Episode.Ⅵ 負の遺産~狂おしき過去~
暑い。とにかく暑い。ひたすらに暑い。死にそうなほど暑い。これは俺に対する陰湿なイジメなんじゃないかというくらい暑い。
そうもしている間に俺のイライラゲージは見る見るうちに上昇していく。無駄なほどに気温は高い。ジメジメとしており、肌と服のくっつく感触が気色悪い。クーラーは使えない。扇風機はただ熱風を店内に巡らせるだけ。そして何より・・・・・・・・・
「誰も来ねぇな~」
あの依頼の終了から数日、七月も終盤に差し掛かり、気温はは拍車をかけて日に日に上昇する。この暑さだ、誰も外に出ようとしないせいか、店の客足はパッタリと途絶えた。そりゃ四十度近くはあるのだ。俺も外出する気は失せる。
「先輩、これ・・・・・・・・・俺ら立ってる意味ありますか?」
隣にいるのは職場の後輩の井沼。最近入ってきた大学生の新入りだ。
「だよなぁ、普通だったら結構溜まり場とかにゃ最適だと思うんだがなぁ。いかんせんなぁ~・・・・・・・・」
二人揃って呻き声を上げる。ここは西東京にある、とある本屋だ。最近はここを中心として稼いでいる。給料はそこそこに良い。
井沼は汗でじっとりとした黒髪をいじり、俺はズボンのポケットをまさぐる。そしてお目当てのものを探り当て、ポケットから引っ張り出す。
「先輩ってJSP吸ってるんすね」
「おう、お前は?」
「セッタっす」
『セッタ』とは、セブンスターの略。JPSもセッタも、煙草の銘だ。
俺は手に握ったソフトタイプの外箱の上部を指先で叩き、一本出そうとする。しかし、中に入った煙草は飛び出る気配もなく、音だけが響く。試しに箱を振ってみると、音一つしない。
「あ~、切れてる。バイト終わりに買うか」
「そういや先輩ってなんでJPS吸ってるんすか?」
「ん?ああ、昔世話になった人が吸ってたんだよ。まあ、憧れっつーか、リスペクトっつーか・・・・・・・・・そういうやつだ」
俺は言い終えない内に箱を握りつぶし、手近なゴミ箱に向けて放り投げる。右手を離れたくしゃくしゃの箱は空中で放物線を描き、過たずゴミ箱に吸い込まれる。隣にいる井沼が呻き声のように気の抜けた歓声を漏らす。
ちょっとしたイベントが終わり、再び熱気の地獄が猛威を振るう。店外の街路樹で鳴く蝉の声は店の中まで聞こえてくる。額に浮かぶ汗を手で拭う。前髪は汗で濡れそぼっている。
「しゃあねぇ、いっちょ腕の見せ所ってやつだな!」
そう言いながら、俺は裏の事務室に戻り、工具箱を引っ張り出した。誇り被った鉄製の工具箱を開け、道具を確認する。クーラーの修理に使えそうなものは一通り揃っていた。
「先輩、何してんすか?」
「クーラー直すんだよ。おい井沼、脚立持って来い」
そう言って工具箱を漁りながら井沼に指示した。井沼は馬鹿正直に小走りで脚立を取りに行った。そこまで急ぐ必要はないと思うが・・・・・・・・・・・・・。
「よし・・・・・・・・・・・っと、ついでにフィルターの掃除もしてやるか」
そう思い立ち、とりあえず軍手と雑巾も手に取った。
* *
「すっげえ!!!先輩って機械に強いんすね!!」
「いやいや、言うほどじゃねえよ。子供の頃は何もすることがなかったから、よく機械分解してたんだよ。そしたら、いつの間にか自分一人で車の修理も出来るようになっちまってよ。自分で自分が怖かったよ」
ばっちり修理されたクーラーから吐き出される極限まで冷やされた風が書店内を巡る。さらに、店内の間取りの関係から最も効率よく店全体を冷やすべく、扇風機の配置にも気を遣った。元々壁に設置されていた扇風機は一旦取り外し、理想の配置場所に設置しなおしてみた。前に開いた穴はそのままだと不格好なので、上手く塞いで目立たなくする。ざっとこんなものだ。
「でもいいんすかね?勝手に店内改造しちゃって」
「大丈夫なんじゃね?店長も理解のある人だしさ。それに、こんな真夏日にクーラーつけない職場は労働基準法にでも引っ掛かって訴えられるぞ?俺はこの職場を手放したくないんでね」
そう言って俺はカウンターの椅子にどかっと座った。頬を撫でる涼風が心地よい。
「しっかし、気持ちいい・・・・・・・・・・・・」
「そっすね、心が洗われていく・・・・・・・・・」
俺たちは今にも天に召されるような、昇るような快感を味わっていた。これがクーラーから送り出される冷風の効力。今にも眼前に三途の川が見えてこないか心配になる。
「ただいま~・・・・・って涼しい~!クーラー使えたの?」
書店の自動ドアを潜って現れたのは、俺がお世話になっている木村さん。この書店の店長だ。もう五十歳を過ぎたというのに、自分から進んで精力的に仕事をこなしている。まさに完璧な理想の上司だ。
「俺が直しました。それで、扇風機の配置を変えて二十八度でも効率よく店内を冷やせるようにしてみました」
俺がそう言うと、木村さんはうんうんと大きく頷いた。俺は安堵の息を吐いた。よかった、お咎め無しだ。これでクーラーNGとご無体なことを言われては、さすがの俺も地に伏して泣き喚くだろう。理解のある店長で本当によかった。いや、本当に。
今まで色々とアルバイトをこなしてきたが、昨今の非正規雇用者に対する扱いのぞんざいさときたら酷いものだ。ネチネチと嫌味を垂れる従業員、口を開けば最近の若者はどうのこうのとうるさい中年オヤジ、まあ多種多様な嫌がらせ、暴言、無茶苦茶なシフトなどなど。そういった職場を経験してると、今の職場がどれだけ好条件で恵まれているか。俺はもっとここで働けているという幸せを噛み締めながら労働に勤しむべきだ、うん。
俺はふと木村さんの両手に視線をやる。彼女の手に握られているのは、近くにあるコンビニのレジ袋だった。
「お客さんもいないし、ちょっと早いけどお昼にしましょうか」
そう言って彼女は俺たちの腕を引き、事務所内へ入っていった。
* *
「あ、それってお孫さんでしたっけ。え~っと・・・・・・マサト君!」
「そう、よく覚えてたわね。もうこんなに大きいのよ。早いものね」
「早いって、木村さんの娘さんだって同じじゃないですか。今更っすよ」
俺は箸で弁当の米をつつきながら言った。木村さんには一昨年孫が生まれたらしい。しかも初孫だそうで、二年経った今でもこうである。
自分にも孫が出来たらこんな風になるのだろうか、と彼女に想像を重ねてみる。いや、そうなるとまず俺が結婚する必要がある。あるのだが、探偵団の仲間からも、『いい歳なんだから結婚とか考えたら?』や、『ジンは普通にしてたらモテるだろうに』などと揶揄されている。
結婚願望は人並みに持っているつもりだし、何より俺は女性に対しては紳士である。飲酒喫煙は勿論するが、それらを差し引いたとして、一体俺の何処がそんなに駄目なのだろうか。不思議で仕方がない。
『それでは次のニュースです。先日、対村財閥代表の対村零次氏が、麻薬密売、人身売買など、多数の不正行為、違法行為を繰り返していたことが判明。本日、書類送検される予定です』
事務所内に置かれている小型の薄型テレビから音声が聞こえた。
「これ、ちょっと前からずっと騒がれてますよね。それでこいつのやってた事がこれまたエグいんすよ」
井沼が箸でテレビ画面を指す。
・・・・・・・・・・・・・・うん、敢えてノーコメントで行こう。確かに数日前に今しがたテレビに映し出されていた人物に瓜二つで同姓同名のいけ好かないやつに焼きを入れたが、俺には関係ない。顔に出すなよ、俺。
「古閑君、顔色悪いわよ?」
「えぇっ!!?あ・・・・・あはははは、長いこと蒸し暑い中にいたからかな!」
俺は不審に思われまいと必死で誤魔化した。分かっている、すごくバレバレだということくらい。つい今さっき自分に言い聞かせてこのざまとは情けない。
「それより、今日は客足がすっかり途絶えてて、マジで参りましたよ」
俺は頭を掻きながら言った。木村さんはやっぱり、とでも言いたげな表情を浮かべた。
「仕方ないわよ、都内でも四十度近くあるんだから。誰もこんな蒸し暑い中にわざわざ出たくないわよ」
それでも俺たちは仕事をしなければならない。こんな状況下で、誰かに必要とされているわけでもないのに。あまりに理不尽すぎやしないか。
「まぁそう言うときもありますよ。別にいいじゃないっすか、クーラー復活したんだし」
井沼の言うとおり、ここまで効率のいい空調がなされている。西東京で・・・・・・・・・いや、全東京で一番涼しい場所だと自信を持って言える。
「にしても、客が来なかったら本屋ってこんなに暇なんだな」
自信を持って言えるわりにはこの有様である。閑散とした店内に響くのは、事務所内にいる俺たちの会話とテレビの音声だけだ。
「そうねぇ、店にいてやることと言ったら書棚の整理とかデスクワークに限られてくるものねぇ。今月は特に新しく入荷した書籍もないし、残りも二人が殆ど終わらせちゃったしね」
俺と井沼のコンビは、この本屋で一番作業効率がいい。非番の連中も合わせて十四、五人いるが、その中でも俺達二人がズバ抜けて手際がいいのだ。今日も陳列と在庫の補填、新書の配置も全て終えた。ちょうどクーラーを修理するという流れになる前には、開店前に一度やったが他にやることもないので掃除でもするかという話になっていた。
弁当を食いつくした俺は、市販のお茶のペットボトルを鷲掴みにし、口内へ一気に流し込んだ。最近、このお茶がかなり気に入っている。大昔にあったシリーズの復刻版らしく、緑茶に抹茶の粉末を混ぜ込んで深い味わいを引き出すといった嗜好だそうだ。
「先輩最近、そのお茶えらく気に入ってますね」
井沼が興味深そうに俺が手に持つお茶を指差す。
「このお茶ね、私も気に入ってるの。抹茶が美味しいのよ」
「そうそう、緑茶と抹茶って結構相性いいんだよ。飲むか?」
俺はそう言ってボトルの口を井沼に向ける。
「いやぁ、僕苦いの苦手なんで・・・・・・」
井沼は顔をしかめた。
「お前日本人が緑茶だめって、んなのアリか?!」
「いいじゃないっすか別に!!そう言う先輩だって牛乳飲めないんでしょ?」
「な・・・・・・・・・・ッ!!今それ言うやつがあるかぁ!!?」
俺は体温の急激な上昇を感じた。
今でもはっきり覚えている。あれは確か、三つか四つの時だ。その時“とある事件”が起こった。それ以来、トラウマになって現在に至る。
「別にいいじゃないの、牛乳が飲めないくらい」
「いや、でも・・・・・・・示しがつかねぇって言うか、何て言うか・・・・・・・・」
とりあえず情けないのだ。いい年して牛乳すら飲めない自分が。たまに現在居住しているアパートの付近にある銭湯に行くのだが、そこで小学生や中学生、自分よりはるかに歳のいかない子供が元気に牛乳を飲んでいる様子を見ると、どうしようもない劣等感に苛まれることが間々ある。
「てか、先輩ってなんで牛乳飲めないんすか?」
「なんでって・・・・・・・・・・・ガキの頃、ミスって牛乳をコップに注ぎっぱなしにして出かけたことがあってだな、帰ってきたら鼻がひん曲がりそうな臭いがしたんだ。そん時、初めて牛乳が腐ってること知って、嫌いになった」
俺がそう言うと、井沼は俺を哀れむような表情をして言った。
「先輩って・・・・・・・・・・・・馬鹿ですか?」
「オメェにだけは言われたかねぇよ!!」
井沼にそう言われて思わず憤慨し、吠えたてる。まあ確かに井沼の言いたいことは分かる。腐った牛乳の匂いを嗅いでそれを嫌いになるなんて、七、八十年ある人生の中でも一回聞くか聞かないかくらい稀な話だろう。
「しかし、暇だ・・・・・・・・・・・」
結構長いことフリーターをしているが、ここまで仕事が暇になった職場は片手で数えても事足りすぎるくらいだ。まあ、とんでもなく忙しくて息つく間もないよりかは断然マシだ。
「客が来ないと、こっちも商売にならないしねぇ・・・・・・」
木村さんもすっかり困り果てたような表情であった。
俺は別にこのままでも良いかと思った。この調子だと恐らく、今より幾分暑さも和らぐだろう夕方になっても客は来ないだろう。五時には上がって次の仕事場へ向かわなければならない。
その時だった。
「あの~、すみません」
入り口付近で声が聞こえた。反射的に反応した俺は事務所の扉を開け放ち、レジに顔を出した。入り口付近には初老の女性が立っていた。花柄のバッグを腕に提げ、ハンカチで汗を拭っていた。だが・・・・・・・・・・・・・・
「え・・・・・・・・・山本、さん?」
俺はその女性に見覚えがあった。遠い昔から、幼い頃から知っている人物だった。
その人物はこちらの姿を検めると、同様に驚愕を露わにする。
「あれ?・・・・・ひょっとして仁一君!?」
どうやら彼女も俺のことを認識したようだ。久しぶりの再開に鼓動が高鳴る。
「やっぱり、山本さんじゃないすか!!ご無沙汰しています」
俺は深々と頭を下げた。
「やっぱり仁一君なのね、久しぶりじゃない。元気だった?」
「はい、おかげさまで。山本さんの方もどうですか?」
事務所内にいた二人は俺たちのやり取りを見て不思議そうな表情でこちらを見ていた。
すると扉の隙間からするりと抜けてきた木村さんが訝しむような表情でこちらに向かってくる。
「あれ、ひょっとしてみっちゃん?」
「さっちゃん!?久しぶりじゃないの!」
あまりの出来事に一瞬ついていけなくなった俺の脳はひどく驚愕した。
「え、お二人って知り合いだったんですか?」
木村さんは首を大きく縦に振った。そんな事を聞いてしまったもんだから、俺の脳は無意識につまらない推理を開始する。記憶の奥底を掘り返して、二人の名前を探し出す。そうだそうだ、そう言えば、木村さんの下の名前は『光子』で、山本さんの名前は『さつき』だったはずだ。
「先輩、この方は?」
すっかり会話に置いてけぼりをくらい、レジで呆然と突っ立っていた井沼が口を開いた。
「ああ、悪い。こちらは山本さつきさん。俺が子供の頃、お世話になってた施設の館長だ」
俺がそう言うと、二人は軽く会釈した。
「そう言えば、最近どうですか?施設の子供たちは」
俺がそう尋ねると、山本さんは自然と口元を綻ばせながら言った。
「みんな元気いっぱいで、全然ついていけないのよ。年を取るのって嫌ねぇ」
俺は久しくこのような安堵を覚えた。肉親の変わりに、俺を育ててくれた恩人が、昔となんら変わっていないことに。
「みんな仁一君に会いたがってたわよ?たまには顔出してあげて」
俺は暇な時、施設によく子供たちの面倒を見に行っていた。しかし、探偵団に入ってからは仕事も増え、さらに内容もハードになったため中々行けずにいたのだ。
「はい、分かってはいるんですけど。やっぱり仕事の折り合いがつけられなくて」
俺がこうして毎日仕事に追われているのは、一円でも多く稼ぐためだ。昔に色々あったおかげで、俺は見事に社会から浮いた存在になっていた。施設から出たあとは全く就職先が見つからず、経済状況も芳しくなくなってきて四苦八苦していた時期があった。
そんなとき、山本さんは俺の相談に乗ってくれた。その時に『だったら一つだけじゃなくて、色んな仕事をしてみたら?』と言われたのだ。それが俺のフリーター人生の始まりだった。
俺は今の生活に満足している。確かに一日食い繋ぐので精一杯だったりもするが、決して不幸と思ったこともないし、後悔したことも無い。定職を探していた時よりも毎日が充実して感じるし、何よりそのおかげで俺は探偵団のみんなと出会えたのだから。
「そうだ、今度の日曜でよければ施設に顔出しますよ。日曜ならバイトもないですし、どうですか?」
俺は山本さんに提案してみる。
「そうねえ、仁一君の都合がいいなら。皆に言っておくわ」
山本さんは微笑んだ。昔はこの笑顔に何度救われたことか・・・・・・・・・・・・・・・。
その後、山本さんは本を一冊購入して店を出た。自分を育ててくれた二人目の母親の背を見送りながら、俺はふと、思い出したかのように時計を見た。
時計の針は四時半を少し回ったことを示しており、俺はそれを見たときに思わず方が跳ねた。
「おっと!そう言えば次があるんだった!!」
俺は急いで奥へ引っ込み、制服であるエプロンをロッカーに押し込む。
「古閑先輩、どうしたんですか?」
レジの方から井沼が覗き込むようにして言う。
「え?ああ、次のバイトだよ。約束まで三十分もねぇよ・・・・・・・・・」
俺は急いで荷物を手に取り、二人に挨拶を済ませると、バタバタと忙しなく店を出た。
昼間の暑さとは打って変わり、黄昏時の柔らかく少し冷たい風が頬を撫でる。店の裏側にある職員駐車場には、使い古されたスクーターが一台駐輪してあった。随分前から事務所に置いてあった、俺のオンボロバイク。普段の移動は車なのだが、先日の騒動の際、フロントガラスの破損、車体の損傷やへこみなどで現在修理中だ。
代わりの足であるバイクに跨り、イグニッションを回す。そのまま駐車場を抜け、大通りに出る。東京の西端へとまっすぐ伸びる国道を右に折れ、街の少し外れへとバイクを進める。しばらく行くと、そこには古いオフィスビルがあった。壁面にはツタが這いまわり、老朽化した様相を呈する、ともすれば不気味な建物。ここが、次のバイト──────────いや、本職とも呼べる──────────の職場である。
三階へのびる階段を駆け上がり、壁際に看板が置かれた扉の前で立ち止まる。『西東京探偵団 探偵事務所』と太いフォントで書かれた看板には、丁寧に郵便番号と住所、電話番号が記載されていた。自分の勤め先に不満を言うわけではないが、正直なところ意味があるのかイマイチよくわからない。まあ確かにこういった四つの巨大都市を統合した東京エリアの外縁部には、ヤクザや非合法組織など、少なからずそう言った輩が根城を構えたりしている。お陰で、その手の依頼はいくらでも舞い込んでくる。ペット探しや愛人捜査なんかの方が珍しいくらいだ。
ドアノブを捻り押し開けると、室内には簡素な電球が天井から垂れ下がり、ソファやテーブルなど一通りの家具が揃っている、生活空間としては都心の住宅とほぼ遜色ないだろう空間が広がっていた。冷暖房完備、個室は二つ。洗面所と風呂場、小さいがキッチンもある。
「あら、ジン。珍しくギリギリじゃない」
「知り合いと久々に会ったから、それで時間食っちまった。わりぃな」
黒革のソファに足を組んで大仰に座っている女性は峰崎桜子。探偵団の会計担当である。先のとおり、その手の依頼が多いこの探偵団だが、何分収入はマチマチだ。立て続けに仕事が入る時もあれば、打って変わってぱったり来ない時もある。ここが活動を続けられるのは、ひとえに彼女の資金分配の腕だったりもする。
この探偵団には実に個性的な仲間が集まっている。桜子は南東京の経済の中心である峰崎財閥の令嬢。なんでも両親と喧嘩か何かをして、絶賛家出中らしい。その向かいに座る青年、東雲葵は十八歳という若さではあるが、天才的なスリ、詐欺、などのあらゆるテクニックに精通している。『大怪盗ルパン』の二つ名が、その天才ぶりをありありと表している。
他にも、全身義体の殺し屋のシグマや、スラム育ちの特攻隊長の久保秋奈。引き籠りの天才ハッカー、ベンジャミンに狙撃手ミキト・・・・・・・・・・・・。各担当分野では軍人に匹敵するほどのポテンシャルを持つ者が多い。その中での極めつけが、奥の執務机に座っている・・・・・・・・・・・・・・
「まあ、いいじゃない。それよりシグマが呼んでいたわよ。下の階にいるわ」
「ああ、分かった」
彼女、ノッテ・ビアンカだ。彼女こそ、探偵団のリーダーだ。弱冠十五歳の少女を中心として俺たち探偵団は構成されている。彼女もまた天才的才能の持ち主で、百パーセント嘘を見抜くという才能を持っている。その精度は、ポーカーフェイスの達人である葵でさえ見抜かれてしまったほどだ。
また、頭の回転も速く、常に冷静沈着な彼女はメンバー全員から慕われている。少し余談だが、リーダーと言う大物格でありながら現場主義者という、まさに『良い上司像』である。良い上司にしては少々冷たいかもしれないが・・・・・・・・・・。
そんな下らない考えを頭の端に押しやって、俺は奥の階段から下に降りた。このオフィスビルの一階二階は、リフォームして射撃練習場とトレーニングルームにしてある。階段を下り、ビル二階の射撃練習場に彼はいた。
明るい茶髪を中途半端に伸ばし、ロングコートに身を包んだ彼こそが、シグマ。全東京最強の殺し屋である。
「よお、ジンさん。遅かったな」
「ああ、すまん。ちょいと懐かしい人とバッタリ会ってだな。それより、なんか用か?」
俺がそう言うと、シグマは右手に握っていたモノを俺に差し出した。それはズッシリと重く、まるで鋼鉄をそのまま持ち上げているかのようだった。
いや、実際はそうなのだが、これは金属だけの重さではない。これは拳銃だ。艶消しの黒で塗装されたそれは、シグマの愛銃である。
「こいつは・・・・・・・・・・・《デザートイーグル》か。しかも五十口径。お前、普段は四十四口径マグナムしか使ってないのに、なんでまた最大口径のやつを?」
「ああ、まあ理由は色々あるんだが、一番の理由は火力だな」
俺はシグマの言葉にちょっとした疑問を抱いた。
このデザートイーグルという自動拳銃は、大火力の弾薬であるマグナム弾を安全に撃つため、ガス圧作動方式を採用した、自動拳銃としては珍しい銃である。その最大口径である.50AEモデルは"世界最強のハンドガン"の一角である。その威力は防弾チョッキすら貫通し、掠っただけで血液が逆流して死に至る、などと言わしめるほどだ。しかし、それの一つ下のグレードである44マグナムモデルも、拳銃としての殺傷能力は十二分である。なのに何故彼はこれを撃っているのか。射撃練習の的には幾つもの弾痕が残っていた。
「四十四口径でも火力は十分にある。でも、人には十分でも、機械───────────硬いやつとか、追加走行を装備してるのが来たら、さすがのフォーティーフォーでも抜けない。撃ち抜けるとして、せいぜい駆動部とヘッドパーツくらいだ。調整、頼めるか?」
シグマも、シグマなりの葛藤を乗り越えてこの結論を出したんだろう。一撃必殺を信条とする彼として、一撃とはいかずとも少ない手数で勝負を決したいのだろう。
「分かった、やってやるよ」
俺はシグマを指で招いた。ここにはシグマの調整用として作業台とコンピュータが備え付けてある。シグマはコンピュータの傍にあるベッドに横になった。
「サンキューな、ジンさん」
「いいってことよ。それに、これが俺の役割だ」
こんな超人的な連中の中に俺の居場所がある一つの理由がこれである。この探偵団のメカニック担当は俺とベンジャミンである。ベンジャミンはそこまで機械に強いわけではないが知識量はあり、開発企画なんかはほとんど彼が担っている。
シグマの首筋、そして肩部、上腕部にケーブルを差し込んで、パソコンと接続する。ディスプレイには様々なウインドウやパラメータが次々と表示された。五十口径の発砲時のリコイルに耐えうるように、サスペンションの設定を少しいじる。こういう仕事は、微調整が肝心だ。ほんのコンマ一の数値の微差は、運動機能の全てがロジカルなシグマにとっては大差に感じるだろう。
「・・・・・・・・・よし、っと。とりあえず一通り調整してみたが。試しに撃ってみてくれ」
シグマは無言で頷くと、コードを引き抜いて立ち上がった。そして、テーブルに置いてあったデザートイーグルを右手に、的の前に立った。右足を前に出し、半身で構える。狙いを定め、全身を強張らせたのちに引き金が引かれた。
乾いた銃声が室内に響き渡る。シグマの手に握られていたハンドガンは盛大にマズルジャンプし、その五十口径の銃口から弾丸を弾き出した。
俺は真っ先にシグマの方を見た。銃撃後の余韻に浸りながら、彼は真っ直ぐ的を見つめていた。
「シグマ、どうだ?」
俺は設定をカスタムしたとはいえ、ただ画面に表示された数値を見ただけだ。最も重要なのは、当人の感触である。
シグマはゆっくり口を開いた。そして静かな声で、しかしハッキリと言葉にした。
「・・・・・・・・・完璧だ」
デザートイーグルから放たれた弾丸は、人型の的のど真ん中より少し左下。ちょうど心臓があるあたりにポッカリと大穴を開けていた。
調整を終え、三階へ上がり事務所へ顔を出すと、さっきより人数が増えていた。
「んあ、ジンさん。それにシグマも。二人して何処行ってたんだ?」
緑みのかかった髪の前髪をかきあげ、ヘアピンで止めている青年は、その左手にポテトチップスの袋を握っていた。
「ようミキト、相変わらずお菓子ばっか食ってんだな」
「・・・・・・・・なんか俺が理由もなくお菓子食ってるみたいな言い方だな」
え、そうじゃないの!?と内心思った。どういうわけかミキトは、少なくとも俺の視界に入っている間は常に何かしらのお菓子を食べている。そんなミキトがワケありでお菓子を食べているとは、一体どういった理由なのだろうか。
「いや、そうじゃないのか?」
心で思ったことをそのまま口に出した。次なるポテトチップスを加えた彼は、いかにも心外そうな目でこちらを睨んできた。
「なんか俺が理由もなしに食ってるような言い草だな」
「理由あんのか!?」
「いや、ないんだけどさ」
その言葉を聞いた瞬間、下半身を主に脱力した。まあ、案の定と言えばそうなのだが。
「ところでベンは?」
俺は壁に設置されているスピーカーに目をやった。いつもなら事務所内に設置されたマイクとカメラ、そしてスピーカーを使って自室に籠っている彼と会話ができるのだが、今日は何のリアクションもない。
「野暮用で徹夜したから疲れたんだって。一番早く来たのはサクラだけど、その時にはもう寝てたって」
「あれ!?秋奈、貴方この前までは〝さん"づけで呼んでなかった!?」
「うん、でもなんか急にめんどくさくなった・・・・・・・・・・・・・・」
秋奈は女の子にしては短いような気もする赤茶色の髪をぐしゃぐしゃにした。まだまだあどけないこの少女が、戦闘になると右手にショットガン、左手にアサルトライフルのような状態で敵陣に突っ込んでいくバーサーカーだと言えば信じるだろうか。一体この小柄な体の何処にそのような超人的な身体能力と筋力があるというのだろう。
「あ、そうだ。ジンさん、また今度勝負してくれない?」
ソファに寝転がっていた葵は、起き上がって右腕を上げた。そして、手に何か持っていると見立てて、それを放ってみせた。
分からない人には何をやっているか分からないだろうが、しかしながら、それがなんなのかはすぐに理解できた。第一、それは俺の最も得意なことの一つだ。これだけは、今のところ誰にも負けたことがない。ビアンカとはほぼ奇跡と言える勝利をもぎ取って勝ち逃げしたのだが。
「おう、いいぞ。自分から言うってことは、それなりに腕を上げたって解釈していいんだな?」
俺がそういうと、葵は無邪気な片頬の笑みを浮かべた。
俺の最も得意とするもの。今まで負け無しで、しかもあの完璧超人であるビアンカをも破った特技。それは≪ダーツ≫だ。
以前のバイト先の先輩に誘われて同伴したダーツバーで、俺は初めてダーツを手に取った。元々、距離感覚が鋭くペットボトルを放ればいとも容易くゴミ箱に入れられるような人種だったので、初見プレイでバイト先の先輩に圧勝。以来、ダーツにどっぷりハマったというわけだ。
「そう言えばビアンカ。今度の日曜って空いてたっけ?」
俺がそう言うと、ビアンカはパソコンのキーボードを叩きながら応える。
「ええ、とくに依頼は入ってないわ。何か依頼持ってきたの?」
「いや、依頼っつーか・・・・・・・・・・・・どっちかと言えばボランティアなんだけどさ。俺が昔世話になってた自動養護施設、そこに皆で行かねぇかなって」
俺がそう言うと、桜子がいかにも不服そうな表情を浮かべる。
「お金にならない話は嫌よ」
「あのさぁ、お前の頭ん中は金儲けのことしかねぇのか?」
「良いじゃないの別に!お金稼いで何が悪いのよ」
いかにも挑発している桜子に対し、秋奈が手で制止をかける。
「ちょっと二人とも、たまには仲良くしなよ」
彼女の制止も空しく、尚も睨み合いを続ける二人に、
「良いじゃない。私はジンに賛成よ」
ビアンカが凛とした声で言い放った。
それを聞いて、桜子は驚愕を露にした。
「なっ、ちょっと、ビアンカまで!」
依然突っかかる桜子は、ビアンカのデスクの前に立つ。しかし、ビアンカは気にとめる様子もなく、キーボードを叩く手を止めて言った。
「たまには利益のことは考えず、気楽にやってみるのもいいんじゃない?」
その表情に、ビアンカは微笑を浮かべていた。
* *
翌日曜日。俺は探偵団のメンバーを連れて山本さんの営む児童養護施設へ赴いた。最初は反対していた桜子も、渋々ながらも後続している。このことを正午過ぎにベンに話し、お前も来ないかと誘ったところ、少しやり残したことがあると言って断られた。まあ、用事がなかったとしてもあいつはパスしそうだが。そうした結果、俺を含めて七人の大所帯となってしまった。
「しっかし暑いな・・・・・・・・」
無理もない。一昨日雨が降って一時的に気温は下がったものの、何せもうじき八月だ。一日間が空けば再び気温は急上昇する。
「つーか、シグマよぉ。こんな真夏日にロングコートって、もうちっとなんとかならねぇか?見てるこっちが暑苦しいわ」
「じゃあジンさんは俺に街中で銃器晒して警察の御用になれって言うのか?」
「じゃあなんでコートの内側なんてとこに銃入れてんだよ!!」
「いや、俺殺し屋だし・・・・・・・・・・・・」
いい加減ツッコミをいれるのも馬鹿馬鹿しくなってきたので、口から出そうになった言葉を飲み込み、代わりにため息を吐く。そんな自分も護身用に自動拳銃を携行している。いや、自分だけじゃない。恐らくここにいる全員がそうだろう。闇の社会で生きる者にとっては、毎日が危険との隣り合わせだ。それに仕事柄、色々と因縁をつけられる立場でもある。
「・・・・・・・・っと、着いたぜ。ここが、俺の前の家だ」
そう言って錆びついた柱の門前で立ち止まる。
門の向こうには様々な遊具が設置されている、子供たちの遊び場だった。
「あれ、子供たちが見当たらないけど。みんなして隠れてる・・・・・・・・・・・・なんてことはないよね」
葵が言う。門の向こうに広がる遊び場は閑散としており、人の気配がない。
「ああ、たぶん集会ホールで集まってんだろ」
午前中誰も外にいない場合は、屋内の集会ホールで集まって本の読み聞かせか、室内で絵を描いたり折り紙を折っていることが多かった。自分が小さいときはそうだったが、今はどうなっているのかよく知らない。あの頃から変わってないのだとしたら、そうして何かで遊んでいるんだろう。
門をくぐって遊び場を抜けると、三階建ての建物が建っていた。その玄関スペースのすぐ右手。施設の園長である山本さんは、大体ここの事務室にいることが多い。
「こんにちは。山本さん、みんな連れてきましたよ」
事務室の扉を開け、山本さんの姿を認めた俺は言った。すると、その初老の女性は笑顔でこちらを見て、席を立った。
「仁一君、いらっしゃい。また随分と友達連れてきたわね。みなさんとはどういう関係?」
「ああ~・・・・・・・・仕事先の同僚ですよ。それより、変わってませんね」
俺はあたりをぐるりと見渡した。遊具が新しくなっていたり、建物の外壁が塗り直されていたり、当時の様子と多少の差異はあるものの、施設の外観も中身もほとんど変わっていない。
「でしょ?いつ誰が帰ってきてもいいようになるべくそのままにしてるの。それより、今日はよろしくね。手伝ってほしいこと、いっぱいあるから」
こうして、俺たちの仕事──────────────もといボランティアが始まった。
* *
「うへぇ~、思ったよりシミるなぁ~」
ぽろぽろと大きな瞳から涙を零しながら、秋奈は両目を擦る。
「この程度で狼狽えててどうすんのよ。お嫁に行くにはこれくらいできないと駄目なのよ?」
そう言いながら桜子は慣れた手つきで玉ねぎを次々と包丁で切っていく。とんとんとん、と刃がまな板を打つ快音が響くたびに、そこに乗せられた玉ねぎは切断されていく。
「うぅ~、サクラはなんでそんなにさくさく切れんのさ」
なおも項垂れる秋奈は桜子に問う。
「こんなの慣れよ、慣れ。回数重ねるうちに耐性ができてくるもんなのよ」
できれば慰めなり労いなりの言葉をかけてほしかった秋奈は、しかしながら期待していた返答を貰えなかったので、むすっとした表情になり再び項垂れる。
玉ねぎは全て桜子に押し付け、秋奈は人参の皮を剥きはじめた。 これなら何度か葵やシグマの手伝いでやったことがある。人参はいくら皮を剥こうが切ろうが、目が痛くなることはない。ピーラーの扱いにさえ気を付ければどうってことはない。
「秋奈ちゃん、こういう風に切るのよ。やってみて?」
「え~っと、どれどれ・・・・・・・・・・・こうして、こう?」
「そうそう上手よ」
無事に皮を剥き終えた秋奈は、その手に再び包丁を持ち、まな板の上と睨み合っていた。どうやら銀杏切りに挑戦しているらしく、施設の調理員さんの見よう見まねで包丁を繰る。
桜子はその様子を横目で盗み見つつ、玉ねぎを次々と切っていく。正直、今回のボランティアにはついさっきまで乗り気ではなかったが、秋奈が楽しそうにしているだけで儲けものかと思う。
秋奈はまだ赤子の時に、西東京のスラム街に捨て置かれたらしい。彼女が小さくなっていた段ボール箱の中には、数枚の毛布と保温素材のシーツ、そして彼女の名前と親と思しき人物からの書置きが入っていたらしい。そこを、現在の秋奈の親代わりである女性が保護し、今に至るまで育ててきたようだ。
秋奈が捨て子で、自分との血の繋がりがないことは、数年前にその女性の口から直接秋奈に伝えられた。当初、秋奈はいまいち事の重大さを理解しきれていないようであったが、彼女も年を重ねるにつれ、母親のあの言葉の意味が少しずつ分かっていったらしい。それでも、秋奈は今尚その女性のことを母と呼び慕っているようだ。
桜子は思う。秋奈は人間の発育段階において重要な乳幼児期を血の繋がりのない母親のもとで過ごした。家族という集団の規定を血縁で縛ろうというわけではないが、彼女の現在の母親は、親と呼ぶには年若く、彼女が一般人と同じ発育過程を辿れたかどうかは桜子に知る由はない。この世に生を受け、まだその足で大地を踏むより早く実母に見捨てられ、この血生臭い職場で生きる彼女のためなら、どんなことだってしてやりたいと思う。それはひとえに、仲間としての親愛の情ではなく、一種の憐れみ、母性のようにも思えるのであった。
「秋奈、上手いじゃない。その調子で玉ねぎも切れるようになっちゃってね。あたしが楽できるから」
褒められたと上機嫌を表す表情が、一瞬のうちに曇る。なんだか微笑ましかった。
* *
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
この施設には、他の保育施設と同様に、年齢ごとに部屋が割り当てられている。今、ミキト、ビアンカ、シグマの三人がいるのは乳児ばかりが集められた部屋だ。
ミキトは己の腕に抱かれた赤ん坊の瞳をじっと見る。黒曜石の玉のような、艶やかな瞳が、ミキトの西洋人じみた碧眼を覗き込む。すると、赤ん坊の目は三日月形に萎み、きゃっきゃ、と小さな口から声を漏らす。
「おお、かわいい・・・・・・・・。ほれシグマ、お前も抱っこしてみるか?」
腕の中の柔らかい生き物に爛々と目を輝かせながら、ミキトはシグマに促す。シグマは首を横に振った。
「俺は遠慮しとく。赤ん坊にはどうも好かれなくてな」
「それもそうね。貴方目つき悪いもの」
ミキトの隣で聖母のごときオーラを発していたビアンカが口を挟む。シグマはビアンカにそう言われ、後頭部を指で掻く。内心、傷ついている。
「お前も大概な気もするけどな」
「あら、心外ね。こう見えて私、赤ん坊のお守りは得意なのよ?」
ビアンカは微笑を浮かべて応える。
「俺は外に出てくる。そっちの方が何かしら出来ることありそうだ」
シグマはそう言ってその部屋を出た。空調の利いてない廊下は異様な暑さで満ちており、汗が吹き出しそうになる。そして大きく溜め息を吐く。
赤ん坊に好かれない、と言うのは事実だ。恐らく、人間特有の熱を、彼らは感じないのだろう。
新生児や乳児は、その行動の多くが原始反射と呼ばれる生物の本能的な反応からなると言われている。手に触れたものを強く握る把握反射や、唇に触れたものに吸い付く吸てつ反射などは、よく聞く話だ。そう言った、種として生き残るための機能が色濃く残る赤ん坊たちは、シグマが想像するに、人間特有の熱、すなわち体温を感じているのだと思う。十月十日ばかり母親の体内で過ごし、出産後も親の腕の中で育てられる彼らは、その熱を人間の熱として自らの脳に焼き付けているのだと思う。だが、もしそれに当てはまらない何かを感じたとすれば、身の危険を感じて大泣きするだろう。それが、何かとシグマの心を傷つけたりする。
シグマが幼い頃、まだ少年兵になる前、ごく普通の一般家庭で生活していたことがある。しかし、その当時から全身が機械であった彼は、その家の小さな息子にさえ毛嫌いされていた。こんなまだ言葉も話せない内から自分が普通でないことに気付き、嫌っている。そうなのかどうかはよく分からないが、幼心にそう思った体験のせいで、シグマは子供が苦手なのである。
廊下を歩いていると、隣の教室からどっと笑い声が漏れ出す。
「お兄ちゃんすっげぇー!!」
「それどうやってやるの!?」
「教えて教えてー!!」
四,五歳児に囲まれ揉みくちゃにされているのは葵だった。手品でも披露していたのだろう。やり方を教えてほしい子供たちに圧し掛かられ、下敷きになっている。それを横目に教室の前を通過すると、昇降口から裏手のグラウンドに出る。
この施設には最高で十八歳まで生活することが出来る。仁一は十八歳までここで生活していたようだ。そして、それくらいの年齢層が高いと、正面玄関前のような幼稚園然とした小さな運動場で満足したりするわけはなく、大概はこういう裏手のテニスコートやグラウンド、体育館で遊んでいる。
「お、シグマ来たか。ちょっとこいつらの相手してやってくれねぇか?俺じゃあ手に余る」
テニスコートに差し掛かると、フィールドの外側に設置されたベンチに座っている仁一が声をかける。
「なんか俺がここに来るって分かってたような口ぶりだな」
「まあ想像はしてたけどな」
「俺が子供苦手だって知ってるよなぁ」
「ああ、勿論。わざとだよ」
そう、このボランティアの役割を割り振ったのは仁一だ。その時点でそんな予感もしていたが、いい機会だから一度挑戦してみようとシグマは思っていた。
「ま、お前がここに来たのは当然の帰結ってやつだ」
そう言って仁一はテニスラケットを差し出す。
シグマは大きく溜め息をつくと、コートを脱ぎ、それと当時にインナーベルトも外して、ベンチに丸め置いた。
* *
試合はシグマが二連勝中。まあ、彼は全身が機械、しかも軍の機械化兵士たちが使ってるような義肢なもんだから、常人より遥かに運動能力が高いのは当然なわけであって。
「おりゃっ!!」
「あっ!くっそー、負けた!あんた強すぎんだろ!」
三連勝。大きく肩で息をする少年を前にして、シグマは呼吸の乱れはおろか、汗一つかいていない。いや、そもそも彼に発汗機能はあっただろうか。
「さあさあ、次は誰だ?こんなんじゃあ準備運動にもなりゃしねぇ」
ラケットを右手で弄びながら、シグマは不敵に笑う。
「おいおい、ちったぁ手抜いてやれよ。大人げないぞ」
俺は呆れながらコート内で意気揚々としているシグマに声をかけた。
「悪い。でもこんな風に体動かすのは久しぶりだからさ」
そう言って無邪気に笑うシグマ。殺し屋の彼も、こんな顔で笑うのか、と俺は意外に思った。
「なんだ?向こうが騒がしいぞ」
言ったのはコートの向こう側にいる少年だった。意識を向けると、確かに正面玄関前の広場の方から声が聞こえる。甲高い、子供の声だ。
何事かと俺とシグマは玄関を通り過ぎ、広場に出た。
すると、十人ほどの子供たちが広場の脇に植えられている桜の木の根元で、そのてっぺんを見上げていた。彼らの視線の先には、白いボール。
「あ〜あ、また高いところに。俺もよくやったなぁ、あれ」
そんな光景をぼんやり眺めているうちに、子供たちは枝に引っかかったボールを取らんがために、思案を重ねる。石を当てて落とそうだとか、登って取ろうだとか、長いもので突こうだとか。どれも危ないからやめろと怒られるのがオチだが、子供とは自分でなんとかしたがるものだ。
すると、シグマがスタスタと彼らの方に向かって歩き出した。そうだな、登っても取れなさそうだし、長いものを持ってくるのも手間だから、あれが一番手っ取り早いか。
「危ないから下がってろ」
子供たちの集団を後方へ押しやったシグマは、その樹冠を仰ぎ見る。高さはビル二階相当。目算したシグマは五、六歩下がり、助走をつける。そして五歩目、足の裏が地面につく瞬間に義体の筋出力を上げ、全身のバネを使って一足飛び。どすん、という地鳴りが響いた瞬間には、シグマは空中を舞っていた。
軽々と枝に引っかかったボールを手に取り、そのまま重力に従ってフリーフォール。
着地の瞬間、再び地鳴りを伴って着地。シグマは平然と立ち上がった。
「ほら、気をつけろよ」
シグマは一人の男の子の前にかがみ、手に持ったボールを渡した。
「お兄ちゃんすっげー!!!どうやったらあんなに高く飛べんの?」
途端シグマは子供たちに足元を揉みくちゃにされる。振り払おうにも力加減がいまいち分からないようで、困惑の表情をこちらへ向けてきた。
「ほれほれ、お兄ちゃん動けないだろ?後で教えてもらおうな~」
俺は子供の群れをシグマから引き離した。子供たちは渋々納得したようで、しかし笑顔を撒き散らして、再びボール遊びに戻った。
「はあ、やるんじゃなかった」
「何言ってんだよ。ガキども大喜びじゃねぇか。しかし珍しいな、お前が子供のためになんかするなんて」
「それは・・・・・・・・・・・・まあ、気まぐれってやつだよ」
語尾を濁しながらシグマは言う。さては誰かになんか言われたな、などと邪推しながら、広場の子供たちに目をやる。
「驚いた、貴方の足って義足なのね」
背後から急に声がした。背後にはいつの間にか山本さんが立っていた。
「見てたんですか?」
「ええ、事務室からね。窓枠からシグマくんの姿が消えた時は、とうとう目までおかしくなったって驚いちゃった」
「すみません、驚かせて」
シグマが謝ると、山本さんは笑顔を彼に向ける。
「いいのよ、気にしなくて。今時機械の義肢なんて珍しくもないわよ」
確かにこのご時世、急激な科学技術の進歩により、機械の義手や義足の、所謂『義体技術』が盛んに研究開発され、最先端医療として世間に浸透している。一昔前までは装着するだけで、あくまで生活の補助の一つと言った存在だった。それがより便利に、より良く生活できるように、いつしか作り物の手足には軽量金属製の人骨を模したフレームと、電気信号で伸縮するナノ繊維を束ねた人工筋肉、そして運動神経からの生体電気をキャッチして人工筋肉を操作する超小型の伝達インターフェースが与えられた。こうしてマネキンのパーツに過ぎなかった義肢は、限りなく本物に近い機械へと姿を変えた。
しかし、ポピュラーになったとは言えど、義体を使って生活している者のほとんどは事故や病気で体の一部、あるいは大半を失った過去があるわけで、要するに、あなたの手足はぎたいですか、と率直に聞くのは憚られるのである。こと日本人のメンタリティとしては当然だろう。
義体は珍しくない、というのはきっと彼女なりをフォローなんだろう。山本さんも、それ以上込み入ったことは聞かなかった。
「さて。シグマ、年長組の相手しておいてくれ。俺じゃどうにも歯が立たないし、あいつらもお前の方が張り合いがあるだろ」
「分かった。ジンさんは?」
「俺はちょっと中を見てくる」
俺はそう言って施設の中へと踏み入れた。
玄関を抜け、階段を上り、二階から子供たちの寝室の方へと足を向ける。廊下を突き当りまで行き、少し手前で足を止める。
「ありゃ、この傷まだ残ってんのか。何処まで完全保存するつもりだよ」
俺はその場にしゃがんで、ドアノブのやや下に視線を向ける。そこには、古い傷。刃物のような鋭利なもので切りつけたような、鋭い傷があった。
「今はもう別の人の部屋なのか。・・・・・・・・・・・寂しいねぇ」
そう。この部屋はかつての俺の部屋だ。当時は今ほど施設に住む子どもの数は多くなかったため、大体一人一部屋くらいで個室を貰えていた。中には仲のいい友達とルームシェアしていたやつもいたが。
あの頃の俺はどうにも尖ってたから勿論のこと一人部屋で、ほとんど引き籠り生活を送っていた。しかし引き籠って何をするかと言うと、実は何もすることはなかった。部屋にテレビはなかったし、あるのはベッドと勉強机と本棚と箪笥くらいで、娯楽の要素は皆無であった。かと言って唯一テレビのある共同リビングに行くのも面倒だし、かと言って活字ばっかりの本を読むのも気が向かないし、機械いじりに覚えがあるもんだから解体と組み立てを延々繰り返していた。出かけると言って河川敷なんかに落ちている壊れたラジカセを持って帰って修理して使ってた時期もあった。まあ、ジャンクのパーツを上手いこと代用して修理しただけだったし、技術的にもまだまだ拙かった時分なので、そのラジカセは割と早い段階でお釈迦になった。俺の機械いじりの技術は、施設で過ごしていた頃の娯楽の創造ゆえに成長したわけだ。
「さて、もうじき昼飯か。配膳の手伝いでもすっかな」
懐かしの記憶もある程度鮮明に蘇ってきたことなので、そろそろちゃんと業務に戻ろう。俺は来た道を戻り、食堂を目指した。