記憶
僕は、平成二年九月に生まれた。
父は薬品メーカーの営業マン、母はフィリピン人だ。
今では、ハーフタレントなどのおかげでハーフのイメージはよくなったが、当時は相当大変だったそうだ。
後々、僕自身もハーフであることに苦しめられるが、父と母の結婚の時はかなり揉めたらしい。
フィリピン人=水商売のイメージは、長野の片田舎では当たり前で親戚一同の大反対にあっていたみたいで、両親はでき婚だったので一歩間違えば僕はこの世にいなかったかもしれない。
実際、母は水商売をしていた。
水商売というと聞こえがいいが、いわいるフィリピンパブで父と母は知り合ったようだ。
そんな経緯を知っていたかどうかわからないが、結局、長野の本家は最後まで反対していたそうで僕の曾祖母は、結婚式には出席しなかった。
一部には、祝福して貰えなかった僕の誕生だった。
母は当時何を思っていたのだろうか。
異郷の地で、言葉もわからず、わんやわんや言われ相当な精神力だと感心してしまう。
この頃のことは、当然僕には記憶がない。
僕に自我が芽生え、しっかり記憶が残っているのは、四歳ぐらいだろうか。
ちょうど、弟が生まれたあたりから記憶がある。
弟が生まれてから、すぐに母は夜の仕事に行くようになった。
父の帰りは遅かったので、夜の数時間は弟と二人きりだった。
この頃から夜になると無言電話が掛かってくるようになっていた。
母がいるときは、母が電話に出ていたが、母がいない時は僕が出ていた。
受話器を取るとすでに電話が切れいて、それが留守番をしていて一番怖かった。
そのうちに、夜中にワンコールで切れる電話が掛かってくるようになっていった。
それが当たり前になっていたが、今、大人になって考えてみるとやはりそれが異常だったし、この無言電話あたりから僕ら家族の歯車がおかしくなっていったんだと思う。