朱の洋館 7
「信じられない、が、天城が嘘をついているとは思えない。・・・・・・・余程の馬鹿ってのはあるかもしれないが」
「えっ・・・・ちょ・・・・・」
天城が眉間に皺を寄せて苦笑した。
「身体に異変は・・・・?」
「ない」
天城は疼く傷に手を這わせてみた。絆創膏が剥がれた。粘着剤のついている部分も血がつき、肌につかないのだ。
「なら行くか。もたもたしていられないしな」
渡島は背負っている和泉の様子を一瞥すると、天城や城崎、龍宮に視線を配った。
「渡島って和泉になんだかんだ甘いよな」
歩き出す渡島の後ろで天城がそう城崎に呟いた。
「そう?」
城崎も歩き出し、天城も並ぶように歩く。
「聞こえてるぞ」
渡島が天城を睨む。
廊下を歩いてすぐの階段の前まで来ると、城崎が渡島を手伝った。龍宮が様子を見に、階段を下りる。城崎から除草剤のタンクを預かって、天城もゆっくりと階段を下りてくる2人より先に下り、龍宮に並んだ。
「こっちの部屋よ。ちょっとショッキングかもしれないけど」
階段を下りきってすぐ前にある玄関を見る。ここに来たのが昔のように感じた。もうずっといるかのような。龍宮は、天城たちから見て左側の廊下を指した。
「そうなんすか。ここにはオレは来てませんでしたからね」
龍宮は落ち着いているようだ。女子というものは、こういう所に来たら、きゃーきゃー騒ぐものだと思っていた。少しの驚きと感心と、変に胸に広がる温かさ。不思議と龍宮の視線の先を追ってしまう。そして行き着く先は渡島で、渡島の視線の先を追っても自分の興味のあることは何一つない。
天城は龍宮の言うとおり、左の廊下を進んだ。そして曲がり角を曲がる。長い廊下が続く。壁には扉。そして、上手いとはいえないがたがたのクレヨンで書かれた線路。
「子どもでもいたんですかね」
天城の膝ほどの高さに書かれた線路を見つめた。
「ね、やっぱり気になるよね」
天城は扉のノブに手を掛ける。回して、押す。電気が点いていた。すぐに首を吊った人形が視界に入った。そしてその下にいる、真っ白い肌の、小さな子ども。
天城はびっくりして一瞬鼓動が速くなったような気がした。隣にいた龍宮も声は上げなかったけれど、口元に手を当てている。
天城が見たものより、まだ小さい。本当に、小さい。真っ黒い海のような2つの瞳に見覚えがある。形がそっくりで。細面の輪郭も。
こちらに気付くことも無く、鉄道が描かれた絨毯に寝転んで絵を描いている。
「・・・・・・・渡島!」
天城は曲がり角から姿を現す渡島の名を呼ぶ。びっくりしたようで、目を見開いたが、また不機嫌そうな表情に戻って、用件を訊ねる。
「・・・・・・渡島って、弟いるのか?」
天城が首を傾げた。渡島は、見たことがないような、怪訝そうな、けれど悲しそうな、嬉しさも含んでいるような、どの表現も違っていて、どの表現もあっているような表情をした。背後の和泉を落としそうになって、城崎が和泉を抱きとめる。
「どういうことだ!?」
どたどたと天城のもとに大股で近寄り、胸倉を掴む。怒鳴り散らした。声が廊下に響き渡る。龍宮が怯んだ。城崎も、エイリアンでも見るかのような表情で渡島を見、和泉を抱えた。
渡島が部屋の方に顔を向けた。微かな歯軋りの音。
真っ白い肌の子どもは水色のクレヨンで、自身と同じくらい真っ白い画用紙に電車の絵を描いている。
「二三貴・・・・・」
歪んだ笑顔を浮かべ、真っ白い子どもを呼んだ。けれどそれは誰もみたことがない邪気の無いもので、それなのにどこか歪んでいる。そして光っていると思えば、涙で濡れている。
「渡島君・・・・・」
「ふみ・・・・・」
真っ白い子どもは確かに漆黒の瞳をこちらに向けた。反応はなく、ただ水色のクレヨンで絵を描き続ける。
「渡島。二三貴君は、死んだんだ。惑わされるな」
城崎が和泉を抱え、渡島のもとまでやっと辿り着く。冷静な城崎の声が、渡島だけでなく、天城や龍宮にも突き刺さった。渡島は、膝からがくりと、芯をなくしたように崩れ落ちる。拳を強く握りしめ、床に叩き付けた。嗚咽も耳に届いた。
真っ白い子どもは水色のクレヨンごと、身体が透け始めている。
「心身ともに、僕等、限界なのかな」
そんな感じは無かった。何日もここにいたわけではない。腹が減っているわけでも、喉が渇いているわけでもない。
すっと、跡形もなく、それらは消えた。
「わた・・・・しま・・・・せんぱ・・・・・・」
和泉の声は渡島には届かなかった。天城は悲痛そうな表情で、泣き崩れる渡島を見つめた。龍宮は城崎に視線を送ったが、城崎は緊張を緩ませるかのような笑みを浮かべただけだった。
「僕から・・・・・何か、話すつもりはないです」
城崎は渡島の肩に手を置く。渡島は立ち上がって、目を拭った。
「・・・・・悪い。ノーカンな」
鼻を啜って、また目元を拭う。目が赤い。
「何のだよ」
天城は苦笑いして渡島の髪をぐしゃぐしゃと掻き乱す。
白江ならここで相手を気遣わず、ずけずけと訊けるのに、と思いながら、天城は渡島を見つめた。訊けばおそらく渡島は教えてくれる。だから尚更訊けない。渡島は訊けば、教えてくれるから。自分が傷付こうと、誰が傷付こうと。自身のことなら。第一、1年半一緒にいるが、弟がいるなんて話は聞いていない。兄弟の話題になったときだって、渡島は一人っ子だと自分で言っていたはずだ。
「和泉、悪かった」
城崎に和泉を背負うのを手伝ってもらうのを天城は見ながら考えた。
「わたし・・・・・ま・・・・・先輩・・・・・・」
和泉の弱々しい声。青白い手が渡島の頬に触れた。
「冷たいな」
「すみま・・・・せ・・・・・・。俺・・・・・・・」
「気にするな」
渡島は部屋に入った。城崎も続いて中に入り、鉄道の描いてある絨毯の端を掴んで、捲る。部屋の中心の方まで捲り上げると、周りのフローリングの床とは違う素材の円形の床が現れる。
「変な造形だな」
ノブが埋め込まれている。天城はそれを摘まみ上げて、掴み、円形の床を引っ張る。軋んだ音とともに、扉が開く。
「階段・・・・・」
龍宮が呟く。
「結構急みたいだぞ・・・・・。和泉は歩けないのか・・・・?」
天城が渡島の背後で震えている和泉を見た。無理そうだ。
「・・・・・・様子見てくる」
城崎に除草剤のタンクを預けて、天城は真っ暗な道の続く階段を下りた。
「僕も行くよ。タンクお願いします」
城崎の声に天城は顔を上げた。
「お、おう」
真っ暗だ。この先に光がない。
「なんか、オレの未来みたいだ」
大きく溜め息をついた。
あの真っ白い級友を見て、自分はこれから、いろいろなものを背負わなければならないのだろうか、と思った。
「・・・・・・・真っ暗にしたくても、真っ暗にならないこともあるよ」
暗くて、城崎の表情が読めなかった。天城は首を傾げた。不幸を望んでいるということだろうか。それを訊こうとしたが、城崎の声が耳に届いた。
「逆に、もう解放されても、未だに縛られているやつもいるんだけどね」
「それ、渡島のこと?」
瞬間的に頭に渡島のことが浮かんだ。
「うん。出血すれば瘡蓋になるけど、渡島は出血しっぱなしだ」
渡島はいつも人を食ったようなやつだと天城は思った。けれど、あんな表情をする。そしてその背景に、自分には考えられないようなことがあるのだろう。何なのだろうか。知るのは簡単だ。簡単過ぎて、躊躇う。
「・・・・・・あのさぁ、興味はあるんだけどね、渡島に訊いたら絶対答えるでしょ」
「答えられたら困るのかい」
「渡島はさ、訊いたら、自分のことなら何でもしゃべっちゃうだろ。渡島が話したくなくても、意思に関係なく。それが嫌」
「天城は・・・・・優しいな。僕もそんな風になれたらよかったのに」
優しい、って何なのだろう。人に都合よく当たることだろうか。人に圧迫感を与えないように接することだろうか。城崎はそのあたりの答えが出ているのだろうか。訊きたい事が一気に増え、けれど訊く余裕も与えられない。そして彼等から答えを貰わないと、変われない気がした。ずっと――あのままから、変われない気がした。
「城崎と、一緒にいるのはたまに分からなくなるけど、いろいろ、勉強になるよな」
「そう?」
「だって、チョコレートなんとかソーダなんて普通知らないって。学校でやんのか?やっぱすげーよ。頭よすぎ」
天城は冷たい壁を伝いながら階段をゆっくり、ゆっくり下りていった。平衡感覚がとれているのか、いないのかも分からず、城崎が近くにいるのは声でしか判断が出来なかった。
「そうかい。でも僕は、天城にも教わることがいっぱいあると思っているよ」
城崎はきっと今笑った。天城には見えなくても、そのビジョンが浮かぶ。城崎は不自然さが自然なくらい、笑う。そしてそれが愛想笑いなのも知っている。城崎が笑いたくて笑っているのではないことを。昔のことだけれど、長い間、そういうのを見ていたから。
「大変じゃねぇ?」
思ったことがふと漏れた。慌てて、自分が何を言ったのか気付き、口元を押さえる。
「暗いし、大変だね。この階段長いし」
安堵の溜め息を吐き、天城は脚の感覚だけを頼りに階段を下り続けた。次第に、視界の先に白いラインで描かれた長方形が見える。扉だ。
「城崎、ドア!」
階段の段差と感覚を把握した天城は駆け寄っていった。
「照明器具かなにかないかな・・・・・。やっぱり危ないよね」
ドアに鍵は掛かっていなかった。天城はドアを開く。数分ぶりに見た光が目に痛い。
「とりあえず、渡島たちを呼んでこようぜ」
天城はドアの外を覗きながらそう言った。
廊下だ。すぐ廊下に出た。
「そうだね」
「ドア、閉めなくてもいいよな」
「ああ。閉めないほうがいいかもね」
廊下の明かりを借りて見える城崎の顔。笑みを浮かべている。この笑みを見るたび、どこか複雑な思いが消えない。ここに来てから。アレに会ってから。
「城崎さ、ありがとうな」
こんな状況で笑えるはずないのに、どうして笑うんだろう。
「城崎、笑ってないと、オレが不安になるわ。・・・・・渡島はぜってーあのぶすくったれた表情やめないと思うけど」
「そうかい」
天城は俯いて階段を上がった。この暗さなら顔なんて見られはしないのに。
「天城」
まるでお互いが、この闇に呑みこまれていないことを確認するかのように、沈黙が流れることはなかった。
「何だよ」
「和泉君に渡島が甘いのは・・・・・・察してね」
天城はきょとんとした。何となく言った一言を城崎が覚えているとは思わなかった。自分も深い意味があって言ったわけではない。
「え。あ、うん。でもさ、城崎はどうして知ってんだ?」
渡島と城崎は仲が良さそうにはどうしてもみえない。寧ろ仲が悪そうにみえた。城崎は温厚で、穏やかで、和やかに事を運ぼうとするが、渡島は刺々しく、突き放す物言いをし、そして多少の衝突をしても事を運ぼうとする。いくら柔軟な城崎も、渡島相手では柔軟性を損なっているようだった。
「僕の父さんが、渡島の父さんの弟だからだよ」
「ってことは、あれだ。親戚だ」
「そう、いとこ」
下りよりも距離が短いように感じた。暫く上って、渡島たちのいる部屋に辿り着く。
「大丈夫そう?」
龍宮が屈んで天城と城崎を見下ろした。
「ええ。廊下に繋がるようです」
「っていうかさ、渡島、携帯電話持ってたよな」
「ああ。先輩、ポケットに入ってるんで、取ってください」
龍宮に身体を向け、龍宮は赤面して、俯き、黙って渡島のポケットに手を入れた。白い手に、モスグリーンの携帯多電話を握って、ポケットから手を出す。
「足元くらいなら照らせそうだな」
龍宮が携帯電話を開いて、渡島の足元を照らす。渡島は、水に足を入れて慣らすかのように、ゆっくりと踏みしめる。
「きついなら代わるから」
天城は鼻で笑った。
「誰が怪我人なんか頼るか」
城崎が除草剤のタンクを持って、最後尾にいる。天城は暗い中、すたすたと先に行ってしまった。
「ここは、地下っていうことだよね?」
龍宮が城崎に訊いたようで、後ろから声が聞こえる。暗闇の中で響き渡る。天城は、鈴の音のような綺麗なその声に、少し気持ちが和らいだ。
「ええ。多分、そういうことですね。山の内部でしょうか」
「そんなところまで・・・・・ね・・・・」
渡島の舌打ちが小さく聞こえた。
そんなところまで、どうして来てしまったのだろう?
「天城」
視線の先に、光が入ったとき、渡島に呼ばれた。
「お前は、誰に会ったんだ」
何を指しているのかはすぐに分かった。天城はぎゅっと、一度口を引き結ぶ。
「オレは・・・・・」
「・・・・・・俺は、二三貴に会った。間違うはずがない。あれは俺の弟だ」
開きっぱなしにした扉の外の廊下の光が、薄暗く渡島の顔を照らした。
「・・・・・・・話すと、長くなる」
渡島の表情は無い。いつも毒を含んだ笑みなら、とても不機嫌そうな表情なら、浮かべているのに。
「小学校のとき、いじめがあってさ」
城崎の表情が険しくなって、天城から目を逸らしたのを、天城は気付いた。
「俺は、いじめてたやつの近くにいた。けど、何もしなかった」
脳裏を、真っ白い肌をしたリューとショータが支配した。
「いじめられてたやつはさ、なんか精神的にぎりぎりだったみたいで・・・・」
「やめようっ!」
天城の言葉を遮るように、城崎の声が響いた。
「天城、やめよう。聞きたくないんだ。渡島、頼む。言わせないでくれ」
城崎が眉間に皺を寄せ、苦しんでいるような表情を見せた。彼も、過去にいろいろあったのだろうか。天城は城崎を一瞥する。
「・・・・・悪かった」
渡島も不思議そうな表情で城崎を見ていた。
「城崎」
ただ、これだけは言っておきたかった。
「城崎はオレに、オレみたいになれたらよかったみたいなこと言ってたけど、オレはみんなが思っている以上に、卑しくて惨めで、酷いやつなんだ」
全てを話して、周りが自身にどのようなイメージを持ってしまうのか、理解できた。それを承知で、言おうか、言うまいか迷った。けれど隠すつもりはなかった。だから渡島が話せというのなら、話してしまうつもりだった。隠す必要は無い。この傷に気付いてしまったときから、隠すことは出来ないのだと悟った。
城崎は俯いた。
「それなら天城。俺は、救いようの無いやつだ」
一人称も、口調も、それは城崎のものではなかった。その声質と姿でなければ、きっと別人だろう。
「城崎・・・・・」
自身の過去と、城崎。どこかリンクする部分があったのか。薄暗いなかにいる渡島は複雑そうな表情で、城崎は俯いたまま。天城はそんな城崎を凝視しているだけ。沈黙が流れた。
「行こう」
龍宮の声がまた響いた。
「君達がどんなやつらなのか、決めるのは自分じゃないよ」
いつもより、高いはずの低い声。その声に天城は苛立ちを見出した。初めて聞いた。天城らの先輩、彼女の同級生から冷たくあしらわれ、もう一人のマネージャーには笑われ、貶されても、笑ってやり過ごしていたのに。
「君達がどんな偽った皮を被っていたのだとしても、私はそんな偽モノの、貴方達が好き」
「先輩・・・・・」
龍宮は先に、廊下に出た。天城も後に続いて、廊下に出た。左右に分かれている。
「2手に別れようか」
渡島が気不味さを誤魔化すようにそう言った。渡島はあまり場の雰囲気とかに飲み込まれる感じではなかったので、天城には少し滑稽に思えた。
「男手が欲しいでしょ」
龍宮が和泉に視線を送って、そう言った。
「そうですね。出来たら」
「じゃぁ、オレ、行くよ」
天城が小さく手を挙げた。
「怪我人かよ」
「じゃぁ城崎指名しろよ」
「いや。大丈夫だ」
「とりあえず、全部の部屋とかみたら、またここに戻ってこよう?」
龍宮がそう言った。




