かすかな希望
バスを降りた俺は家までの遠い道のりをただただ思考停止状態で歩いた。
バスの中の非日常からやっと解放されたからだろうか。
それまで恐怖、驚きに抑えられていた疲れが一気に台頭してきていた。
そして気が付くと俺は自分の家の玄関をくぐっていた。
「ただいま…。」
小声ながらも、無意識に声が出ていた。
今は声を発するような気分では無かったのだが、どうやら習慣というのはなかなか自分の身からは離れないらしい。そして母親からの「おかえリー。」という返事。
今までの異常な出来事が嘘だったのではないかと思えるほどのいつも通りすぎるこのやりとり。しかし、さっきまでの非日常とのギャップが俺には今日という日がさらに異質なものに映っていた。
ゆっくりとした足どりで無表情、そして無感情に自分の部屋に向かう。ドアノブに手をかけ、ドアを開ける。すると、ドッ、という衝撃を感じた瞬間、俺の視線はドアノブから天井に移りかわった。
「何だあの野郎一、あれでも俺の弟かよ!」
男は、仰向けになっている俺の上にまたがり、胸ぐらを掴むやいなやそう俺の顔に向かって大声で叫ぶ。それこそ、感情を発散するかのように。
あ、そうか、俺はバイオレーンズに殴られて倒れたのか。
思考停止状態で不意打ちされたものだから何が起こったのか分からなかったがようやく理解できた。…って、えーー!
「何で僕はいきなり殴られなければならなかったんですかねー。あと言ってることが意味不明なんだよっ。」
そう言いながら俺は、上に乗っているバイオレーンズを突き放す。さっきの不意打ちで今までの出来事が頭から一時的に吹っ飛んだので冷静に切り返すことができた。
「全く、自分の感情を人にぶつけるのはやめてくれよなー。俺そういうの絶対やんないよー。」
「お前、自分の感情を抑えて生きてて楽しいんかー?」
バイオレーンズは俺の顔をじろじろ見ながら本当に不思議そうに尋ねてきた。
「やかましいわ、八つ当たりは他の人の迷惑になるだけだ。だから俺は決して感情だけで動くことのない、他者に迷惑をかけない、精神的に大人になることを目標としているんだよ。それが俺の思う人間の理想像の一つだからだ。」
おっと、つい熱弁してしまった。感情で動くことを否定しておきながら…、我ながら情けない。…あの時も…。
へえー、とバイオレーンズは納得したようにやや笑ったような顔で顎に手をやり頷く。そして腕を組んでさらに続ける。
「人間的に成長した人になる、他者のために、えらいねー。でもなー、いくら他人のためとは言っても、自分を犠牲にすることはないんじゃねーの? あの時みたいにさー。自分にとっては唯一の人生だぜ? 自分が楽しまなくてどーすんのよ。」
「……。」
何も考えずに出て来たような、適当に吐いた、というようなマヌケな表情をバイオレーンズはその顔に浮かべていた。しかし、それにしては俺の頭に深くえぐりこんできた。
深く悟されるよりも、さらっと言われる方が、当然のことを言われているようで深く刺さる気がする。
自己を犠牲にするよりも、自分が楽しんだ方がいいとは思う。でも…、たとえどんな理由があろうとも、静乃を犠牲にして自分が助かるのは…、自分を犠牲にするよりもつらいじゃないか!
あの時、俺の頭に素直に静乃の行為を告発しようという考えに至らなかったのは、潜在的にそういう意識があったからなのかもしれない。
まあ…あそこでそれを言っても疑いは晴れるどころか、印象が悪くなり、さらに俺に不利な状況に傾いていただけだっただろうけど…。ん?いや待てよ…。
「って、お前も自己犠牲の上で俺を助けてたじゃねーか。」
俺が大声で突っ込むと、バイオレーンズはそれをあざ笑うかのように返した。
「違うよ。気付いてなかったの?俺は弟の思い通りに事が進むのが癪だったからやったまでだぜ。結果的に助けるかたちになったけどよ。」
「ど、どういうことだ…!?」
驚き、不安、そして若干の嬉しさが俺の胸中に湧き出てくる。




