朱の洋館11
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なにもかも上手くいかない。本当は自由だったのに、自ら檻に閉じこもっていたなんて。
授業を出ない私は行く当ても無く学校をうろうろする。だって仕方ない。先生に見せしめにされて、それに逆らったんだから。後付みたいにもっともなことを 言われたって、私には理不尽なことのようにしか思えなかった。けれど同時に、それは自分の正当化にも見えてくる気がした。
いつも怒鳴って、暴れて、それで生徒を従わせる先生。生徒にバカにされるまだ若い先生の授業も馬鹿にするその先生。
別に、私が悪くないというわけではないのかもしれないけど。先生が完全に悪いというふうにも感じなかった。
もし私じゃない誰かが同じことをしても、私じゃない誰かなら怒らなかったんじゃないだろうか。
思い出すたび、悔しくて涙が溢れてくる。きっと自分がおかしいんだ。自分の人格に問題があるんだ。
執拗に目元を擦る私を、授業中廊下側の窓を見遣る人たちはどう思うんだろう。
校内でうろうろしていると、たまたま通りがかった授業のない先生が訝しむ表情を浮かべたので外に出た。
外で体育をやっているクラスはないようだ。
外の体育倉庫の前を通ると、音がした。バンバン、バンバン、と一定のリズムで金属か何かを叩く音。そんなに強い風は吹いていない。興味半分で近寄った。
「助けて!出してよぉ!」
声変わりのした男子の声。
私も外から叩いてみる。
「いるの?そこにいるの?出してよ!お願い!」
厚い体育倉庫の扉を通した声は曇っていた。そしてそれを掻き消すように叩く音。
「怖いよ!お腹空いたよ・・・・・」
扉を叩く音が小さくなり、消える。
「ごめんなさい、鍵がないの。今取ってくるから・・・・」
そう言って、身体の向きを変える。
指に鍵のホルダーを引っ掛けてくるくる回している男子生徒がこちらに向かってきている。
傷んだ茶髪に整えられた眉。少しチャラチャラした感じ。
「こんちはっす。すみません、今開けます」
どうやら私が本当に体育倉庫に用があると思っていたようだ。へへっと軽そうに笑い、その男子生徒は鍵を厚い扉に挿し込んだ。
鍵が開いて、黒い大きなものが飛び出してくる。それは、中から助けを求めてきた男子だった。浅黒く、黒い髪の長身の男子生徒。倉庫に閉じ込められるタイプには思えなかった。
黒髪の男子生徒は傷んだ茶髪の男子生徒に飛びついていた。並んでみると、黒髪の男子生徒がとても背が高いのが目立つ。
「ありがとう!ありがとう!」
「すみません。鍵はオレが返しておくんで、用があるならどうぞ」
黒髪の男子生徒を押し退けて、傷んだ茶髪の男子生徒がそう言った。
「え、あ・・・・大丈夫・・・・」
傷んだ茶髪の男子生徒は不審な表情をしたが、また笑顔を浮かべる。
「本当に、ありがとうございました!」
黒髪の男子生徒が傷んだ茶髪の男子生徒から離れ、私の前に来て頭を下げた。
「お前、何組だよ」
傷んだ茶髪の男子生徒は再び厚い扉に鍵を挿し込み、閉める。
「6組・・・・。そっちは?」
「オレは8組。なんであんなとこいるんだよ、ホントばかだな」
2人は知り合いなのだろうか。
「閉じ込められちゃって・・・・・っ」
「それいじめだろ。先生に言えよ」
2人が教室に向かっていく。小さくなっていく声、背中。体育倉庫の前に取り残される私。
これから彼等が授業に出るのか分からないけれど、彼等には受ける授業があるんだ。この時間私は何をするんだろう。自由で、不自由だ。
雲ひとつない青い空には鳥が飛んでいる。
――――青空が自由だと詠う歌があったけな
風が吹く。大して強い風ではない。けれど鳥の大きさ的に障害のようだった。
あの鳥も、流されてしまえば楽なのに。
流されてしまうのも、また強さだと思う。強くない私は耐えられなかった。先生に叱られて、はいすみませんでした、と流されてしまうことに。そんな翼なら要らない。風に流されることに喜びを感じないだろうから。弱くても。
2人の男子生徒の背中が校舎に消えていく。いつの間にかあの鳥も見失った。
今の立場は、
他人を羨むことでも、卑屈になることでもない。
これが私の選ばなかった方の自由だから。
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目覚めると、病院だった。渡島が俺を見下ろしている。
「気分はどうだい?」
渡島のいる方向と反対から声を掛けられ、渡島から目をはなし、そちらを向いた。白衣を着た、優しそうな、けれど靄がかかり、ぼやけた顔をした人。医者か。
「・・・・特に・・・・」
そう言われて、両掌を見る。記憶がない。思い出そうとする。昨夜観たサスペンスドラマ。近頃仲の良い女子とのメール。龍宮先輩のハイソックス。嫌そうにライターを俺に見せる渡島。ボールをぶつけてくる先輩。登山。洋館。触手・・・・・
「・・・・・・・わたしっ・・・・ま・・・・・っ!」
そうだ、それだ。真っ白い手と窮屈な廊下。起き上がろうと、足に力を入れた右足に力が入り、上体を起こすことが出来た。しかし、左足の感覚がまるでない。
「せんせ・・・・・?左足の感覚がないんですけど・・・・」
渡島は黙ったまま、目を閉じて歯を喰いしばった。
「君の左足か・・・・・・。残念だったね・・・・」
優しい笑みが消え、真剣な表情の、ぼんやりした顔の医者。
どういうことだ?残念?
俺は掛けられていた布団をはいだ。
無い。
無い。
無くなっている。
いつもそこに生えているはずの左足が。
膝から、消えている。薄い水色の寝間着が余っている。右足は裾から指まで見えるのに。
「せんせ・・・・・い・・・・?」
嘘・・・・・だろ・・・・・?なんで・・・・・?
「残念だけど、天城くん。君の左足はくっつかなかったんだ」
くっつかなかった・・・・って・・・・・俺、何してたんだよ・・・・・?
「俺、なんで、左足、無い・・・・・・の・・・・?」
「すまない・・・・・!天城・・・・・!許されないことだって分かってるけど・・・・・!」
渡島がありえないくらい顔をくしゃくしゃにして俺の前に身を乗り出してきた。
「渡島・・・・・・・?なんでお前が謝るんだよ・・・・・・!?」
渡島?どうしてお前、俺に謝るんだ?
「俺がお前の足を切った」
なんで?
「君の足を切らなかったら、君は死んでたんだよ」
何、それ・・・・
医者は厳しい口調でそう言った。
「天城・・・・・・ごめ・・・・・・っ・・・・・」
謝るなよ。謝るなよ。なんなんだよ。
「命さえあれば・・・・・」
医者の言葉も、
「すまない・・・・・っ!すまない!すまない・・・・・!!」
繰り返される謝罪も、
「うそ・・・・」
鼓膜に張り付いたような靄で遠くのように聞こえる。
きっと夢だ。悪い夢。足が無いように見えるだけ。
動かそうとしてみるけれど、無いものが動くはずも無い。
「すまない・・・・・!」
謝るなよ。許せなくなる。
謝るなよ。どうしていいか分からなくなる。
「わたしま・・・・・なんで・・・・・・っ」
シーツを指が真っ白になるくらいに強く握りしめている渡島。顔を上げもせず、ただ震えた声でそう言うだけ。
「なんで・・・・だよ。どうして・・・・・・」
渡島のその態度が、足を失ってしまったということを強く認識させた。
「ひでぇよ・・・・・なんで・・・・・!?」
どうして俺の足を切ったのか。
どうして何も言ってくれないのか。
「ひでぇよ!!!・・・・・・・・・俺、もう走れないじゃないか・・・・・それどころか・・・・・・歩けだって・・・・・」
一度怒鳴ってしまってから、気付く。そうだ。考えていなかった。足を失ったという衝撃的な情報にだけ思考を支配され、それがそういうことなのか考えていなかった。
「歩け・・・ない・・・・・。もう走れない・・・・・・」
渡島の両肩を乱暴に掴んで揺さぶった。
「返せよ!俺の足!返せよ!返せよ!返せよ!返せええええええ!」
渡島がバランスを崩し、背中から床に倒れ込む。その勢いで渡島の上に覆いかぶさるように俺も転落。右足と右手、左手で身体を支えたけれど、切断面が床に触れ、鋭い痺れが背筋を通り、ぶるぶると震えた。
色白い渡島の顔が日焼けしたときみたいに、炎症したみたいに赤くなっていた。
「天城君・・・・・・残念なのは分かる。衝撃的だ。悲しい。けれど仕方なかったんだ。渡島君は君を殺す選択もしようとしていたんだ」
「生きていれば・・・・・」
医者の言葉に苛立った。渡島が苦しんだのも分かってる。そして今も苦しんで、ずっと謝って。けれどこのやり場のない怒り、戸惑い、不安をどこにぶつけていいのか分からない。
「生きていればまた足は生えてくるのかよ!返せよ!俺の・・・・・・・っ!」
俺は叫んだ。叫んで、泣いて、咽て、また泣いて、叫んで。怒鳴って、殴って、叫んで、泣いて。
「返せよ・・・・・・。返せよ・・・・・・」
医者が俺の腕に針を刺し、暗い意識の底に引きずり込まれた。
次に目が覚めたとき、俺は落ち着いていた。ただぼーっと窓の外を見つめていた。そしてそれに飽きると、左足から伸びる余った布に視線をやる。やることもない。やる気も起きない。
周りの入院者の昼食の芳ばしい香りに腹は鳴るけれど、食べたいという気が起きない。胃は冷淡だな、と思った。身体の一部を欠損しても、普段どおりに空腹を訴えてくるのだから。
空腹からの胃の痛みを紛らわそうとまた窓を見る。視界の端に何か映り、それを見る。花瓶だ。真っ白い花が生けてある。真っ白い。本当に。中心に黄色のめしべやおしべ。においも微かにする気がする。花瓶は青い。綺麗な青。ターコイズブルーって色だったと思う。
「ワタル兄」
妹・アカリの声。ぼーっとした顔でアカリの方を見る。
「ずっと寝てたね。一睡もしないかと思って心配しちゃった」
俺と似た、ちょっと女の子にしてはきつめの目が俺を捕らえる。
「お母さんとお父さんもすぐ来るよ」
返事もせず、俺はこくりと頷く。母さんも父さんも、こんな状態なの知ってるのかな。心配するかな。悲しむかな。両親を悲しませるのは苦手だ。
「はー、ワタル兄、生きててよかった。母さんも父さんもそう言ってたよ」
アカリは俺の使っているベッドに付属しているテーブルをセットし、その上にビニール袋を置いた。
「りんご」
にこりと笑って、アカリは果物ナイフをちらつかせた。アカリの細い腕を掴んで、この胸に突き刺してしまおうか。そんな考えが起こったけれど、動く気力が起きなかった。
「食べる?」
首を振った。
「アカリ・・・・・それで、俺のこと、刺してくれよ」
自分でやるよりは、他人にやってもらう方が、躊躇いがなくていい。
「頼むよ・・・・・・」
もう走れない。簡単には歩けない。もうボールは追っかけられない。当たり前の日常が遠くなった。記憶の中の日常がまるで作られたもののように感じる。
アカリは引き攣った笑みを浮かべていた。
「ワタル!」
聞き慣れたけれど懐かしい母さんの声。
「生きててくれたよかった」
病室に入るなり母さんはいきなり俺を抱きしめた。
「足がなくなったって聞いて、気が動転しちゃったけど・・・・・。ワタルが生きていてくれて・・・・・よかった・・・・・」
「俺は・・・・・・・足がなくなってまで生きたくなかった・・・・・・・っ」
どうして誰も俺の気持ちが分かってくれないんだろう。どうして殺してはくれなかったんだろう。
「ワタルが死んだら、お母さん、悲しい」
「ワタル・・・・家族の身にもなってくれ・・・・・」
父さんの低い声。
俺の遺影。俺の眠る棺。意味を成さない漢字の羅列と坊さん。知り合いの名前が書かれた木版。焼香のにおいと嗚咽の音。真っ黒い集団と見慣れた制服。
まずはあののっぽが泣き崩れるだろう。けれどあの伊達眼鏡も泣いてあいつを宥められないだろうな。あの人は泣いてくれるだろうか。なんだかんだで冷静な 人だから。あの捻くれ者はきっと自分を責めるだろうな。せっかく俺を生かしたのに。いずれにしろ俺、死んじゃうんだもんな。それであの人はそいつを見て痛 むんだろうな。後輩君は泣いてくれるな。優しいから。こんな先輩たちでも付いてきてくれるんだもんな。先輩はどうだろうな。笑ったりはしないだろうけど、 特に気には留めたりしないだろうな。俺のことどうでもいいみたいだから。
ショータとリューは来てくれるかな。どうだろ。
自分の死後を、俺は気にしているな。死んだらきっと何も分からないのに。
「足がなくなって、死にたいって思うのは、生きたいからなんじゃないの」
気がつくと、母さんの姿も、父さんの姿も、アカリの姿もない。ただ龍宮先輩が立っていた。
「せめて自分で死ねるようになるまでは安静にしていることね」
冷たい低い声で、龍宮先輩は俺を見下ろした。
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ガィンっという音がして、身体が反射的に後退さった。地面に少し痕がつく。
一瞬躊躇いが生まれた所為で、斧をずらしてしまった。斧が脅すようにギラギラと緋色に輝いている。少し刃こぼれしているようにも見えた。
今度こそ、と再び斧を振り上げる。
天城の妹。母。父。親戚。友人。先生。
自分の記憶とリンクした。
覚悟を決めた瞬間、火炎放射器から吹く炎が止まった。
「な・・・・・んで・・・・・・」
渡島は上方にあるガラスを見る。操縦室か。
どうして、急に止まった?いや、そんなことはどうでもいい。
ぱかっと音がして、熱かった足枷が外れる。天城の足枷も。
「天城・・・・っ!」
汗をかいている。息をしている。足首に枷の痕がある。天城に炎が集中していたせいか火傷しているのだろう。とりあえずは無事だ。大きく溜め息をついた。
腕を取り、首の後ろに回す。引き摺ってでもはやくここから出たい。
「うんっ・・・・・・、渡島・・・・?」
項垂れていた頭が上る。
「歩けるか?」
「うん?うん」
天城は驚いたよな表情をして、笑った。
「渡島・・・・・・・」
「あ?」
「殺さないでくれてありがとう」
天城の言葉に視界一面が滲んだ。日常なら言わない言葉。今置かれている状況が普通ではないのが分かった。
「ところで、ここは?」
渡島は顔を顰めて首を傾げる。
「そっか。和泉とも離れ離れだからなー。龍宮先輩たちは大丈夫かな」
「護身用にドライバーを持たせた。あとライターも。・・・・・おかしな輩がいるとは思わなかったが」
和泉が持っていたドライバーだ。天城はそれを思い出す。ライターは渡島自身が持っていたくなかったから。
「いつの間に」
「城崎とお前が階段を捜索しているときに。心配だったからな。あの除草剤もあるから」
「え、あの時?お前、龍宮先輩と喋ったのか・・・・」
天城は驚いたように目を見開いた。
「・・・・・・俺と龍宮マネージャーが話すのはおかしいのか」
「いや・・・・・。渡島、龍宮先輩にいつも冷たいから・・・・・」
「・・・・・・そうか?」
渡島の表情を天城はじっと見つめた。渡島は目を逸らす。お互いがお互いに叶わない恋心だ。
「あのさ」
「あ?」
「ドライバーの本来の使い方、知ってるよね?」
バカにするように天城は笑みを浮かべた。
――――よかった。こいつを殺さなくて。こいつを傷つけなくて。
もう一度、操縦室と思しきガラスを見た。ただ助かったと思った。もう二度とごめんだとも思った。
「泣いてるのか、渡島」
訊いたのではない。慰めるような声音だった。
「違う・・・・・っ!」
渡島は目元を拭ってそう言った。
「ここから出るぞ」
「おう」
足枷さえなければ、ここからはすぐに出られた。出口に鍵はしていなかったから。
その部屋を出ると、すぐに廊下だった。どこかの基地のような造りだ。観葉植物が一定の間隔で置いてある。白い手に襲われた廊下と違っているのは、壁に一定の間隔でモニターが埋め込まれている。しかしそのモニターは砂嵐が映っている。
重そうで厚い扉には「焼却処理室」と「関係者以外立ち入り禁止」と大きく書いてあった。
「うっわ、焼却処理室だってよ」
天城が青ざめた顔をする。
「ああ。そうだな。とりあえず、城崎たちと合流したい。ここにいるかが問題だがな」
「どうやってここに来たのか分かんないからな~。白い手しか記憶ないんだけど」
「白い手?」
渡島が眉間に皺を寄せると、天城はしまったと、口を押さえた。
「いや、なんか、白い手みたいのに引きづられて・・・・」
渡島に首を絞められたことは伏せておこうと思っていたが、そこの説明が必要になってきてしまう。どうしよう、と天城は俯いた。
「・・・・・・弟が見えたんだ。あの時。多分、その時だな・・・・?」
天城が目を泳がせ、渡島は天城から視線を外した。
「多分、そう」
確かに、渡島の真っ白い弟がいた。こちらを見ていた。
「何と無く、お前が弟に見えた。随分でかい弟だったけど」
天城は首を傾げる。ここに来ておかしなことばかりだ。そういえば家は大丈夫だろうか。部活はもう終わっただろうか。
「話変わるけど、今、何時?」
渡島がポケットから携帯電話を出し、開くとディスプレイをズボンで拭く。もう癖のようだ。
「話変わりすぎだろ」
ディスプレイを天城に向ける。10時38分。生憎圏外が表示されているせいで、家に電話もできない。
「うっそ・・・・・」
普段の生活ならもう夕飯を終え、入浴も終え、課題をやっているかテレビを観ている時間だ。ところが今は、まだ「部活中」だ。
「随分と長い部活だよな・・・・・。いつ帰れるんだろ」
「明日には帰れるんじゃないか?」
「これからどうするの?」
「・・・・・行きたいところがある。何階建てかは知らないが、上の階だと思う」
天城はえ?と渡島を一瞥した。
「ここのこと、何か知ってんのか?」
天城がそう訊ねると、渡島は不安そうな表情を浮かべる。
「いや・・・・・」
表情豊かな渡島が珍しく、天城は調子が狂う、と小さく呟いて後頭部を掻き乱す。傷んだ茶髪がぱさぱさと手に当たった。
「行ってみるか!他に行くところもないしな」
「ああ」
洋館にはそぐわない研究所のような、特撮ヒーローの基地ような、そんな廊下。
会話はなかった。沈黙が続いた。足首が痛むのか時々天城の歩みが遅れる。足の痛みについて疑問を抱かない天城に渡島は安堵したが、同時に罪悪感もあった。手探りのように、廊下を歩き回った。窓のようにあるモニターには砂嵐以外何も映らなかった。
帰れるのだろうか。ふとそんな疑問が湧く。
ここに来るべきではなかったのではないだろうか。ずっと洋館にいるべきだったのではないだろうか。
本当に触手なんていたんだろうか。幻覚。白昼夢。妄想。それなら白江はどこへ?何故いない?これすらもう夢なのか?
斜め後ろを歩く仲間に弱音を吐きたくなった。けれどプライドが邪魔をした。
もう弱いところをみせたくなかった。こんな状況でも笑えていられる仲間から笑顔を奪いたくなかった。
「渡島」
「なんだ?」
天城が足を止めた。
「今じゃなきゃ、ぜってぇー言わないけど。渡島って強いよな」
どうしてこいつはこのタイミングでそれを言うんだ、と渡島は思った。
「ずっと、手、震えてんだ。緊張して胃なんだかどこなんだか分からないところがキリキリする」
天城がへらっと笑って右手を渡島に見せた。小刻みに震えている。
「・・・・・・」
「渡島が強くなかったら・・・・。もしここでわんわん泣いちゃうようなタイプだったら、オレ、もっと楽なのに・・・・」
渡島は振り返った。
「・・・・・・すまない」
恐怖ではない。不安だ。もう不安しか残っていない。疲労がそれを助長する。
「そうすれば、オレだって・・・・・」
天城らしくない。もう限界か。そう感じた。
「泣いても、俺は構わない。変な虚勢なら、なくていい」
誰に言ってんだ。こつんと渡島は自分の頭を軽く殴った。
「泣かねぇよ。渡島が泣くまで」
「・・・・・頼もしい限りだ」
「・・・・・渡島に、殺されそうになる夢、みたんだ」
渡島は俯いた。
「俺は、お前を殺したか」
天城に向かって斧を振り上げたのはついさっきのことだ。
「・・・・・殺さなかった。代わりにもっと大事なもの失くした気がした。けど違った」
天城は分かっていて言っているんだろうか。渡島は拳を握りしめた。
「オレを殺さなかった渡島が助けたのは、オレだけじゃなかった」
「・・・・・・」
「オレ一人が死ぬだけって思ってたけど・・・・」
「天城」
天城の言葉を遮って、渡島が口を開いた。
「俺には弟がいた」
いた。過去形。天城は顔を顰めた。城崎との会話を思い出す。
「死んだが」
天城は何も言わず頷く。
「それで初めて、人が死ぬっていうのはそいつだけの問題じゃないって知った。そいつの家族だけの問題じゃないって知った」
「弟の友達が泣いてた。弟の行ってた保育園の人たちも。近所の人も、俺の親戚も。誕生日パーティーを潰して葬式に来た女の子もいた」
渡島の背景を訊きたかった。けれど天城には訊けなかった。弟が死んだ話は一部だろう。まだ深い背景がある。そんな気がした。そんな彼に夢の中でも罵ったのは、馬鹿だと思った。
「・・・・・・夢ん中でお前のこと殴った。謝れなかったから、本物に謝っとく」
天城はにかっと笑って鼻の下を擦る。
「天城」
渡島が背を向けた。
「なんだよ」
「行くぞ」
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少年はワイシャツの前を全開にし、裾をはためかせ歩いた。その布は土で汚れ、草を磨り潰したのか緑の染みと匂いがこびりついている。狭い廊下の左右の壁からは透き通った白濁の腕が縋りつくように揺れている。
この廊下にひとつしかない、水色のクレヨンでがたがたの線路が横断する扉を少年は開いた。
捲くられた絨毯と、吊るされた人形。背の高い少年は、難なく人形に手を伸ばし、天井から生えたフックから縄を外す。薄汚れたそれを大きな胸に抱き、床に嵌め込まれた扉を見下ろす。
ああ・・・・もう行っちゃったんだね・・・・・
床から、壁から、天井から、真っ白い腕が少年を誘うように揺らめいた。
******
*
お兄ちゃんの後輩の身体を借りた。体格が全然違うから、身体が重い。頭も痛いし、気持ちが悪い。この人の身体は乗っ取りやすいけれど、この人が首からか けてる青い宝石の魔除けが強すぎて、気分が悪い。僕はこれに弱いから、いい子じゃないんだ。だって魔除けは悪い子に効くんだよ。
でもこうすれば、ここにいる間はお兄ちゃんといられる。
お兄ちゃんと、そのお友達と、この身体の主はさっき、出口も入り口もない廊下から、この館の住人に運んできてもらった。お兄ちゃんはずっと苦しんでいる。死んだフミキのこと。パパのこと、消えたれいた兄ちゃんのこと。あと、ママのことも。
お兄ちゃんが運ばれたのは、「しょうきゃくしょり室」っていう、要らないものを燃やす場所なんだって。
お兄ちゃんとそのお友達の様子を見せてもらった。向こうからこっちは見えないから、お兄ちゃんは僕を見られないんだって。
お兄ちゃんがかべから生えたクサリに繋がれている。そしてお友達も。まだお兄ちゃんもお友達も起きない。
こうして遊ぶんだって。お兄ちゃんがどうするのか。お兄ちゃんが足を切るのか。友達を見殺すのか。
お兄ちゃんが死んだら、ここにいてくれるのかな。そうしたらまた勉強教えてくれるのかな。
でもお兄ちゃんが足を切ったら、もう走れないのか。
サッカーをしてくれるお兄ちゃん。自転車を押してくれるお兄ちゃん。
お兄ちゃんが傍にいてくれたら、いいのに。そうしたら、ママが泣いちゃう。ママが泣くのはいや。悲しいから。お兄ちゃんが傍にいてくれたとしても、ママが泣いたら、お兄ちゃんも悲しくなる。そうしたら僕も悲しい。
この部屋を管理するおじちゃんはおかしい。お兄ちゃんを殺す気だ。お兄ちゃんが足を切り落としても、どっちにしても、お兄ちゃんが死ぬんだ。
他に、女の人と深兄ちゃんがいた・・・・。深兄ちゃんよりそのお兄ちゃんの光兄ちゃんのほうが仲いいけど。だって深兄ちゃんは怖いんだもん。でも、お兄ちゃんがシンライしてる人だから。
僕は走った。重い身体をひきずるように。
無理矢理連れてきたお兄ちゃんの大きいお友達の姿を気に入った「あいつら」が仮眠室に行ったのを見た。「住人」があの廊下から女の人と深兄ちゃんを連れてきた。
あの人たちに頼めば・・・・・っ!
仮眠室は生卵を投げつけたみたいに汚かった。そして焦げている。
折り重なるように2人が壁にもたれて倒れている。血塗れで。遅かったかと思った。
でも死んでいるのは、1つ。絡まりながらナメクジに塩をかけたみたいに縮こまって、液体を流すあいつら。
「和泉・・・・・・・く・・・・・ん・・・・」
苦しそうに女の人がこの身体の主を呼んだ。深兄ちゃんは動かない。死んだのかな、なんてね。
「・・・・お兄ちゃんが、殺されちゃうっ!」
本当のことなのに、そう言った瞬間、女の人は僕をきっと睨んだ。
「貴方も、偽者・・・・?」
深兄ちゃんを庇うように女の人が濡れて光るドライバーを僕に向ける。
「渡島先輩がっ・・・・!」
この身体の人は多分、そう呼んでる気がする。この人の記憶では、渡島先輩って呼んでる。
お兄ちゃんの名前を出した途端、女の人の顔つきが変わる。
よろよろと立ち上がり、女の人は仮眠室から出ていった。一人残された僕は壁に寄りかかった深兄ちゃんに手を合わせた。前とは全然違う雰囲気。赤い眼鏡。 眼鏡なんてするタイプじゃなかったのに。いつもおじさんとおばさんにおこられてたのにね。生きているとこういう風に変わる。お兄ちゃんとも仲悪かったのに ね。この身体の人は仲がいいって言ってるよ。
胸元が青く光りだす。この人は、れーばい体質のくせにほんものの「おかるとしゅみ」なのかな。どうしてこんなものもっているんだろう。こんな強力な、お守りを。
ああ、そろそろだめなんだね。でももういいよ。もう安心できる。
安心して消えられる。安心して、眠れるからさ。
本当の意味で、僕は消えるけれど、もう大丈夫だよ。
女の人が、お兄ちゃんを助けてくれるから。
だってね、そうでしょ。
****
【掲載終了】




