朱の洋館 6
どうして俺はあのときショータを助けなかったのだろう。別に俺が標的になるのが怖いとかじゃなかった気がする。俺がショータを庇っても、俺の味方でいてくれるやつはいたという確信がある。
『あ の 時
ショータ と、
一 緒 に い て く れ た じゃ な い か 』
白い者は天城を見つめたまま何かを訴えているようだった。黒い海に浮かぶ白い瞳は潤み、眉間に皺を寄せ。
俺はただ、自分より下の人間が欲しかっただけだ。
俺が一番下なのではないと。自分の劣等感に言い訳が欲しかっただけだ。
そして自分は誰かの上に立っているのだと。最もらしい言い訳をつけたかっただけだ。
そうやってランクをつけたかっただけだ。
「・・・・・ショータを助けたんじゃない・・・・」
『ワタルは・・・・友だっ・・・・・・・天城!お前は俺の友達だよな??』
ふと頭に響く調子が変わり、天城はふと白い者を見た。なつかしい。この声はリューだ。
懐かしいけれど聞き飽きた台詞。溜め息を吐かせるには十分で、呆れされるには行き過ぎている台詞。
『ワタル・・・・!ワタル・・・・・!主様が来る・・・・!!!!』
『助けてくれよ天城!助けてくれ!』
ショータとリューの2重の響きが脳に伝わる。声変わりをしていない幼い2つの声が重なり、違うことを言う。天城は眉間に皺を寄せた。
『逃げてワタル!逃げて!』
『天城!俺をこの身体から出してくれ!天城!主様から助けてくれ!』
天城は混乱した。白い者が2つの声で天城に訴える。凄い重力がかかったかのような動きで白い者は立ち上がり、天城の腕を掴んだ。
「ショータ・・・・・」
『ワタル、ショータと一緒にいてくれたから、助ける』
ショータの声が頭の中に響き、それきり助けろ、頼むというリューの声しか響かなくなった。
白い者は天城の腕を強引に掴むと、その後ろのクロゼットを開け、上から1段目の大きなところに力ずくで天城を入れた。
パタンという音に視界が真っ黒になり、外の音は曇って聞こえた。
別に、トイレの便器から、ゴミ箱から教科書を拾い上げるクラスメートを見て、何も思わなかったわけじゃない。
別に、モップや箒で叩かれ、埃を掛けられるクラスメートを見て、何も感じなかったわけじゃない。
別に、給食に鉛筆削りカスを掛けられるクラスメートを見て、どうにかしようと考えなかったわけじゃない。
別に、図工の時間に作った作品を破壊されるクラスメートを見て、声を掛けようと思わなかったわけじゃない。
過去の自分は謎だ。行動が、昔の自分の筈なのに理解できない。どうしてあんな行動をしたのか、しなかったのか。
天城は小さく蹲って頭を抱え、眦が裂けるほど目を見開き、暗い視界は何も捉えなかったけれど足音と、物音を鼓膜が捉えた。すぐ近くだ。
ビシャっという水面を叩いたような音が聞こえた。頭を上げた。足音が遠ざかり、扉の音が聞こえた。
「ショータ・・・・?」
クロゼットを開け、床に足を下ろす。床に、顔半分が崩れ、墨汁のようにドス黒い液体を身体中から広げる、真っ白い肢体と、ぼろ布。天井を見上げる漆黒の中に浮かぶ白い瞳。動かない。広げたままの掌。
天城は手を合わせて、目を瞑った。どうしてショータがここにいるのだとか、こんな姿になっているのだとか、今の天城にはどうでもよかった。
ただもし、俺がもっとはやく、ショータに対する優越感のようなものに気付いていたのなら、ショータもリューも一緒に小学校も中学校も卒業できたかもしれない。いじめなんてどこにでもあるのに、どうしてもっと早く気付かなかったんだろう。
クロゼットを最後にもう一度確認すると、自分が入っていた段の隅に褐色の液体が入った白いタンクが置いてある。ラベルは字が薄くなっていて読めないが、「除草」の文字が読み取れた。そのタンクを持って、天城はこの部屋から出た。
*
天城はタンクを引き摺るようにして龍宮と和泉のいる部屋に戻った。いつもならこのタンクの大きさ、重さなら何と言うことはなかったけれど、首を噛まれた痛みと、何より、精神的に重かった。
小学生の頃の級友の変わり果てた姿。あれから数年も経っているのに、変わらない身体。けれどもそれは人とは思えない変わり方だった。
「天城君・・・・首・・・・」
戻ってすぐに龍宮が天城のもとに寄ってきた。
「あ・・・・すみません」
タンクを部屋の隅に置いて、ソファに寝ている和泉を一瞥する。
「渡島君がメディカルキット、見つけてくれたの」
龍宮は和泉の寝ている横に天城を座らせた。
「渡島は、もう戻ってきたんですか」
「うん。またすぐ探索に戻ったけど・・・・」
龍宮は消毒液のパッケージの表示を読んでいる。外装は古い。中身は使えるのだろうかと天城は思った。
「大丈夫です、絆創膏か何かあれば」
「・・・・・天城君、これ、噛み傷じゃない・・・・?」
龍宮は苦笑いを浮かべて、外装のシートが薄い褐色に焼けている絆創膏を出す。言及してこないのはありがたかったが、気を遣われている気がして、天城は俯いた。
龍宮が絆創膏を貼っている最中に天城は口を開く。
「実は、俺も信じられないんすけど、真っ白い人間がいるんですよね・・・・」
龍宮は聞き返す。天城はそれが分かっていたようにことの成り行きを話し出す。首筋の傷が痛んだ。
数年前にいじめられていた少年の人格といじめていた少年の人格を併せ持つ、肌が真っ白い人間。それに首を噛まれたこと、クロゼットに押し込められ何者かから庇ってもらってそれは死んでしまったこと。
「ショータ」と「リュー」の話は天城は正直したくなかった。龍宮に嫌な人間だと思われるかもしれない。けれど、それが本当の隠しようのない天城自身だった。
「触手がいるから、もうあまり驚かない事実ね」
龍宮はそう言って笑った。
「俺は・・・・・・・情けない・・・・」
膝の上の拳を強く握った。
「俺は馬鹿だっ!大馬鹿なんだよっ!俺はっ・・・・・っ!」
いつの間にか忘れていた過去の事実。思い出さなければよかった。意地でも渡島に、城崎に2階を任せればよかった。黙って聞いていた龍宮が絆創膏の入っていたシートを丸めて、空っぽのゴミ箱に捨てた。
「話を聞いている限りではさ、天城君はただの傍観者だったんだね。本当に」
「・・・・・・はい」
「傍観者は加害者・・・・か・・・・。それってでも、いじめられてる側からしたら、そうして助けてくれないのって、助けてって思うかもしれないけど、傍観者側からしてみれば、明日は我が身。下手な行動起こすより、自分の身を守りたいもの」
天城は頷いた。いじめられることが怖かったのではないけれど、結局は「自分」を守りたかったのは一緒だ。
「誰もが同じような想いで、同じような勇気があるわけじゃない」
龍宮が少し苦い表情を見せた。それを取り繕うように笑いを貼り付けた。
「白江君は、天城君に毎回助けられてるって言ってたよ」
揶揄い甲斐のある白江への行為がいじめと呼べるものに発展することも幾度かあった。
「それに情けなくない人間なんて多くいないよ。私だって、ここに来てから、震えが止まらないの。緊張してるみたいに、心臓はばくばくいってる。胃に違和感もある。みんな冷静だから、私も何とか冷静でいられるけど」
「・・・・・そうすか。そうすよね。いまだに頭じゃ全部処理しきれてないっすよ」
天城はそう言って笑いかけた。
考えるのはやめようと思った。もう過ぎたことだから。今はここから出ることと白江を見つけることが先決。それが考えずとも導き出されている答えだから。
掌で乾いた自分の血を見つめた。じくじくと傷口が痛む。
「てん・・・・じょ・・・うせんぱ・・・・・い・・・・?」
ソファに身体を委ねた和泉が目を覚まして小さな声で呟く。顔色が悪い。悪すぎる気がする。天城は頬にぶっきらぼうに手の甲を和泉の頬に当てる。
「冷たいな。冷や汗もかいてる・・・・」
「すみませ・・・・・・」
意識が朦朧とするようで、大きな瞳は半分ほどしか開いていない。焦点も合わず、寒気がするのかぶるぶると小刻みに震えている。
天城は自身が着ていたジャージのジッパーを下に引き、脱いだ。
「大丈夫かよ・・・」
脱いだ上着を和泉に渡す。天城は白地に両腕と胸元部分が深い青のロングティーシャツ姿となった。
「ごめ・・・・・んな・・・・さ・・・・・い・・・・」
和泉がそう言ってまた目を閉じる。天城は溜め息をついた。
「入るぞ」
落ち着いた声が聞こえ、ドアが開く。ブランケットを持った渡島と城崎が入ってくる。
「除草剤、見つかった」
天城が自身で運んできた除草剤を指す。
「・・・・天城、怪我・・・・っ!大丈夫か!?」
「お疲れ様。・・・・・消毒液は傷んでるからな」
城崎はとても驚いたようで、大股で天城に寄ってきた。渡島は落ち着いたままで、天城の傷より除草剤に興味があるようでタンクを調べだす。
「和泉、大丈夫か」
除草剤タンクの表示がほぼ読めない。
「クロレートソーダか。よく燃えるぞ」
「は・・・?」
渡島がポケットを撫で付ける。ライターを気にしているのか。
「危ないものなんだよ」
「どうすんだよ・・・!?」
「それ自体が発火することはないから大丈夫だよ」
タンクを見て驚く天城。城崎が笑ってそう加えた。
「そういうことだ」
そう言って渡島は和泉にブランケットを投げた。龍宮がそれを広げて和泉にかけた。
「渡島ってさ・・・・」
「わた・・・・しませ・・・・・んぱ・・・・い」
天城が口を開くと同時に和泉が渡島にお礼を述べた。渡島は素っ気無い返事をするだけ。
「問題は、和泉君なんだよね・・・」
城崎はどこから出したのか羊皮紙の手帳を開いてそう言った。
「それは?」
龍宮が訊ねる。
「俺が3階で見つけたんだが、1階のふざけた部屋の絨毯の下に地下通路に通じる階段の隠し扉がある」
渡島がそう言った。視線の先に弱々しく息をする和泉の姿がある。
「・・・・・・そうだよな・・・・・」
天城が呟く。自力で立てそうにもない。
「俺が背負う。ここにいても仕方ない。外に出なきゃだろ」
渡島はソファに背中を向け屈むと龍宮は和泉が渡島の背中に乗るように手伝った。和泉を背負うと渡島はドアへと歩き出す。龍宮は和泉の様子を見ながら渡島のすぐ近くを沿うように歩きだす。城崎も除草用タンクを持って歩き出す。
「無茶すんなよな・・・・」
天城が苦笑する。城崎は天城の首をじっと見ている。
「天城、君、何したんだ?その傷」
城崎が口を開く。その問いに興味があるのか、廊下に出た渡島も振り向いた。
「真っ白い肌の人か化け物かも分からないものに会った」
渡島は眉間に皺を寄せ、城崎は聞き返す。
「話すっていうよりは頭に響いてくる感じなんだけど・・・・・・・・」
「知能があるのか」
「多分・・・・・。なんかその人間なのか、化け物なのかも分からないものに助けてもらったんだけど・・・・・」
「今それはどうしている?」
「死んだ。クロゼットに無理矢理押し込まれて、誰か来て、出てきたら死んでた。主様って呼んでた」
天城は情けなく笑う。
「真っ白い肌って言ったな。どれくらい?」
「渡島より、もっと」
渡島が顔を顰める。
「そういう人間的な肌の白っていうか、絵の具とか、そういう次元の白」
付け加えるようにそう言った。城崎は首を傾げていたが、訊きたいことは全て渡島が訊いたようだ。
「それに噛まれたのか」
天城は頷いた。
「ここは安全じゃないのか・・・・・?」
城崎そう口にした。




