9. 『あんたらがやんなよ』
「これですよ! これ」
「いやいや坊っちゃん、ちょっと落ち着きなさい」
当惑した正一が諭すように言う。
「何の話をしてるんですか?」
「これで作るんですよ、さっきの。『鯨鍋』」
聞いている二人は、さらに怪訝の色を濃くする。
「おいちょっと。大丈夫?」
藍がポンポン峻の頭を叩いた。
正一は何も言わない。
眉間に皺を寄せ何か考え込んでいる様子だ。
「うーん、そういやあ私も何か聞いたことあるな……」
少し間を置いて、
「鹿肉の紅葉、みたいな感じで、猪の事を『山鯨』と呼ぶっていう話」
「ええ」
そうです。間違いありません、と峻は力強く頷いてみせる。
「これが鯨だとしてさあ、どうすんのさ?」
藍は、長い前髪をくるくるといじりながら、声を上げた。
苛々している時の癖らしい。
「こんな生きてるやつ、どうにか出来んの? アタシは無理だよ」
男二人は冷水をかけられたような表情で、顔を見合わせた。
「いやあ、生きてる鯨捕まえるよりはマシでしょう!」
「そうそう、海に入らなくていいし……」
「当たり前だろ!」
藍が怒声を発する。
「取りあえず解体はあんたらがやんなよ。アタシは家に居るから」
そういうと、くるっと踵を返してさっさと帰ってしまった。
「あの人、かわいいとこありますね」
もう藍が見えなくなってから、正一が呟く。
峻が顔を見ると、ニヤニヤ笑っているのがわかった。
「どこがです?」
「だって。ものすごい勢いで行っちゃったじゃないですか。見たくなかったんでしょう。解体するの」
言われてみると、なるほど、と思う。
「……で、するんですか? 解体」
真顔で正一が問うてきた。
「し、しますよ。そりゃあ」
しないわけにもいくまい。
「なにか道具を探しましょう」
さっきの家の中の方がありそうだが、取りあえずこの「イノシシ牧場」から調べてみることにした。
「あの納屋みたいなとこみてみましょう」
正一に従い、峻は真っ暗闇の納屋に侵入する。
何せ暗くて何も見えない。
道具を探すとかいう話にもならなかった。
「……一回あの家に帰りましょうか?」
ここを探すにしても、明かりがいるということに今更ながら気付いたのだ。
「蝋燭は藍さんが持ってっちゃったし……。外なら結構明るいんですけどね、風情もあって」
峻は、遥か空を望みながら言った。
さっきまで居た川島家からは見えなかった、満ちた月のことを言っているのだ。
漆黒の空に輝くのは、月のみで星々は影も形もない。
……どうせ作り物の世界のこと、万年満月なのだろうが明るいに越したことはなかった。
おい! と呼ぶ声がする。
「う、ウワァァァー!」
振り向くと、藍が包丁を両手に持って立っていた。
「ほれよ、使えよ」
叫びを上げた峻に構わず、包丁の柄の方を向けてくる。
「あ、こりゃどうも」
ひょっこり出てきた正一が、軽く受け取った。
「あともう一回台所見てみたら、野菜があったよ。鍋やる時に使おう。野菜ぐらいは私が切ってやるよ。じゃあ終わったら呼んで」
そそくさと踵を返す。
「さ、さっきありませんでしたよね、そんなの?」
台所は見たはずだ。
「猪が鯨ってのが正解だったから、出てきたんじゃないの……?」
曖昧にモゴモゴ言いながら、藍はまた去っていく。
「じゃあ、やる?」
正一が峻に包丁を渡そうとしながら言った。
どうも、やれということのようだ。
峻は、どうせなら美味そうなやつを選ぼうかと思ったが、そのうちにどうでもよくなった。
「まず殺さなきゃいけないんですよね……」
そこからハードルが高い。