彼との1位
彼との1位
学業成績について悩む。
*
兄が、事故に遭って、右半身が動かなくなってから、俺は償いのように、勉学に、クラブチームに、部活に励んだ。何かで一番をとらなければならない気がした。せめて、この狭い「高校」という名の枠組みでは。
俺は、兄が事故に遭って右半身が動かなくなってから、自分の楽を禁じた。それが償いだ。
中間考査の個票を部室で見ていた。今日の部活は雨で中止。傘を忘れた俺は、雨宿り中といったところだ。
教科の下に並ぶ数字に溜め息が漏れた。前回の考査より下がっている。身体がかっと熱くなった。
2位。上に誰か、1人いるのだ。点差は、2点。苦手科目の物理で、1位の者と、2点差がついてしまった。
雨の音が耳の裏にはりつき、けれど、それとも違う騒音が耳の奥から込み上がってくる。最近こんな調子だ。気に入らない、思い通りにならないと、おかしくなる。冷静でいたいのに、いられなくなる。両耳を押さえて、屈んで、奥から込み上げてくる騒音に耐える。
「ちわ~っす(^-^)ゝ」
呑気な声で、部室に先輩が入ってくる。意地悪な先輩達じゃないほうの人たちだ。この部活の先輩は先輩同士で仲が悪い。
「・・・・白江先輩・・・・」
俺は、部室に入ってすぐにあるテーブルの影に屈み込んでいたせいで、白江先輩は俺に気付かなかったようだ。
「あ~、和泉。びっくりさせないでよ~(`へ´)」
「あいさつしてくるものだから、気付いていらっしゃるのかと思いました」
いらっしゃるなんて~と、白江先輩は照れたように笑っている。この先輩が苦手だ。年よりかなり精神年齢が幼い。空気も読めないし、デリカシーもない。
「大丈夫?お腹痛いの?」
能天気な声。いつも、いつも、「幸せ」しか知らなそうな笑顔が癪に障る。白江先輩がそんな笑顔を失くして駆け寄ってくる。
「テストの個票?」
傍に落ちていた細長い紙を白江先輩が拾い上げる。すぐに渡してくれるのかと思えば、白江先輩は中身を見る。どうせ、もう、要らないものだ。1位を手放していたその時から。
「へぇ・・・・すご・・・・(●▽●)」
目を大きく見開いて、大人っぽい顔立ちなのに、幼児みたいな表情で個票を見つめている。
「・・・・返してください。そんなもの・・・・・」
「和泉は1位じゃないと、満足できないんだ?」
物理科目のところだけ、「2」と印刷されている。気に入らない。気に入らない。その個票も。1位を取るやつも。1位を手放してしまった自分も。
「ええ。そうです・・・・・」
一通り俺の順位を見て、個票を返した。それをぐしゃぐしゃに丸めて、部室の隅にあるゴミ箱に投げ入れた。重さもないそれは、跳びすぎて、円形のゴミ箱の縁と、部室の角の間には入った。
「あんな個票、部室に捨てたら、一種の自慢だよ」
「そんなことないでしょう。城崎先輩より、渡島先輩より・・・・・点数低いですから・・・・・」
多分この部で、1番2番くらいに成績も頭も良い先輩を挙げた。
「偏差値だけなら和泉くんの方が上だよ。競っている相手が違うけど」
この人に何が分かるんだろう。いつも、へらへら笑って、甘えて、ふざけて。
「俺は・・・・1位が取りたいんじゃないんですよ。1位じゃないとだめなんです。1位じゃないなら、要らないんです。順位も、得点も」
「・・・一度1位を取ると、怖くなる?」
白江先輩がそう訊ねた。いや、確認のようだった。
「怖いです。最初はたまたま、ただ1位を取れただけで、嬉しかったのに」
1位なんてもの要らない。欲しくない。1位なんて取らなければよかったのに。そうすれば自分に期待することなんてなかったのに。
1位ばかり取っていた兄も、こんな感情ばかりだったのだろうか。兄の代わりになるなんて、荷が重すぎた。無理だった。出来るはずなかった。悔しい。甘っ たれだ。勉強ばかりしていたのに。努力すれば報われると思ったのに。兄に、どうして勝てないんだろう。どうして兄の代わりにはなれないんだろう。
眼球の奥が熱くなり、眼球が押し出されるように沁みる。視界が滲んだ。
「和泉には、自分以外に1位を評価してくれる人が、いるの?」
ふと顔を上げると、白江先輩が眉間に皺を寄せていた。
俺は頷いた。
1位でも、2位でも、自分には母が、父が、兄が、自分を評価してくれる。「次も頑張ってね」。「よくやったね」。父も、母も、兄も、俺が1位であることに当然だと思う人がいないのが、前まで悔しかった。けれど
「・・・・・・いいな・・・・・」
小さく、呟くような声が漏れた。切なそうな、寂しそうな表情で。こんな顔するのか、と思った。いつも甘えて、へらへらしていて、ふざけていて。
「ごめん、オレ、帰るっ!」
白江先輩はまたへらへらした笑みに、ぱっと変えて、部室を飛び出していった。
その笑いと表情が変な気分だった。胸の辺りに、もやもやが残る。
兄が、自分を守って、交通事故に遭った。自分があの時、いなければ、兄は交通事故になんて遭わなかったのかもしれないのに。右半身が動かなくなって、学 校にも行けなくなった兄の代わりに、1位を毎回取ってくる兄の代わりになろうとしていただけなのに。「兄の代わり」なのに。「俺のこと」みたいに父も、母 も、兄も、喜ぶ。
雨はまだ強く降っているのに。なんで白江先輩は、あんな表情をして、あんなことを訊くのだろう。
あの人も1位を取ったことがあるから・・・・?
それでいて、白江先輩は寂しそうだった。1位以外に喜びがあるだろうか?
*
「和泉」
びしょ濡れの先輩が入ってきた。俺がさっき、部で1番2番くらいに成績や頭が良い人として挙げた、渡島先輩。この上なく不機嫌な表情だ。
「こんにちは・・・・っす・・・・」
「本当の1位のヤツの前で、俺が1位みたいなこと言うなよな」
渡島先輩が不機嫌な表情でそう言った。言われた直後は意味が分からなかった。
「入りづらかったじゃねぇかよ」
ワイシャツが濡れ、肌に纏わりついている。学ランは脱いでいるようで、渡島先輩がロッカーから着替えのTシャツを出している。
「え?」
意味を理解した俺は咄嗟に声を上げた。顔を顰めた渡島先輩が俺に顔を向けた。
「本当の1位って・・・・」
「文系じゃ白江が1位だよ。理系じゃ負けないけどな」
「え?どういうことでs・・・」
渡島先輩の舌打ちが聞こえて、俺は訊くのをやめた。
「じゃぁ・・・・なんで・・・・あんなこと訊いたんだ・・・」
1位なら、それでいいじゃないか。どうしてあんな表情をするんだ・・・・?
「どこまで話していいのか、話していいのかさえ分からないが・・・・・」
渡島先輩が暫く俺を見てから、口を開いた。
「白江はネグレクトされてたんだ。今は一人暮らしみたいだけど」
ネグレクト・・・・?って、あれか。育児放棄のことで合っているんだろうか。
「複雑なんだろうな。何位でも、評価されるやつ見てると」
渡島先輩がそう言った。
評価が、そんな大事なのか?俺は、評価されるために、勉強しているのか?
違う。
俺は、「兄の代わり」のためだ。「俺のため」じゃない。学校の推薦が欲しいわけでもない。
父も、母も、「俺のこと」みたいに喜んでくれるけれど、たまに、叱ってもくれるけれど。
俺のせいで、1位を取れなくなった兄に償うには、まだ1位を追い求めるしかない。
俺が、「俺のため」に1位を取りたいと思うまでは。「俺を」評価されたいと思うまでは。
だから、白江先輩の1位と、俺の1位は違うんです。同じでも。
‐END‐




