僕は。
「そうですか。何よりです」




