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Episode.Ⅶ 追憶~憧れの人の背中~

 事件は施設の食堂で昼食をとっている時に訪れた。


 「館長、ちょっと・・・・・・・・・・・・・」


 一人の職員が、山本に声をかけた。その職員に手招きされ、山本は食堂の入口の向こうへ消えていく。


 その様子を、仁一はぼんやりと眺めていた。あの年齢で、こんな大きな施設を回していくのは相当な苦労だろうと思う。自分がここで暮らしている頃は、そんなこと全く考えもしなかったが、一人の社会人になった今となっては、あの人の努力は計り知れない。本当に、偉大な人だ。


 「ジン、どうかしたの?」


 「んあ、いや。つくづく山本さんはすごい人だなって思ってよ。俺はあの人に育ててもらえて、幸せだった」


 ビアンカの声で無意識から引き戻された俺は、右手に持ったスプーンで昼食のカレーをすくい上げる。


 「珍しくしおらしいじゃない」


 「そうか?・・・・・・・・まあ、ガキの頃の我が家だからな。色々思い出すよ。そう言えば昼飯がカレーの日は、毎回二杯目の争奪戦してたよなぁ」


 食事の一場面からですら、無数の記憶が蘇ってくる。それほど、昔のここでの生活は俺にとって大きな存在となっている、と言うことなのだろう。


 「いやぁ、にしてもカレーが美味いな!やっぱ最高だよな、カレ――――――――――――――――――」


 仁一の手がふと止まる。


 何か、音が聞こえた。割とここ数年聞き馴染んだ音だ。よく通る、乾いた音。―――――――――――――――――――銃声だ。


 仁一は瞬時にビアンカとアイコンタクトを取る。


 そしてスプーンを皿の上に置き、今度はシグマの方を見やる。すると、彼もどうやら音を聞いたらしく、少々険しい面持ちで仁一を見つめていた。


 「ビアンカ、ちょっと行ってくる」


 彼女は小さく頷いた。幸いなことにも、子供たちには聞こえてないようだった。


 仁一が席を立って出口へ向かうと、それを追うようにシグマも席を立ち、仁一の背を追う。二人は廊下に出て、玄関先へ。玄関の扉から左側、小さめの運動場を挟んだ先の正門が銃声の発生点だ。シグマが器用に扉の隙間から外の様子を窺う。


 「どうだ、シグマ」


 「正門に男が四人。その手前に館長さんと男性職員一人。あいつら・・・・・・・・・・あの感じだとヤクザかなんかだな。トカレフ持って派手な柄物の背広を着ていやがる」


 「ヤクザ?なんでそんな連中がここに?山本さん借金でも作ってんのか?」


 自分の目でも現場を確認したいが、迂闊に顔を出せば向こうがどういった行動に出るかも分からないので、仁一はシグマの義眼に頼るしかなかった。


 「会話は聞こえるか?」


 「ノイズがちょっと混じってるけど、なんとか。・・・・・・・・・・・・・土地の買収?」


 「土地ぃ?ここって売りに出されてんのか?」


 「いや、そんなわけないだろ。売地だったら来るのはヤクザじゃなくて不動産屋なはずだ」


 ますます話の先が見えない。もっと情報が必要だ。


 「なんだなんだ?・・・・・・・・・・借金、覚えがないって?どういうこった?館長さん、借金の覚えはないって言ってるぞ?」


 「じゃあ向こうさんが一方的に、山本さんが借金してるって言ってんのか?」


 仁一の言葉に、シグマは首肯で答える。ヤクザの連中は、ありもしない借金を山本さんにふっかけてるということなのか。しかし何故?


 「相変わらず話が見えねぇな・・・・・・・・・・・。今どんな会話してる?」


 「恐喝だ。施設の子供たちの安全は保障しかねる、だとよ」


 「またまたあの人には手痛い脅し文句だこと・・・・・・・・・・・・」


 「あ、ヤクザの連中が離れてった。・・・・・・・・・・・・・どうする?」


 そう言ってシグマはこちらを見つめてくる。視線を合わせると、瞳の奥で何かが細かく動いているのが見える。


 「とりあえず後で直接話を聞こう。付き合ってくれるか?」


 そう言うとシグマはこくりと頷いた。




*     *




 「山本さん、ちょっといいですか?」


 昼食後の昼寝の時間、俺は事務室へと赴いた。都合のいいことに室内に他の職員はおらず、山本さんだけがデスクに向かって作業をしていた。


 「あら、仁一君と・・・・・・・・・・・シグマ君、だった?」


 「どもっす」


 背後にいたシグマは軽く会釈をした。急に二人で訪れたからか、山本さんは少し不思議そうな表情をしていた。


 「どうかしたの?」


 「いや、実は・・・・・・・・・・・昼間、山本さんがヤクザみたいな連中と会話してるとこを見たんです。なんか、あったんですか?」


 触れられたくなかったのか、そう口にした途端、山本さんの表情に薄っすらと影が差した。


 「・・・・・・・・・・・見られちゃったか。さて、どこから話そうか・・・・・・・・・・・・」


 そう言って山本さんは顎に手を当てて低く唸る。


 「半年くらい前からね、あの人たちが私に借金があるって言って取り立てに来るようになったの。でも借金に身に覚えはないのよ。借りた記憶も保証人になった記憶もないし、真偽を確認しようにもあの人たちは上から命令されたとしか答えてくれないし・・・・・・・・・・・・・」


 「警察に相談は?」


 シグマが尋ねる。


 「したらただじゃおかないって脅されたのよ。子供たちのこともあるし、あまり下手に動けなくてね」


 とっくに釘は刺されていたというわけだ。そりゃあ行動も起こせないだろう。


 「一応確認しますけど、借金した覚えも保証人になったこともないんですよね?」


 山本さんはゆっくりと頷く。ビアンカではないので彼女の言うことが本当かどうかは分からないが、少なくとも嘘を言っているような気はしない。真偽はどうであれ、今は彼女の言葉を信じるしかない。


 「じゃあジン、俺たちでなんとかできないかな」


 「んお、珍しいな。お前から世話焼きにいくなんて」


 「ここにいる子供たちはみんな孤児なんだろ?俺は孤児だったっつーか、割と微妙なんだが、両親がいないのは変わりないからさ。ほっとけないんだよ」


 なるほど、最もらしい理由だ。ただ、なんとなくだが照れ隠しな気がする。単純に、子供を人質に取るような真似が許せないだけだろう。


 「でも俺らだけで勝手に決められないだろ。とりあえずビアンカには話通さねぇと」


 「ちょっと、なんとかって、どうするの?」


 二人でぶつぶつ言い合っていると、山本さんがそう投げかけてきた。


 「あ~、えっと・・・・・・・・・・・実は俺ら──────────────────」




*     *




 「なるほど。事情は大方把握したわ」


 そう言ってビアンカは紅茶の注がれたティーカップに唇を触れさせた。ほのかに鼻を抜けるような香りが漂ってくる。


 「できるものなら力になりたいんだよ。山本さんには返しても返しきれない恩がある。肉親がいないから、せめてもの親孝行がしたいんだ。頼む」


 そう言って仁一は両膝に手をついて頭を下げる。


 「そうは言っても、見返りが無いわ。ヤクザが絡んでくるならそれなりのリスクが付きまとうはずよ。せめてその分は報酬を貰わないと、採算が合わないわよ」


 ソファの背凭れに腰かけた桜子が溜め息交じりに言う。確かに、そういった裏社会の組織が絡んでくる以上、何かしらのリスクが発生してしまうのは否めない。しかし、だからと言って何もしないでいるのは仁一としては辛いことこの上ない。


 「それにあの施設、経営状況的にもギリギリなんでしょ?うちも今月ちょっと厳しいんだから、ノーリターンでは仕事できないわよ」


 こうも説き伏せられてはぐうの音も出ない。仁一は重い溜め息を吐き出しながら視線を床へと落とした。さて、どう説得したものか。


 「なんなら俺が個人的に調べてみようか?」


 「い、いいのか?」


 「ああ。殺しの依頼で、ちょっとそっち側の連中に用があってな。上手いこと欲しい情報が手に入るかは分からないけど、探れるだけ探ってみるよ」


 そう言ってシグマはソファから腰を浮かして、ハンガーにかけてあったコートを手に取った。


 「あと、数日顔出せないから。なんかあったら連絡してくれ」


 そう言ってシグマは事務所を出て行った。仁一はソファに背を預け、大きく息を吐く。


 「俺も色々探ってみるか・・・・・・・・・・・」


 「どうなっても知らないわよ」


 桜子が溜め息交じりに呟く。


 「見返りを捻出できるなら、サクラも考えを変えるんじゃないかしら」


 ビアンカが誰へとでもなく言った。その言葉に桜子はものすごい勢いでビアンカの方へ首を巡らせる。


 「ちょっとビアンカ、余計な事言わないでよね!!」


 「あら、ごめんなさい。でもリターンがあるなら考え直すのは事実でしょう?」


 「いや、まあ・・・・・・・・・・・・・・そうだけど」


 桜子はそう口籠りながら言う。確かに何かしらの見返りなり報酬なりがあれば桜子を説得できるし、他のメンバーからの承諾も得やすいだろうが・・・・・・・・・・・・・・・。


 「んな簡単なことじゃねえんだよなぁ・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 仁一はそう独りごちリ、天井を見上げる。しかし、やるだけやってみるしかないだろう。


 「んじゃあ、俺も個人的に当たってみるかねぇ」


 そう言って仁一は上体を起こし、テーブルに置かれていたチョコレートに手を伸ばした。


 「あんたにそんな情報網あったの?」


 「失敬な。それなりにあるんだからな?」


 そう言いながら包み紙を解き、甘い香りのする固体を口の中へ放り込む。


 「つっても、闇でメカニックやってた頃のコネだけどな」


 仁一は探偵団に所属する前は合法非合法問わずメカニックマンとして生計を立てていた。その過程でシグマとビアンカに出会い、探偵団へ加入することになった。ここに来てそれなりに経つが、何度かその筋は使っていたりする。


 「それにしても、ヤクザの連中はなんでありもしない借金ふっかけるのかしら」


 「さあな。そっちの世界じゃそういうのはよくあることなんじゃねぇの?」


 それの真偽も情報を集めれば自ずと分かってくるかもしれない。とにもかくにも、まずは行動を起こさないことには始まらない。


 「さて、俺はそろそろ行こうかねぇ」


 仁一は徐に腰を持ち上げ、玄関へと爪先を向けた。


 「ジン、ちょっと」


 「ん、どした?」


 歩き出そうとした瞬間、ビアンカの声が背後から聞こえた。半身を後方へ向け、ビアンカの方を見る。


 「無理はしないように」


 「・・・・・・・・・・ああ、分かってる」


 急に改まってどんなことを言うかと身構えたせいで、肩透かしを食らってしまった。お陰で返事に一瞬まごついた。


 ドアノブに手をかけて捻り、事務所の外へ踏み出した。階段を下りて、駐車場に停めてある車に乗り込む。


 ドライバーシートに凭れ掛かり、一つ溜め息をついたところで、仁一は徐にズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。そして今となっては懐かしい名前を探し出し、その番号にコールする。


 数回のコールののちに通話が繋がる。久しく聞かなかった声が、仁一の耳に届く。


 「──────────────────よお、久しぶり。いきなりで悪いんだけど、ちょっと会えねぇかな」


 手早く要件を済ませて、通話を切る。


 不思議なことに、電話を終えてからというもの、背後に嫌な予感が付きまとう感覚に襲われるようになった。




*     *




 二日後、仁一は再び施設を訪れていた。昨日はバイト中にあれこれ考えて、結局背中には不快感が齧りついたままだったので、とにかくもう一度山本に話を聞こうと思い立ったのだ。


 「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!!せんせぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」


 屋外の広場で子供たちと遊んでいると、一人の男の子がいきなり泣き出した。


 何事かと辺りは騒然とし、数人の子供が彼のもとへと歩み寄る。


 「おい、どうした?何処か怪我でもしたか?」


 男の子の前でしゃがみ、その顔を覗き込む。目元は真っ赤に泣き腫らし、頬も朱に染まっている。そして何も言わず、ただわんわんと鳴き声を上げながら仁一の背後を指差した。


 仁一が振り返ると、そこには不貞腐れたようにむくれた、一人の男の子が立っていた。真っ黒の髪は寝癖がついたままで、服装は寝間着と思しきTシャツと半パンだった。


 「なんかあったのか?」


 仁一は男の子に尋ねた。


 「別に。遊ぶつもりもないのにしつこく誘ってくるから、軽く払い除けただけだよ」


 「嘘だぁ!!!!!殴った!!!!」


 泣きじゃくる男の子を見ながら、自分の小さい頃にもこんなことがあったと思い出した。この時大人たちはどうしていただろうか・・・・・・・・・・・・・・・・・。


 「ちょっとちょっと、どうしたの?」


 そこで施設の職員が駆け付けた。彼女らが来たなら自分の出る幕はないだろうと、彼らの発言を伝えて、群がる子供たちを払うことに専念した。


 人払いをしながら、ふと振り返ってあの男の子を見る。


 相変わらずのしかめっ面で、不機嫌そうに職員の女性と話をしている。なんとなく、誰かにとても似ている気がした。顔つきが、とかではなく、雰囲気とかそんなものが。


 というかそもそも──────────────────────


 「あんな子いたっけかな・・・・・・・・・・・・」


 以前ここに来た時にあのような少年は見かけなかったと思う。そこまで大きい施設ではないが、それなりの規模があるので認識していないだけ、見えてないだけということは間々あるだろうが、それでもあのような不機嫌オーラ全開の少年には見覚えがない。


 「この前おじちゃんが来たときはずっと部屋にこもってたよ」


 「あ~、そりゃ見覚えもないわけだ。あと“お兄さん”と呼べクソガキ」


 仁一は足元にいた少年に返事を返すと、無表情で鬼のごとく少年の横腹をくすぐり始めた。


 仁一は少年の横腹をくすぐりながら、山本にあの男の子の話を聞こうと思った。


 「山本さん、ちょっといいですか」


 昼食を終えた後の昼寝の時間、仁一は事務室へ赴いた。


 「あら、仁一くん。どうかした?」


 「ああ、いや、大したことじゃないんですけど。今日の午前、喧嘩してた男の子のこと教えてほしいんです」


 仁一がそう言うと、山本はおかしそうに笑みをこぼした。


 「ど、どうしたんですか?」


 「ううん、ちょっとね。いつかは必ず聞いてくるとは思ってたけど、いざそうなるとおかしくって」


 そこまで言うと山本は一つ息をついて、仁一に向き直って口を開いた。


 「似てるでしょ、あなたに」


 そう言われて、仁一はハッとした。誰かに似ているとは思っていたが、何処の誰でもない、自分自身ではないか。


 「性格もよく似てるのよ。割と悲観的なところとか、一つのものに入れ込むと一直線なところとか。人との接し方もよく似てる」


 「でも少し違う、とか?」


 仁一がそう言うと、またしても山本は微笑んだ。


 「そういう聡いところもそっくり」


 そうこまで言うと、山本の表情に少し影が差した。


 「あの子はね、親に暴力を振るわれて育ったの。母親の再婚相手である夫にね。そのせいで彼自身、大人に暴力を振るわれるのが当たり前だと思って生きてきたわ。この施設に来たときは大変だったんだから」


 山本はオフィスデスクの上に転がっているボールペンを弄びながら話を続ける。


 「最近では私たち大人が苦労することは少なくなったんだけど、入れ替わりで今度は子供たちとの衝突が増えてね。あの子、どうも他人が信用ならないみたいでね。そこはあなたと違うわね。あなたはどちらかというと避けられてた方だからね」


 そう言われ、仁一は苦笑いを浮かべながらこめかみのあたりを人差し指で掻く。


 「でもあの子は避けてるの、周りの人間をね。そこがあなたと決定的に違うところ。だから、ちょっと心配でね」


 そう言って山本は虚空を見つめた。どうやら自分の時とはまた別種の苦労をしているのだな、と仁一は思った。


 事務室を出た仁一は、階段を上ってとある部屋を目指した。あの後、山本によろしく頼まれてしまい、どうしたものかと深く溜め息をつきながら、一段一段足を乗せていく。


 目的の部屋の前に到着した仁一は、再び溜め息を吐いた。


 「俺とそっくりな上、使ってる部屋が俺と同じか・・・・・・・・・・・運命感じちゃうねぇ」


 そう独りごちて、仁一は部屋の扉をノックした。


 返事はない。


 仁一は再びノックした。しかしやはり応答はないのでしきりに扉を叩く。


 すると扉がごんっ、と大音声を立てた。内側から強く叩かれたのだろう。


 「中にはいるのな・・・・・・・・・・・・・」


 そう言って仁一はポケットから細い針金を取り出した。そしてドアノブの下にある───────────過去自分が取り付けた───────────鍵穴に滑り込ませた。そしてもう二本取り出して穴に突き刺す。手慣れた手つきで複数の針金を動かしていく。


 数十秒後、カチリ、と小気味良い音が発せられた。それを確認すると、仁一は差し込んでいた針金を全て抜いてドアノブを捻った。床板をぎしぎしと軋ませながら闇の帳の中へ足を踏み入れる。


 「ひっ・・・・・・・・・・・」


 奥の方からか細い声が聞こえた。


 数歩室内へ歩みを進め、昔の感覚を思い出しながら壁を手でまさぐる。目当てのもの、照明のスイッチを探り当てると、仁一は迷わず押した。


 明るくなった室内の中央では、へなへなと床に座り込んだ少年が驚愕の表情で仁一を見上げている。


 「あ~、タネ明かしするとだな・・・・・・・・・・・あの鍵取り付けたの俺なんだわ。昔暇潰しに弄ってたし、まあ開けられないわけはないってこった」


 たとえ違う種類の鍵に付け替えられていたとしても解錠できたことは、仁一は敢えて伏せた。


 「初めまして、だな。砂羽宏樹くん」


 仁一を見上げる少年、砂羽宏樹は丸く開かれた目を吊り上げると、手元にあった空き缶を仁一に向かって投げつけた。


 「な、なんだよ!!!俺をどうするつもりだ!!!」


 顔に向かって投げつけられた空き缶を受け止めた瞬間、刺激臭と腐卵臭をごちゃ混ぜにしたような強烈な臭いが仁一の嗅覚を突き刺した。


 「オエくっさ!!!!どうするもこうするもこの部屋の掃除が先だ!!!」


 仁一が怒鳴り散らしながら部屋の隅に寄せられていたゴミ袋の山に空き缶を叩きつけると、ゴミ袋の陰から一つの影が高速で飛び出した。


 それを認めた瞬間、仁一の右手が閃いて腰に下げられたポーチから摘まんだものを投げつけた。仁一の腕が振り下ろされた刹那、とすん、という音が室内に響いた。


 蛍光灯を反射する銀色のポイントに真鍮色のバレル、漆黒のシャフトとフライト。仁一が投げたものはダーツだった。そしてそのポイントで壁に磔にされているのは、黒っぽい、長い触角のすばしっこい生き物。


 「おいボウズ、殺虫剤持って来い」


 宏樹は自分の部屋にその生き物が現れたことよりも、高速で移動するそれを一撃で、しかもダーツで仕留めたことの驚愕を感じながらその言葉を聞いた。




*     *




 熱帯夜の纏わりつくような風がコートの裾を軽くはためかせる。東東京、またの名を旧東京都心地区と呼ばれるこの土地に赴いたシグマは、街灯とネオンで鮮やかに照らされる雑居ビル群を眺めながら歩いていた。


 半世紀近く昔、過剰な人口増加によって規模の拡大を余儀なくされた東京都は、大規模なベッドタウンとなっていた神奈川県の東半分、山梨県東端部、埼玉県南部、茨城県南部、千葉県東北部を吸収合併し現在に至るわけだ。


 シグマが歩いているのは旧都心地区、旧東京都庁のあった場所の近く。東京という都市の在り様が変わってもなお、歌舞伎町と呼ばれ親しまれているネオン街。八方から押し寄せる客引きの手をすり抜けて、シグマは路地裏の暗がりへ踏み込んだ。シグマはここへ、ある人と会うためにやってきた。決して風俗店などで女遊びをするわけではない。ただ、何故歌舞伎町なのかというと、風俗店などの怪しい店の裏側に用向きがあるからだ。


 昔からここや六本木などの所謂歓楽街にはヤクザや暴力団、マフィアなどの拠点が多く存在する。実際、そういった歓楽街───────────それこそ歌舞伎町のような街を舞台にしたヤクザの抗争などを描いた作品は多く存在する。紙袋に入れられたウイスキーを携えて薄暗い道を歩く。


 しばらく歩くと目的の場所へ着いた。ここの反対側の通りにはキャバクラがあり、シグマの目当ての人物の組織がバックとなって運営している。建物の入り口前には黒のスーツをきちんと着こなした若い二人の男が立っていた。シグマが二人の前へ歩み出ると、男二人は手でシグマの行く手を阻んだ。


 「お前らのオヤジに伝えてくれ。土産持ってきてやったから面貸せってな」


 男たちは訝しげな表情でシグマを見ていたが、彼の手元に視線が落とされた途端、得心が言ったかのような表情で懐から携帯端末を取り出した。


 「ご案内します、こちらへどうぞ」


 そういって右手にいた男が促した。男に従い、シグマは建物の中に足を踏み入れた。


 「それと、オヤジから言伝です。来るときはアポ取ってから来やがれ、と」


 「取ったら取ったでドタキャンするのはそっちじゃねぇか・・・・・・・・・・。都合のいいジジイだぜ」


 つかつかと廊下を歩きながらそう毒づく。アポを取り付けていざやって来てみたら急用で外出につき留守───────────無論、居留守だが───────────なので出直せ、ということがあったのは一度や二度ではない。向こうさんはすこぶるシグマのことを毛嫌いしているらしい。


 薄暗い、というより間接照明によって明るさが抑えられた漆黒の廊下を突き当りで曲がると、エレベーターホールに出た。そこには坊主頭に飴色のレンズのサングラスをかけた、屈強な体格の男が立っていた。


 「アニキ、お待ちしていやした」


 「葛木、それやめろって言ったろうが」


 腰をきっちり四十五度に曲げた男、葛木庄司は強面には似合わない人懐っこい笑みを口元に浮かべた。


 「いいじゃねっすか、この組の連中は誰一人としてアニキにゃ勝てやせん」


 葛木はそう言いながら開いたエレベーターの扉の奥へ手で促した。


 「いい歳こいたオッサンが年下に“アニキ”って、恥ずかしくないのかよ」


 「自分より強い相手に敬意を払うのは当然のことですので」


 エレベーターに乗り込むと、次いで葛木が乗り込んでボタンを押した。緩やかな浮遊感を感じながら、随分と律儀なもんだなと思った。


 「アニキなら顔パスでも構わねぇんですが、あいつら最近入った若い衆なんですわ。許してやってくだせぇ」


 「いや、気にすんな。そもそも顔パスで通ろうなんてつもりもねぇよ」


 ここへ来るたびに思うのだが、シグマは何故自分がこんなにも好かれているのかはよく分からない。


 葛木は言った。自分より強い相手に敬意を払うのは当然だ、と。それは恐らく権力的にも、資金的にも、そして実力的にも。シグマは別段政治的権力も持っていなければ、莫大な資産を抱えているわけでもない。よって実力的に強者だと認められているということなのだろう。恐らくそれは葛木のみならず、その他の組員たちも同じであろう。肝心の彼らのお頭にはどうも毛嫌いされているようだが、こんな自分を好いてくれる物好きなやつは、まあ嫌いじゃない。


 エレベーターが上昇を止めると、静かに扉が開いた。扉の向こうには黒い壁と天井に、照明を受けて艶やかに黒光りする廊下が伸びていた。廊下はよく掃除されており、埃一つ落ちていない。


 廊下を葛木に続いて歩いていくと、突き当りの赤と黒の扉の前で立ち止まる。そして葛木が扉を開き、中へと手で促した。


 扉の中へ入ると、二十畳ほどのスペースの中に、スタンドライト、天板がガラス張りのテーブル、黒革のソファなど、モノトーンのシックな空間が広がっていた。向かいの隅には観葉植物が飾られており、壁には高級そうなワインなどのボトルが、所々ガラス張りになっている奥の空間に置かれている。


 「よく来たな、坊主。アポ無しで来るたぁいい度胸じゃねぇか」


 奥の黒革のソファに座り込んだ男性は、しゃがれた声でそう言った。それと同時に、背後で何かが動いた気配がした。かちゃり、と軽快な音を立てたそれらは、拳銃だった。壁際に控えていた十数人のヤクザたちが、シグマの背に銃口を突き付けている。


 シグマはそんなことなどお構いなしに、ソファにどっかりと座り込む男を睥睨した。純白の背広を着こなし、しかし老いのせいか少し下腹の出た恰幅のいい壮年の男だ。白髪交じりの頭髪は整髪料できっちりと整えられており、蓄えられた顎髭や刻まれた皺からは、長年この世界で培ってきた凄みを感じる。


 「一体どの口が言ってんだよ。毎度毎度門前払いしやがって」


 赤銅色の瞳を見つめ返し、シグマは続けた。


 「あと、来るたびにこれやる必要あんのか?俺がこの程度で縮み上がるとでも?」


 「それが嫌なら来ないことをお勧めするぜ?」


 「そうできるならこっちも楽なんだけど、仕事だからな。それに、あんたの好きなのを毎回見繕って持ってきてやってるんだから、ちょっとは感謝しろよな」


 そう言ってシグマは右手に持った紙袋を持ち上げた。男は細めていた目を閉じると、軽い溜め息を吐きながら徐に右手を上げた。背後で動く気配がした。恐らく銃を下げたのだろう。


 シグマは手前側にあるソファに座り込み、ガラステーブルを挟んで男───────────鷺川組組長、鷺川一徹と対峙した。シグマが紙袋をテーブルに置くと、鷺川はにやり、と太い笑みを浮かべた。


 「今日は特別だ。あんた、こういうの好きだろ?」


 そう言ってシグマは紙袋の中に入れられたウイスキーの瓶を取り出した。テーブルがことん、と軽やかな音を立てる。


 「モルト・ウイスキーだ。度数は四十六度。そんなに寝かせてないから結構角があるはずだぜ」


 シグマがそう言うと、鷺川はボトルのネックを掴み、ラベルを見つめて低く唸った。


 「ふむ・・・・・・・・・・こいつぁ驚いた。なかなかの上物じゃねぇか。こんなもん一体どうやって手に入れた」


 「仕事の報酬のおまけみたいなのでたまに貰うんだよ。大体知り合いのバーとかに卸してるんだが・・・・・・・・・・・・・」


 「今日は特別、なんだろ・・・・・・・・・?」


 再び鷺川が太く笑う。それにつられてシグマの口元にも薄い笑みが浮かぶ。


 「ここ最近、北東京の川越あたりで麻薬の密売がちょこちょこ見つかってるらしいんだが、まさかあんたらの組じゃねぇよな?」


 「おいおい小童、うちはクスリだけはぜってーやらねぇって決まりがあんだよ。俺のいくつも前の長《おさ》んときからの決まりがな。そこらへんは俺自身も下の連中も厳しく見てるつもりだからなぁ。でねぇと先代の墓参りにも行けやしねぇ」


 鷺川はそう言いながら、テーブルの上に据えられた灰皿に横たえてある葉巻に手を伸ばした。


 「分かってるよ。カマかけただけだ」


 「けっ、生意気なガキだぜ・・・・・・・・・・・北東京の川越っつーと、樋川会がその辺一帯の裏社会を仕切ってやがるな」


 鷺川は葉巻を咥えると、白煙を口から吐き出した。


 「それと、南の知り合いからの情報だ。なんでも、最近南東京の港湾部に海外からちょくちょく密航してくる連中がいるらしくてな。十中八九それと関係してるんだろうよ」


 「なんだ、外からマフィアとかでも来てんのか?」


 「だろうな。近頃、横浜の近辺で違法カジノやバーが建っては潰れを繰り返しているらしい。ハマの連中もピリピリしてるんだとよ」


 随分きな臭くなってきたな、とシグマは思った。現在目まぐるしく変遷していく歴史の中で、今の東京ほど混沌とした街は世界の何処にも存在しないだろう。匹敵するとすれば米国のニューヨークかラスベガスくらいだろうか。しかし、そういった名の知れた都市を列挙すれど、この巨大都市に比べれば・・・・・・・・・・・・・・。


 「ま、なにか裏があるのは確かだな。そして、その中でも目立つのが武器の密輸業者だ」


 「武器・・・・・・・・?麻薬の類じゃないのか」


 鷺川はゆっくり頷くと、いつの間にかテーブルに出されていたロックグラスにウイスキーを注いだ。氷がグラスに当たる、からんからん、という音を響かせながら、鷺川はウイスキーを口に含んだ。そしてそれを嚥下すると、一つ溜め息をついて口を開く。


 「小耳に挟んだ話なんだが、何処かの日本のヤクザが大量の武器と弾薬、戦闘用ドロイドを発注した、ってぇ噂だ」


 「それは何処の組か分かるか?」


 「いんや、そこまでは。あまり詮索すると、かえって目をつけられちまう」


 シグマは少し興奮に当てられた自分の心を落ち着けようとした。何故なら、今自分は何かしらの真実に近づきつつあるという確信があったからだ。


 鷺川はグラスをコースターの上に置いた。


 「とにかくだ。今回の依頼がどんなもんなのかは知らねぇが、川越の樋川のとこに行けば、何かはあるかもな。お前さんの目当てがそこにはなくても、手掛かりくらいはあるだろうさ」


 「そうかい・・・・・・・・・・・・・ああ、もう一ついいか?」


 シグマはもう一つ、仕事の情報収集ついでに聞かなければならないことを聞くべく口を開いた。




*     *




 東東京のほぼ中心に位置する、旧東京都台東区千束四丁目。かつて江戸幕府開設間もない頃、遊郭として歴史を紡ぎ、今尚数多くの風俗店が軒を連ねる、肉欲と金の街。その名を『吉原』。その中にひっそりと佇むバーで、宮間紗耶香はフルート型のシャンパングラスに注がれたキール・ロワイヤルの仄かな赤色をぼんやりと眺めていた。


 先日、急に呼び出されて何事かと思って来てみれば、約束の時間を三十分以上過ぎている。彼が約束に遅れるなんて珍しいと思いながら、紗耶香はグラスの縁を唇に当てた。自分は酒には強い方だと思っているが、あまり時間がかかると飲みすぎてしまうだろう。金の稼ぎはいいが、なるべく節約したい。そう思いながら今一度時刻を確認しようとカウンターの上に伏せてあるスマートフォンに手を伸ばそうとしたところで店の扉が開かれた。


 「悪い、遅くなっちまった」


 背後を振り向くと、そこには久方ぶりに見る長身とくせ毛の茶髪。ロゴの入った白いTシャツの上から、よれよれのチェック柄の七分丈のシャツにチノパン。この出で立ちを見るたびに、紗耶香は数年前の思い出を否応なしに、感傷的に、思い出してしまう。


 「こういう所に来るんだったらもうちょっとマシな格好しなさいって言わなかったっけ?」


 「別にいいだろ、こういうのしか持ってないんだから・・・・・・・・・・・あ~、チャイナブルーで」


 そういいながら隣の席に座った男は、懐から煙草の箱とライターを取り出してカウンターの上に置いた。煙草の銘柄はJPS。落ち着いた色味の照明を、シックな黒色のパッケージが跳ね返す。


 「お酒に弱いのは相変わらずね、ジン」


 「仕方ないだろ・・・・・・・・・。それに、今日は酒飲むのがメインじゃねぇんだからよ」


 「ふふっ、分かってるわよ。にしても相変わらずそれ、吸ってるのね」


 紗耶香は待ち人───────────古閑仁一の手元に置いてある煙草のケースを指差した。


 「ああ。リスペクトだからな」


 「その“憧れの人”が現れてから、ちっとも私に会いに来てくれなくなったわよね」


 「あの人はあんな遊びは絶対にしねぇって言ってたからな。・・・・・・・・・・・・俺もあんな風になりてぇんだよ」


 仁一はそう言いながらカウンターの向こうから差し出されたグラスを手に取ると、空色の液体を口に流し込んだ。


 「そう・・・・・・・・・大人になったわね」


 「・・・・・・・・んだよ、なんかあったのか?」


 仁一のその言葉を聞いた刹那、紗耶香は胸の奥がチクリと傷んだのを感じた。


 「いいえ。昔はもっと可愛らしくて愛嬌があって・・・・・・・・・。私と初めてあった時なんか、目をキラキラさせちゃって。その子がこうも男らしくなったと思うと、ちょっとね」


 紗耶香は言い終えるとグラスを口元まで運んだ。カシスの甘酸っぱい香りが鼻腔をついた。


 「それで、今日はどうしたの?」


 「ああ・・・・・・・・・・・・。俺が子供の頃、孤児院にいたってのは知ってるよな?」


 紗耶香は無言で頷く。


 「最近、そこに借金の取り立てがしょっちゅう来るんだよ。そこの管理者は借金抱えてるわけでもないのに。他の職員も同様だ。少し探ってみたけど、誰一人として負債とかはなかった。それで、お前ならなんか知ってるかなって思ってさ」


 「なるほど、ヤクザがらみか・・・・・・・・・・・・・」


 紗耶香は内心、淡い期待を抱いていたことを後悔した。そんな事あるわけないか、と心の中で間の伸びた舌打ちをする。


 「ああ。こんなやつらなんだけど、見覚えとかあるか?」


 そう言って仁一は再び懐をまさぐると、二枚の写真を取り出してカウンターに置いた。それを紗耶香の手元へ差し出す。黒いスーツを着た短い短髪の男と、同じく黒衣の黒髪の男。


 「あのねぇ、私のことなんだと思ってるの?確かに人より多少記憶力はいいけど、所詮人間は忘れてく生き物なのよ?」


 「それでも覚えてるもんは覚えてるだろ。自分が相手した客なんか特にな」


 紗耶香はその言葉を聞いた瞬間、大きく溜め息をついた。確かに記憶力はかなり高いし、覚えてもいる。以前仁一に、ちょうど一年前に相手をした客のことを覚えてるか、と尋ねられたことがあった。実際、その時肌を重ねた男の顔や出で立ちは鮮明に覚えている。いや、覚えている、と言うより、記憶にこびりついている、と言った方が正しいだろうか。


 「ふん。ま、運が良かったわね。こっちの茶髪の彼、こないだ店に来てたわよ」


 「ホ、ホントか!?」


 仁一は紗耶香の方へずいっと顔を近づけた。そして、自分の声が大きすぎたことに気付き、浮いた腰を下ろして小さく咳払いした。


 「そんなにがっつかなくても・・・・・・・・・・・・。それにしても、運が良かったわね。彼の相手したのは私じゃなかったから、あと二、三日経ってたら記憶から消えてたかも」


 「そっか。もう一人は?この二人はどういう関係か分かるか?」


 紗耶香は、そう尋ねてくる仁一の瞳に、数年前の彼の目に映っていたものと同じものを感じ取った。嘗ては自分に向けられていたそれは、今はもう自分に向けられているものではないと思うと、彼の問いに答えるのがだんだん嫌になってくる。


 紗耶香は下らない考えを振り切るために軽く溜め息を吐くと、先日この男たちと同僚が話していた内容を呼び起こした。


 「二人は同じ組織の構成員よ。確か、北東京を拠点にしてるって言ってたかしら・・・・・・・・・・・。私が相手したわけじゃないから詳しい話は分からないんだけど」


 「他には?」


 「う~ん・・・・・・・・・・・密輸がどうのこうのって言ってた気がするわ。それと別のヤクザが言ってたことなんだけど、最近海外からマフィアだのなんだのの指金の密輸業者がなだれ込んできてるって話。そしてそうやって密輸された商品が、これまた北東京に集まってるらしいの。大掛かりな新規マーケットの形成かなにかだと思ってたけど、どうやらそういうわけでもなさそうね」


 紗耶香がそう答えると、北東京か、と仁一は独りごちた。そしてチャイナブルーのグラスを持ち上げて口に含んだ。そのまま仁一は虚空を見つめたまま、何かを考えているようだったが、何か話をしていないと落ち着かない紗耶香は、何かしら話の接ぎ穂を探した。そしてその結果、かなりの悪手を選んでしまった。


 「ねぇ、最近仕事はどう?」


 「どうって・・・・・・・・・・・まあ普通、かな」


 「なによそれ、もうちょっと気の利いた返し方はないの?」


 「あのなぁ・・・・・・・・・・。んじゃあ、お前の方はどうなんだよ」


 「私はぼちぼちかな。ま、オバサンになるまで仕事はなくならないだろうし、なにより私この辺じゃトップクラスの風俗嬢だからね。稼ぎも上々よ。なんなら今夜、これからどう?安くしてあげるわよ」


 紗耶香はそう言ってブラウスの胸元に指を引っ掛けた。昔の仁一なら顔を真っ赤にして目を逸らしただろうが、今となっては呆れたような溜め息をつくばかりだ。今回は溜め息に軽いデコピンのおまけも付いてきた。


 「アホか、んな時間も金もねぇよ。・・・・・・・・・・・・・・お前はちっとも変わらねぇな」


 「そういうあんたは随分と変わったわね」


 そう、変わってしまった。


 仁一は変わってしまった。いや、自分が変わらなさすぎて、相対的に彼が変わったように見えるだけなのだろうか。


 「さてと、そろそろ行くか」


 仁一はカウンターに置いてあった写真と煙草のパッケージとライターを懐へしまうと、ゆっくりと腰を浮かせた。水滴の滴るコリンズグラスは、いつの間にか空になっていた。


 「あら、もう行っちゃうの?もう少しゆっくりしていけばいいのに」


 「あんま悠長にしてられないんでな。その酒くらいなら奢ってやるよ」


 そう言って仁一はズボンのポケットから財布を取り出した。カウンターの向こうにいる店員が代金を伝えると、仁一は金額ちょうどをカウンターに置いた。


 「ねぇ、ジン。このお酒、なにか分かる?」


 紗耶香はそう言って仁一に向かってグラスを突き出した。キール・ロワイヤルの赤色の液体がまだ半分近く残っている。


 「ん、キール・ロワイヤルだろ?それがどうかしたか?」


 あっけらかんと答える仁一の表情に、胸の裡にわだかまる何かを感じて、紗耶香は首を横に振った。


 「なんでもない。お仕事頑張ってね。また会いたくなったらいつでも電話して。あんたとの予定なら無理矢理でも空けるから」


 「へいへい。まあそのうちにな」


 仁一は背を向けたまま手をひらひらさせて店を出て行った。


 扉が完全に閉まった瞬間、紗耶香は自分でも無意識のうちに大きな溜め息をついていた。


 そのうちにな───────────。仁一は別れ際、決まってそう口にする。彼のことだから、恐らく無意識なのだろう。しかし紗耶香には、自分には興味がないと裏返しに言われている気がしてならない。キール・ロワイヤルの赤色を見つめながら、今度は小さく溜め息をついた。


 「なにやってんだろうな、私・・・・・・・・・・・・・・・・」


 そう独りごちた瞬間、先ほどの数十分間の会話で、仁一が一度も自分の名前を呼んでくれなかったことに気付いた。


 今度は溜め息の代わりに、グラスに残った赤い液体を一気に飲み干した。




*     *




 奇妙な大人に会った。随分とおかしな人物との、随分とおかしな出逢いだと思う。


 砂羽宏樹は昨日の出来事を思い出しながら、ベッドのシーツから這い出た。昨日までとは違いすっかり整理整頓掃除されつくした自室を見渡しながら、宏樹は肩を落とした。


 先日いきなり自室に侵入してきた、古閑仁一という男。


 以前この施設の、しかもこの部屋の住人だったらしいが、本当のところどうなのかは怪しい。対応している鍵でないと解錠できないドアの鍵をピッキングで開けてのけたり、壁を疾走するゴ〇ブリをダーツで磔にするあたり、只者ではないだろう。その後殺虫剤を室内に撒いてゴミを全て処理してしまった。かなり部屋が広く感じられるので、なんだか落ち着かないので、昨晩はなかなか寝付けなかった。


 時計を見ると、時刻は朝の八時を指示していた。少し遅めの朝食にしようか、と宏樹は自室の扉を開けた。


 朝の八時だというのに廊下は異様に蒸し暑く、少し足早に、冷房の利いているであろう食堂を目指した。


 「あら、宏樹くん。おはよう。遅かったじゃない」


 食堂へ入ると、この施設で調理師をしている中年の女性が声をかけてきた。


 「昨日の夜寝付けなかったから」


 ぶっきらぼうに返事を返すと、彼女は少しおかしそうに笑った。


 「昨日一気にお部屋の掃除したから、落ち着かなかったのかもね」


 実際その通りだ。そう心の中で呟いて、口からは溜め息を吐く。カウンターに置かれたお盆の上には、トーストとカットフルーツ、ヨーグルトが並べられていた。宏樹の分の朝食だ。宏樹はお盆を両手で抱えると、席について黙々と食べ始めた。


 正直、ここの食事は嫌いではない。稀に同年代の子供たちがちょっかいを掛けに来るが、それを差し引けば、ここに来るまでの食事より美味く感じる。それもこれも、あの男───────────母親の再婚相手がいないからだ。あいつと暮らさなくていいと分かった時は、正直胸が空く思いだった。ただ、この施設で働く大人たちへの恐怖心は、そうそう消えるものではなかった。


 最近では慣れたとはいえ、やはり大人と接するのは未だに抵抗がある。とくに昨日自分の部屋に無断で入り込んできた不逞者には嫌悪すら感じる。


 ───────────似てるんだよなぁ、あのくそ野郎と。


 古閑は最近よくこの施設に来ているらしく・・・・・・・・・・・・恐らく今日も来ることが予想される。上手く避ける方法はないだろうかと思案しながら、朝食を食べ終えてカウンターにお盆を戻す。


 そうだ、今日は外出してガラクタでも拾いに行こう。最近拾ってきたラジオの調子が悪いから新しいものを調達しようか。


 そう思い立って自室へ戻り、身支度を整えた。


 そして職員に見つからないようにこっそり部屋を出て、昇降口へ向かう。外履きを手に持って二階へ向かい、廊下の突き当りの窓から身を乗り出す。ここには雨水を貯水タンクへ送る太いパイプが建物の壁に取り付けられていて、今の宏樹くらいの体重なら簡単にぶら下がれるのだ。それを伝って降りると、今度はフェンスをよじ登って施設の裏側から外へ出る。裏には廃棄された資材の倉庫があって、ショートカットにそこの中を通る。


 倉庫の中にはいると、中は恐ろしいほどの熱気に包まれていた。一直線に突っ切って外に出る。目の前には道路が横に伸びていた。うんざりするほどの熱気のこもった室内から出て大きく溜め息を吐く。


 「おはようさん、ワルガキ」


 右側から声がして咄嗟に身構える。換気扇に軽く腰を掛けながら煙草をふかす───────────古閑仁一だった。


 宏樹はあからさまに嫌な顔をした。いつだったかお寺のお坊さんが説法に来て、世の中には様々な苦しみがあると説いていた。その中に、『会いたくない人に限ってよく会ってしまう』というものがあった。オンゾウエク・・・・・・・・・と言っただろうか。嘘くさいと思って信じていなかったが、どうやらそう馬鹿にできそうにないなと思った。


 「なんだよ、待ち伏せか?」


 「ああ、その通り。お前なら絶対ここを通ると思ったよ。そんで、こっから少し行ったスラム街のガラクタ置き場に行くんだろ?」


 その言葉を聞いた瞬間、宏樹は全身が総毛立つのを感じた。自分の思考が、すべて読まれている。


 「あ、あんた一体なんなんだよ!!!急に施設に顔出すと思ったら、俺の部屋に勝手に入ってきて、今度はストーカーか!?」


 「いや、驚かせたのは悪かったよ。けど別に取って食おうってわけじゃねぇんだ。似た者どうし、仲良くしようぜ?」


 そう言われた瞬間、宏樹の頭に一気に血が上った。


 「うっさい、お前なんかと一緒にするな!!!大人なんか大っ嫌いだ!!!!」


 そう言って宏樹は道路を走って横切った。


 「おいおい、危ないぞ!!」


 そんな声が聞こえたが気にせず走った。そしてスラム街の細い路地をでたらめに走って目的地を目指す。


 「はぁ・・・・・・・・・・・・撒いたか?」


 肩で息をしながら、首にかけたタオルで汗を拭う。鞄から軍手を取り出して、ゴミの山へと歩みを進めた。


 二、三分歩くと、目的地へと辿り着いた。でこぼこな足場をバランスを保ちながら歩いていく。


 「お~い、何処まで行くんだよ~」


 振り返るといつの間にか追いつかれていた。聞こえないふりして先にずかずかと進んでいく。


 「なんか探してんのか?手伝うぞ?」


 「必要ない、あっち行け!!」


 宏樹は足元に転がっていたアルミ缶を仁一へ向かって投げた。しかし腕力が足りず、仁一の一メートルほど手前に落下する。


 「おいおい危ねぇな」


 仁一はそれを蹴飛ばして宏樹の方へ歩みを進める。宏樹は追いつかれまいと歩調を早める。ただ、宏樹は仁一がわざと追いつかないよう加減していることに気付いていない。


 少し歩くと、宏樹は目当てのものを見つけた。覆いかぶさっているガラクタを全てどけて、廃棄されたラジオを掴み上げる。暫らくじっと見つめて、首を横に振って捨て置いた。とてもじゃないが使えそうにない。すぐに二つ目を見つけた。しかし半ばで大きく拉げている。一体どういう扱いをしたらこれほどの損傷を与えられるのだろうか。


 なかなか使えそうなものが見当たらず、低く唸りながらガラクタの山を掘り返す。埋まっていたトタンの破片を除けると、三つ目のラジオを発見した。それを拾い上げて値踏みをする。


 「ダメか・・・・・・・・使えそうにない」


 宏樹は溜め息をついてラジオを再び埋め戻そうとした。


 「おいおい、それまだ使えるぞ」


 それを仁一が呼び止めた。宏樹はうんざりした声色で尋ねる。


 「こんなゴミの何処が使えるっていうのさ。結構古そうだし、使えないよ」


 「いやいや、それがそうでもなさそうだぜ?」


 そう言って仁一は宏樹の両手に納まっているラジオを手に取ると、ボディバッグからドライバーを取り出した。ビスを一つ一つ外していき、カバーを外して中の基盤をむき出しにすると、それを指差す。


 「ほら、このへんはまだ生きてる。こういうパーツを集めて行けば、ラジオくらい一から組み立てだってできる」


 「なんで目当てがラジオだって分かったのさ」


 「そりゃあ、ラジオ見つけてはポイしてたからな」


 そう言いながら仁一は基板からパーツを数個取り去ると、それを袋の中に入れる。


 「ラジオの修理くらいならお手のもんだ。必要なパーツが揃ったらやってやるよ」


 そう言って仁一は太く笑った。






 ガラクタの山を漁ること数時間、修理に必要そうなパーツを一通り揃えた仁一は傾いて空をオレンジに染める太陽に手を翳した。


 「おい、これはどう?使えるんじゃないの?」


 そう言ってずいっと、宏樹は仁一に向かって使い捨てカメラを差し出した。仁一はそれを受け取り、中を開いて状態を確認する。


 「ああ、問題ない」


 そう言いながら中身のパーツを取り外して宏樹に渡す。


 必要なパーツが揃えば、自分でもラジオが造れるぞ、と言ったのが始まりで、それからと言うもの宏樹は嬉々としてジャンクパーツ集めに没頭した。随分子どものお守りが上手くなったもんだ、と仁一は自分で感心した。


 「さて、そろそろ帰った方がいいんじゃねぇの?」


 「もう少し後でいいよ。どうせご飯の時間はズラさないといけないし」


 「なあ、いつもそうやって他の子たちと出くわさないように飯食ったりしてんのか?」


 「そうだよ。それがどうかした?」


 「いや、寂しくねぇの?」


 「別に。そもそも、人があんまり好きじゃないし」


 そう言って宏樹は軽く溜め息をついた。


 「施設に来るまでは、親に殴られるなんてのはしょっちゅうだった。だから大人には殴られたり蹴られたり、そういうことされるのが普通なのかなって思ってた。でも先生たちは俺を殴ったり蹴ったりはしないし、それが普通だって知った時はびっくりしたよ」


 こんな時は知ってるよ、なんて野暮な事を言って水を差すもんじゃないな、と仁一は直感的に悟った。


 「でもそれまでそう割り切ってきたから、先生たちとも上手く話せない。本当は俺を殴ったりしないか、いつか殴られるんじゃないかって怯えながら生きてるんだよ。人の心は分からない。俺は先生や他の子じゃないからね」


 「随分悟ったような物言いだな」


 「だってそうじゃん。人の心が分かったら俺だって苦労しないよ」


 「まあそうだけどな。でもさ・・・・・・・・・・・」


 仁一自身、未だに他人を信じきれないきらいがある。


 それでも。それだからこそ、仁一は宏樹に伝えたいと思った。


 「世の中、そうビビる必要もないやつもちゃんといるんだぜ。俺のダチ公みてぇなのがさ」


 そう言って仁一は上着のポケットに徐に手を伸ばした。しかし、すんでのところで手を止める。


 ガキンチョの前では、あんましよろしくないな・・・・・・・・・・・・・。


 そう思ってうっかり煙草のケースを掴まないように、右手をポケットに押し込んだ。


 「でも、どのみち帰らなきゃな。日の暮れたスラム街なんてロクなもんじゃねぇ。ほれ、行くぞ」


 そう言って仁一は宏樹の背を軽く叩き、来た道を戻り始めた。鉄臭いガラクタ置き場を抜けて国道へ出ると、真っ黒のアスファルトは夕日で朱色に塗られていた。


 横断のために車両の有無を確認する。右側には何もない。左側には黒塗りの普通車が駐車されていた。




 それを見た刹那、仁一の背筋を悪寒が駆け上がった。




 弾かれたように首を巡らせて後方を確認すると、柄物のシャツを着た男が三人。うち一人の手が仁一の眼前に迫っていた。そのまま襟首を掴まれて押し倒される。


 視線を動かして宏樹の方を見ると、口元を布かなにかで押さえつけられていた。手足を忙しく動かして抵抗している。


 「宏─────────────────」


 大声を出そうとしたが、発声する直前、金属質の感触を側頭部に感じた。仁一は口を戦慄かせ、声を押し込むように歯を食いしばる。


 なんでこのタイミングで!?こいつらはどうやって宏樹の居場所を知ったんだ!?


 仁一は急速に思考を回転させた。恐らくこの連中は施設にありもしない借金をふっかけたヤクザの仲間だろうが、どうしてこの時間、この場所に、施設に保護されている子どもがいると分かったのだろうか。


 宏樹は男二人がかりで車両に乗せられた。車両から宏樹の声は聞こえない。完全に口を塞がれたと見える。男の一人が合図をすると、仁一に馬乗りになっていた男は立ち上がった。


 隙をついて仁一は男の足を掴もうとする。


 しかし仁一の右手はあえなく蹴飛ばされた。そして銃口を眉間に向けられる。仁一は漆黒の銃口を睨み、再び身動きが取れなくなった。銃を持った男はゆっくりと後ずさりながら車両に近づき、素早く乗り込んだ。


 仁一は蹴られた右手を押さえながら舌打ちした。車のナンバーは覚えた。しかしそのナンバーの車をピンポイントで見つけ出すのは不可能だ。いや、ベンジャミンの力を借りれば、特定はできなくはない。ただ今回は一人でやるしかない。誰かしかからの報酬が望めない限り、探偵団のメンバーの力を借りるわけにはいかないからだ。それに──────────────────────


 仁一は急いで施設へと戻り、駐車場に停めてある車のに飛び乗った。そして助手席の収納スペースを開ける。サブマシンガンが二丁とその替えのマガジン。そして懐には愛銃H&K USPエキスパート。スペースにはUSPの交換弾倉も収納されている。


 「目星はついてんだ。待ってろ・・・・・・・・」


 そう言って仁一は上着のポケットから煙草を一本取り出し、口に加えて火を点けた。


 施設を出て国道をひたすら北上する。信号で一旦停止し、ワイヤレスイヤホンを装着してスマートフォンでシグマにコールする。しかし一向に出る気配がない。


 「チッ・・・・・・・・・・なんかあったら連絡よこせって言ったのテメェだろうが!!」


 そう毒づいてコールを止めると、ちょうど信号が青に変わった。仁一はアクセルのペダルを乱暴に踏みつけて車を加速させた。




*     *




 最初こそ恐怖を感じはしたが、今となってはかえって冷静だと思う。


 かなり長い時間車に揺られたのち降ろされたのは、今まで一度も見たことのない風景だった。


 手足を縛られた状態で見知らぬ男に担がれながら、唯一自由の利く首と両目を使って空を見上げた。濃紺に塗りつぶされた空には、ところどころ白い光が散っており、それなりに時間が経っていることを宏樹に伝えていた。


 そんなことをぼんやり考えているうちに、宏樹は倉庫の用具入れと思しき小部屋に押し込まれた。そして鉄扉を閉められ、完全に閉じ込められた。


 二メートルほど上にある小窓から微かに夕焼けの灯りが漏れているお陰で、完全な暗闇ではないが、部屋は薄暗く不気味だ。そして少し変な臭いがする。


 外からの音は、多少聞こえる。扉の向こうで、誰かが会話しているのが聞こえる。ただ、扉は鉄製でそれなりに厚みがあるので、鮮明に聞こえるわけではない。かなりくぐもって聞こえる。


 不思議だ。


 普通、こういう時は泣いて叫んで喚き散らす、というのが定石というか、そうなるはずなんだろうが、宏樹には一抹の恐怖心もない。ただ、打ちっぱなしのコンクリートの床は冷たく、外にいるカラスの鳴き声が聞こえ、闇が少しずつ濃さを増すだけだった。


 冷静な思考が、コンクリートと鉄の静謐の空間に溶けていく。冷静なのに、希望的観測は出来そうにない。


 きっと、誰も助けに来ないのだろう。迎えになんて来ないのだろう。


 お母さんもそうだったんだ。いつかは迎えに来ると言ったんだ。なのにいつまで経っても迎えに来ない。お母さんはおろか、親戚の一人だって来やしない。


 自分はきっと、要らない子なんだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・。


 絶望に支配されながら、宏樹はこう思った。全てあのクソ野郎・・・・・・・・・・・・母親の再婚相手のせいだ、と。あいつさえいなければ、母親が自分を捨てることもなかっただろう。


 許せない。自分からすべてを奪ったあいつが憎い。だから、彼のことだって・・・・・・・・・・・・嫌いだ。


 そう思いながら数時間経った頃。


 鉄扉越しに銃声と怒号が起こりだした。




*     *




 「さてさて、ようやっと見つけたぜ・・・・・・・・・・」


 宵闇の帳から、何者かが軟派そうな声を響かせながら歩んでくる。男は拳銃のトリガーガードに指を引っ掛け、くるくると回しながら紫煙を吹かす。


 「んだテメェ。ぶっ殺すぞ」


 柄シャツとサングラスをかけた二人の男のうち、髪が金色の男が拳銃の銃口を男に向けた。


 「それはこっちのセリフだ。返してもらうぜ」


 言うが早いか、男──────────────古閑仁一はホルスターからUSPをドローし、速射した。螺旋を描く弾丸が、男たちの発射した弾丸と交錯して飛び交う。


 仁一は男たちの発射する銃弾を器用に躱し、男たちの拳銃に命中させていく。


 そして、銃を取りこぼしたヤクザ二人を目掛けて飛び掛かり、側頭部に強烈な蹴りを叩き込む。もう片方には顎にハイキックをぶちかました。


 「そこだ、撃て!!ぶっ殺せ!!」


 前方から怒声が飛んできた。頭を跳ね上げて見ると、数人の男がアサルトライフルを構えていた。そしてその奥には、宏樹が攫われた時にいた男の片方がいた。


 仁一はサブマシンガンに持ち替えて、射撃で牽制しながらフルオート射撃の雨を避けるべく、コンテナの陰に身を隠す。そしてポーチに手を突っ込んで手榴弾を取り出して、ピンを引き抜き、向こう側へ投げ込んだ。


 刹那、銃撃が止んだ。


 仁一はコンテナの陰から飛び出して射撃を行った。何発か命中したことを確認して、再び物陰へ隠れ、爆風をやり過ごす。


 残弾のなくなったサブマシンガンの弾倉を取り換えて、チャージングハンドルを引く。


 物陰から飛び出してヤクザの群れへ射撃しながら突っ込む。手榴弾の爆発を受けてすっかり混乱した彼らを、殴り、蹴り、銃撃して次々と戦闘不能にしていく。


 「やれ、やっちまえ!!」


 「最近嗅ぎまわってたやつはこいつか!!!」


 様々な怒声や罵声が飛び交う中、仁一は首を巡らせた。


 左側を向くと、一人の若い男がこちらへ銃口を向けていた。今にも引き金が引かれ、発砲されようとしている。仁一は即座にポーチから引き抜いた戦闘用のダーツを投擲した。


 仁一の左手から放たれた銀閃は、拳銃の銃口の中に見事に入り込んだ。刹那、引き金が絞られ、暴発する。


 次いで肉弾戦を仕掛けようと右腕を伸ばす男と対峙する。仁一はそれをひらりと躱して男を蹴り飛ばした。


 「こいつの狙いはガキだ、引きずり出せ!!!!」


 混戦するヤクザの一人が叫んだ。すると、数人が倉庫の奥へと駆け込んでいく。人質にでもするつもりだろうか。


 「オラ退け、邪魔なんだよ!!」


 腕、足、脇腹・・・・・・・・・・・・。確実に再起不能になるように、USPで的確に撃ち抜いていく。急所を外しているのは、別段彼らの命を奪う理由がないからだ。


 一通り捌き終えて、仁一は奥へと走って向かった。


 上手く躱したりはしたが、数ヶ所弾が掠ったり、拳打や蹴りをまともに食らっている。加えて、左の脇腹に一発、少々深めなやつのおまけつきだ。


 痛みを堪え、血を滴らせながら奥へと向かう。


 「クソ、開かねぇ!!!内側から抑えてやがる!!」


 「手足は縛ってんだろ!!ガキ一人に何が出来んだよ!!!」


 到着すると、何かの物置と思しき鉄扉に男数人が群がり、喚き散らしていた。あそこに宏樹が閉じ込められているのだろう。


 「クソッ、来やがった!!!」


 連中が仁一の接近に気付き、拳銃を発砲し始めた。しかしながら、仁一はその悉くを回避し、銃撃や鉄拳を加えていく。


 一人、二人。また一人、と。サブマシンガンで弾丸をばら撒き、ダーツを投げつけ、地べたに臥せさせていく。


 「クソッたれがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああッ!!!!!!!!!!」


 残り一人となった男が仁一へ向けて銃を乱射する。しかし、照準は定まっておらず、掠りもしない。仁一は慎重に、かつ勢いよく彼我の距離を詰める。


 残弾が尽き、ホールドオープンした拳銃を放り投げて、男は右拳を仁一の顔面へ向けて突き出した。軌道を見極めた仁一は、銃をホルスター


 彼我の距離、数歩─────────────。


 飛来する右拳を左の掌でいなす。次いで右の掌底で男の顎を突き上げ、怯んだ隙に右肘を鳩尾に打ち込む。


 男の体勢が大きく崩れる。


 仁一は左手で男のシャツの袖を掴み、右腕でベルトを掴んだ。


 「どぉぉぉぉっせぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇい!!!!!」


 そして身を翻し、大腰で投げ飛ばす。


 ずどん、とコンクリートに打ち付けられる音が倉庫内に木霊する。都市郊外の夜の静寂が、辺り一面を支配していた。


 「あれ・・・・・・・・見覚えのある顔だな・・・・・・・・・・・・・・」


 組み敷いている男の要望をまじまじと見つめ、仁一は嘆息を吐いた。宏樹を連れ去った男二人の片割れではないか。ほとほと呆れて屈めた状態を起こし、周りを見渡した。


 全員行動不能にしているため、起き上がって何かが出来るやつはさすがにいないだろう。


 そう判断して、先ほど数人の男衆が難儀していた鉄扉の前に立つ。


 「おーい、宏樹。いるんだろ。開けてくれ」


 仁一がそう言うと、内側で物音が聞こえ、続いて扉を軽く蹴る音が響いた。


 そこで仁一は合点がいく。ある程度は拘束されていて当然か、と。


 重い扉を横に開くと、そこには暗がりの中で縮こまっている宏樹の姿があった。なんだか、いつぞや見た構図に似てるなと思い、仁一は思わず笑みを零した。


 「迎えに来てやったぜ。ホレ、縄解いてやるよ」


 そう言って仁一はしゃがみ込み、まずは足を縛る縄を解こうと手を伸ばした。


 その瞬間、強烈な衝撃が仁一の右肩を襲った。


 虚空には血が花弁のように舞い、宏樹の顔に紅の斑を描いた。


 仁一は咄嗟に後方を振り返る。そこには、片膝を立てながら銃口を真っすぐ仁一へ向ける男の姿があった。身体の数ヶ所にサブマシンガンの弾を受け、派手な柄のシャツは赤く染められているが、それでもなお仁一に照準を定めている。


 仁一は歯噛みした。詰めが甘かった。


 右肩に被弾したので、拳銃をクイックドローすることが出来ない。ダーツを投げようにも、利き腕の右が使えないのでは意味がない。おまけに、今動けば確実に撃たれてしまう。しかし、このままじっとしていても脳天を撃ち抜かれるのがオチだ。


 一か八か、仁一は右手をホルスターへ伸ばした。当たらずとも牽制くらいならできるだろう。指先が銃のグリップに触れた。


 しかし、一刹那早く、男が引き金にかける指に力を入れた。死を告げる悪寒が、仁一の背を這い上がる。


 仁一は目を瞑った。せめて最期は痛みを感じないように祈った。


 発砲された銃弾は螺旋を空に刻みながら進み、仁一の頭蓋を射抜かんと直進する。


 ズガン────────────!!


 果たして大音声を立てたのは・・・・・・・・・・・・・仁一の傍にある鉄扉の方面だった。


 仁一は恐る恐る瞼を持ち上げる。


 視界に映ったのは、銃を取りこぼし呆然とする男と・・・・・・・・・・・・・・見慣れた金茶の髪と、季節に合わないロングコートだった。


 「シ、シグマ・・・・・・・・・・!?」


 仁一がそう声をかけると、シグマは左足で男の顔面を蹴り飛ばし、振り向きざまに応える。


 「よう、ジンさん。奇遇だな」


 仁一は半ば唖然と口を開けていた。助けに来るなんて思ってもみなかったからだ。


 「どうやってここが・・・・・・・?つーかなんでお前がここにいるんだよ」


 「なんでって、そりゃ・・・・・・・・・・仕事に決まってんじゃねぇか」


 シグマはそう言って、右手に持っていた拳銃を弄び、ホルスターへ戻した。


 「殺しの依頼で、この組の連中に用があってな。まさか、ジンさんの追ってたのと一緒だったとは」


 「ああ、さっきの嗅ぎまわってたやつ、ってのはお前だったのか・・・・・・・・・・・」


 仁一が乱戦中に耳にした奇妙な言葉。それの謎が氷解した。自分のとは別件で、シグマがこのヤクザたちについて調べていたらしい。つくづく、運がいい。あと少しでもシグマの到着が遅れていたら、一体どうなってたことやら。


 「ったく、そういうことなら電話出ろっての・・・・・・・・・・・・」


 仁一はそう毒づきながら振り返った。宏樹はコンクリの床に伏している。


 目尻に薄っすらと露を浮かばせながら、眠っていた。過度の緊張から解放されたためだろう。


 敵に捕まっておきながら妨害工作とか、肝据わりすぎだっつーの。


 そう仁一は思い、宏樹の戒めを解いた。敵陣にありながら、恐らく仁一がここへ来る前後に、内側につっかえかコンテナを挟んで扉を開かないようにしたのだろう。心底、恐れ入る。


 「んお。ジンさん、こいつ煙草持ってるぜ」


 そう言ってシグマは、蹴り飛ばした男のポケットから飛び出した煙草のケースを摘み上げる。白地にゴールドカラーの印字。キャスターである。


 「甘ったるそうだなぁ・・・・・・・・・・・」


 「ま、口寂しいのが紛れればいいんだよ。一本どう?」


 「んじゃ、俺も貰おうかな」


 そう言って互いに一本ずつ咥え、先端に火を点ける。ふんわりと甘いバニラの香りが漂ってきた。


 「あ~、ってぇな・・・・・・・・・・。シグマ、腕のいい医者とか知らねぇか?」


 「まあ何人かは。その様子じゃ、結構無茶したっぽいな」


 「そりゃ自分の家のとこのガキだからな。ちったぁ気張らねぇと、示しがつかねぇぜ」


 そんなことを言いながら、白い煙を吐き出す。立ち上る煙は、甘い香りとともに、ゆらゆらと宙を舞った。


 仁一は、かつて憧れた人物の背をまぶたの裏に描いた。あの背中に、自分は近づけているだろうか・・・・・・・・・・。そう思いながら、仁一はすやすやと眠る少年へ視線を向けた。


 ま、誰かさんが証明してくれっかな・・・・・・・・・・・・・。


 そう心の中で呟き、再び煙を吐いた。そこで、ふと思い出す。


 「あ、そう言えば・・・・・・・・・・・・」


 先日、紗耶香が飲んでいたカクテルが、ふと脳裏をよぎった。あの時確か、この酒がなんだか分かるか、と問われた。その答えが、今になって出た。


 二人が初めて会った時、紗耶香が飲んでいたカクテルだ。


 「やっちまったなぁ・・・・・・・・・・・・・」


 かつてのような関係は二人の間には存在しないが、仁一は紗耶香のことを良き友だと思っている。


 きっと、紗耶香は大いに傷ついたことだろう。


 「どうかしたか?」


 「いんや、なんでも・・・・・・・・・・・・・」


 あの人も言っていた。女はみだりに傷つけるもんじゃない、と。どうやらあの背中は、まだ少々遠いらしい。




 煙も、自分も、まだまだ甘いな─────────────。




 煙草の煙は、その後しばらく螺旋を描くように立ち上り、虚空へと霧散し続けた。

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