表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/8

Episode.Ⅳ 西東京に怪盗現る~麗しのあの娘を奪え~

 「はぁ~、重たいなぁ・・・・・・・」


 はちきれんばかりに膨らんだビニール袋を片手に、僕はポケットから一枚のメモ用紙を取り出した。


 「買い出しはこれで全部かな?全く、もっとマメに買い足せばこんなに大荷物にならないのに」


 市街地の雑踏の中、僕は愚痴を溢す。実は1時間ほど前、事務所にいたビアンカに買い物を頼まれたのだ。なんでも、冷蔵庫に溜めてある食料が底をつきかけていたらしく、丁度そこに居た僕に買い物を押し付けてこういう状況に至る。


 真夏日らしい炎天下の日差しは、まるで僕を溶かすかのように、体感温度と地表の温度を拍車をかけて上昇させる。こんな状態が続くと、本当に溶けてしまうんじゃないかと心配になる。


 いや、先に体内の水分が蒸発するのだろうか。『溶ける』か『乾く』かどっちが先だろうと、ぼんやり空を見上げる。


 「ビアンカも自分で行けばいいのに・・・・・・買い物」


 何故か彼女は、依頼以外のときは事務所から一歩たりとも出ようとしない。前に散歩に行こうと誘ったが、その時はデータの整理があると、デスクにあるPCの画面とにらめっこしていた。ずっとあそこに居て退屈ではないのか、ある意味ミステリーだ。


 「離してっ!!」


 一瞬、全身の筋肉が緊張する。はっきり聞こえた。今の声、間違いなく女性だ。あの鬼気迫るような感覚。間違いない、襲われている。


 何処から聞こえたか、僕は周囲を首を振って見回す。すると、数メートル先にある裏路地に女性が駆け込むのが見えた。彼女の後を、ラグビー選手のように体格のゴツい黒服黒サングラスの男3人が追いかけていた。


 僕は走り出し、路地の道の隅っこに荷物を置き去りにして彼らを追った。


 女性が駆け込んだ路地は、奥で煉瓦壁に阻まれており、これ以上先には進めない。男達は女性を壁際にジリジリ追い詰めていた。


 「おい止めろよ!!彼女嫌がってるじゃないか!」


 僕がそう叫ぶと、男3人は一斉にこっちを振り向いた。彼女は半分涙目になった目を見開き、唖然としている。


 「何だこのガキ・・・・・・?」


 「さぁ・・・・・・・・」


 「ボウズ、お前には関係ないんだ。どっか行け!」


 さすがにここまで強そうな連中に睨まれると逃げ出したくなるが、怯えて逃げ出してしまっては、ここまで勇んで出しゃばった意味がない。


 「関係あるね。人助け稼業してるもんでね!」


 後半の台詞を強調するように言った。 何故そうなったのかは分からないが、男達は拳を揃えて僕に向けて飛ばしてきた。


 こんな筋肉の塊みたいなやつに、真っ向から挑んで勝てるわけがない。狙うは頭だけだ。飛来する石のような拳を紙一重で回避し、地面を蹴って飛び上がった。一番右端にいる男の顔面を足の裏で、先ほど地面を蹴った時のように蹴り飛ばして滞空時間を延ばし、中央にいた男の頭の側面を足の甲で蹴り飛ばす。


 「ふざけるなッ!!」


 残った男はムキになり、懐から銃を取り出した。だが、きっと撃てないだろう。経験上、この街で銃を持っている輩は、チラつかせれば怖気づくと思っているのが大半だ。撃てもしない銃を持っているのがどれだけ愚かか。


 「それはこっちの台詞だよ!!」


 僕は男の右手を強く蹴り、銃を弾きあげた。そして、懐から取り出した愛用の銃『ワルサー P38』の銃口を彼のこめかみに当てた。


 「誰だって銃を突きつけられたら怖気づくなんて思うなよ・・・・・・・?でないとアンタ、死ぬよ?」


 僕は冷たい口調で言った。普段はこんな風にして喋らないが、スイッチが入るとこうなってしまう。


 「誰かに銃を向けるときは、逆に向けられるって言うことを覚悟しな」


 試しに、一発撃ってみた。撃ったのは、大きな音が出るよう薬莢に少し細工をした空砲。殺傷能力は無い。だが、その爆音は男達を追い払うには十分で、その音を聞いた途端、男はその体格 にそぐわない情けない悲鳴を上げて路地を走り抜けた。


 「はぁ、ちょっとやり過ぎたかな・・・・・・・・?こんな事するんだったらフード被っとけばよかった。因縁つけられたらどうしよ」


 ボソっと呟きながら後ろを振り返ると、今更何を後悔しているのだと言わんばかりの女性の眼差しがあった。


 「あ、あの・・・・・・・貴方は?」


 フードをいじっていた手を止めて、僕は彼女に向き直る。


 「あぁ・・・・・・・・その、えっと。ただの通りすがりだよ。たまたま君の声が聞こえたから、様子を見に来ただけ」


 僕は彼女に笑って見せた。


 すると彼女は潤ませていた瞳を『キッ!』と鋭く光らせた。その変わりように、一瞬たじろぐ。


 「そう・・・・。貴方さっき『人助けしてる』って言ってたよね?」


 彼女の覇気に押された僕は小さく頷いた。


 「じゃあ、あたしを助けて!お願い!!」


 いきなり彼女が僕に詰め寄り、今にも泣き出しそうな顔でそう言ってきたため、僕は困惑したと同時に半歩後退りした。


 「えぇぇ!!いきなり!?」


 「そうよ、悪い!?今すぐじゃなきゃダメなの。お願い、力を貸して!!」


 状況がよく分からなくなってきた。一度脳内を整理する必要がある、と僕は判断した。その為にはまず『あの場所』に戻らなければならない。


 「ちょ、落ち着いて!話は聞くから、とりあえずついて来て?そこで話そう。ね?」


 僕は何とか彼女をなだめ、ついて来るように言った。彼女は素直に了承してくれた。勿論行き先は事務所だ。あそこに行かないことには何も始められない。それに、あの状況を見る限りはかなりの面倒事だ。自分の独断で何とか出来そうな問題じゃないだろう。


 路地を出て、さっき置き去りにした荷物を手に取り、歩き出した。


 それとなく事務所を目指してストリートを歩く。



 発端は、僕の『嗅覚』だった。


 僕には、普通の嗅覚は勿論だが、それとは別に『嗅覚』が存在する。小さい頃からの癖は恐ろしいものだ。



 彼女、いい香りがする・・・・・・・・・・・・・・・・



 感触があった。自分の手と似たような成分でできた何かが指先に触れる感触が。彼女の手の甲だ。彼女の右手に僕の左手の指先が触れあった。彼女の手のそばには、彼女の持っているハンドバッグがあった。


 「あ、ゴメンね?悪気があったわけじゃないんだ、ただ子供の時からの癖でさ。少しでも気を抜いたら今みたいになっちゃうんだ」


 僕は自分の左手を右手で掴んだ。


 「・・・・・・僕が小さい頃ね、父さんが借金で首が回らなくなってどっかに行っちゃったんだよね。そのせいで、母さんが借金を代わりに支払わないといけなくなったんだ。僕の家、元々貧乏だったからあんまりお金がなくて、それで『盗み』を始めたんだ。まだ6歳だったかな?」


 自分の過去を淡々と語る僕を、彼女は信じられないと目で訴えた。


 「信じられるわけないよね、そりゃ。でもこの街はそんな輩がうじゃうじゃいるよ」


 僕は続けた。


 「君、いい香りするね。金持ち特有の甘い香りが。そうだね・・・・。ご両親がお金持ちなのかな?家は結構広くて、大っきな庭があって、3,4階建て。それと、君が持っている現在の所持金は・・・・・んと〜、ざっと4万から4万8千円かな?」


 どうやら僕の読みは全て当たったらしく、彼女は気味の悪そうな表情を浮かべた。しかし、そこまで奇妙なものを見る目で見られると、精神的に少し来るものがある。


 「なんでそこまで分かるの?全部当たってる・・・・・・・」


 彼女はそう言って右肩に提げていたバッグを左肩に移した。そして半身を引く。恐らく、僕を警戒してのことだろう。まあ、当然の反応だ。


 「自分でもよく分からないな。結構長いこと金持ちばかり『カモ』にしてたから・・・・・・かな?」


 そうしてブラブラ歩いていると、後方で車のクラクションが聞こえた。仁一の車だった。


 「あ、ジン!ゴメン、色々あったから遅れちゃった」


 運転席の窓を開き、身を乗り出したのは仁一だった。


 「おめぇ、なに道草食ってやがった?そんな可愛いお嬢ちゃん連れてよ」


 仁一は僕の身体を肘で小突く。彼のよくやるからかい方だ。きっと僕が彼女をナンパしてたと思っているんだろう。


 「そういうのじゃないよ。とりあえず乗って?彼は僕の友人だよ」


 彼女は渋々と言った感じで車に乗り込んだ。


 「この中なら大丈夫かな?改めて、僕は東雲葵。で、こっちが友人の古閑仁一。よろしくね」


 「・・・・・・・・・・浜島樹里です」


 彼女の名を聞いた瞬間、僕の頭の中にはある一つの単語が、昔の記憶を引き摺って浮かび上がってきた。


 「浜島って・・・・・・・まさか『浜島財閥』の浜島?」


 僕がその単語を口にした瞬間、彼女の表情はなんとも渋い表情を浮かべた。なにか、負の感情が彼女の表情を歪めているようにも見えた。


 「浜島?そんな財閥知らねぇな」


 仁一はミラー越しに言う。


 「そりゃそうだよ。一昔前までは東の経済を動かしてたけど、最近は別のところにその立場を追われたんだよ。それからどんどん衰退していって、今じゃ名前すら聞かなくなった」


 確かそのはずだ。僕がまだ幼い時の話だが、あの時の記憶は今も鮮明に残っている。


 「よく、覚えてますね。まだあたしが赤ん坊の時の話なのに」


 彼女の表情が一気に曇りだした。瞳からは光が消えている。


 「あの時は色々必死だったから。君だって今はそうでしょ?」


 昔の自分と彼女を重ねながら、僕は自分の手のひらを見る。すると、昔の光景が鮮明に浮かび上がってくる。ある時は道端で靴磨きをしている風を装って金持ちに近づき、鞄ごと奪い取ったり。またある時は酔っ払っているのをいいことに堂々と財布を奪ってみたり。


 「色々やったなぁ~、あの時は・・・・・・・・」


 彼女は黙ったままだったが、遂に口を開き、こう言った。


 「そんなだったら、今頃牢屋の中なんじゃないですか?子供の時から犯罪に手を染めて今こうして暮らしてるなんて。おかしくないですか?」


 僕はふと真顔に戻った。彼女の言い分は正しい。実際、何度も警察に捕まりかけた事もあった。手錠をかけられたことも数回。それでもなんとか逃げ切った。あの頃は当然まだ子供だったわけだから、狭い道や小さなトタンの綻びなんかにすいすい入って逃げ回っていた。地下水道を歩いたこともある。


 「うん、そうだね。確かにおかしい。でも、そんなこと言ったらもっとおかしい奴もいるよ?僕なんかよりもっと重い罪を犯した奴が」


 「ヘヘ、そうだな。噂をすれば・・・・・・ってやつだな」


 仁一がそう言うと、車が停車した。どうやら、いつの間にか事務所まで帰ってきたらしい。


 車を降りて、事務所のあるオフィスビルの階段を上る。そして『西東京探偵団』の立て看板のある扉を開く。


 「ただいま。疲れた・・・・・」


 事務所に入った瞬間、台所まで荷物を置きに行き、その後ソファに崩れるように倒れこんだ。室内は冷房が効いていて、皮製のソファがひんやりとしていた。


 僕が背凭れに干されるようにうなだれていると、奥の扉の向こうからビアンカが姿を現した。


 「あら、遅かったじゃない。買い物ついでにお客さんまで連れてきたのね」


 ビアンカは微笑気味で言ってみせた。僕にはそれがからかってるような、そんな風に受け取れた。


 「帰りにたまたま会ったんだ。で、なんだか追われてるみたいだったからさ、とりあえず保護したんだよ」


 言葉を終えて一息つくと、向かいのソファが目に付いた。同じく革製の幅のあるソファの上には、そこを寝床のようにして眠りこけている男の姿があった。ツンツンと尖ったようにはねる茶色の短髪、半袖のカッターシャツのボタンを三つ目まで開け、カーキ色のカーゴパンツに包まれた足を背凭れに投げ出している。


 彼の名はシグマ。若干18歳、僕と同い年で今や東京中を震え上がらせる殺し屋だ。


 「・・・・・ん?なんだ、帰ってたのか。・・・・・・って、ソイツ誰?お前の彼女?」


 シグマは虚ろに開かれた目を擦りながら言った。


 「な、違うよ!そんなわけないでしょ?!」


 僕は体温が急上昇するのを感じた。頬のあたりが熱っぽい。シグマはそれを見て笑いながら言った。


 「いや、わりぃ。お前の言う『金持ちの匂い』っぽいモノがしたから、新しいカモに目をつけたのかなって」


 彼のその一言は、中々に心外だった。確かに『匂い』はした。だが、そんな不純な動機で彼女に近付いたわけではない。第一、そんな事探偵団に入ってからは全くやらなくなった。まあ、シグマだってそんなことくらい分かっているだろうが。


 「あの、貴方達探偵なんですよね?だったら、お話聞いていただけますか?報酬なら私が出せる範囲で全て出します。だからお願いです!」


 彼女がその台詞を放った瞬間、ビアンカの表情が仕事モードにカチッと切り替わった。


 「そう、それじゃ詳しい事を聞かせてくれるかしら?」


 ビアンカが彼女を見つめる。彼女は小さく頷いた。










 彼女の話はこうだった。


 浜島樹里、15歳。一大財閥『浜島財閥』の令嬢で、両親は数年前まで東東京の経済の実権を握るに等しい権力、財力を持っていた。


 しかし、新手の企業や他財閥の追い上げによって東東京ナンバーワンの座を追われ、それ以来赤字額は現在進行形で増加中。破産への一途を辿っている。


 今までに築いた富と手持ちの財産で何とかやりくりしていたが追いつかず、遂に他財閥の傘下に加入することを、財閥代表にして彼女の実父、浜島戒は決定した。しかし、ある財閥の御曹司が彼女との結婚を条件に資金提供を申し出たのだ。齢15の少女や少年が政略結婚など、昨今の東京ではよくあることだ。特に不思議な現象では無い。


 自分の意見を尊重しないような結婚など、もちろん浜島樹里本人が認めるわけがない。しかし、何度も講義した結果も空しく、こうやって家出を計画。東東京の中心部から特急列車で西東京まで逃れてきたらいい。



 「へぇ~、アレみたいだね。あのドラマとかでよくある逃走劇!」


 秋奈は大きな瞳を爛々と輝かせて言った。


 ふと思う。小さい頃、そういう類いのものに縁がなかった僕は、この年齢で幼少期に迎えるであろうテレビ依存のピークを迎えてるような気がする。最近、バラエティや連ドラが面白くてたまらないのはそのせいだろうか。


 逃走、家出、親への反抗。確かにと思った。最近のドラマにもそう言った要素は多く盛り込まれている。桜子は「ありきたり、つまらない」と夢のないことを言うのだが。


 「で、要するにそいつと結婚したくないんだろアンタ?俺達の力を借りて、結婚できなくなればいいんだな?」


 仁一がそう言うと、彼女は強く首を縦に振った。しかし、彼女と素知らぬ誰かさんの結婚を止めようと言ったところで、一体どうすればいいか。こんなに悩んだのは久しぶりだ。


 「つーか、何処のお坊ちゃんと結婚するんだ?」


 シグマが彼女に問いかける。彼女は口を一瞬つぐんだが、僅かに口を開き


 「対村財閥・・・・・・・・・・・・」


 と消えてしまいそうな声で呟いた。


 その瞬間、スピーカーが『ガガガッ!!」と音を立てて起動した。恐らく、インカムがオンラインになっていたのだろう。彼は会話を聞いていたのだ。

 

 『つ、対村だって!!?』


 ベンジャミンが驚愕の心境に満ちた声を、スピーカーがノイズ混じりに吐き出す。


 「ベン、なにか知ってるの?」


 僕はすかさず彼に質問する。ベンは間髪入れず答えた。


 『知ってるも何も、あの財閥は色んな噂が立ってるよ!?麻薬の密売とかが結構有名な話だね。他にも色々と・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』


 ベンジャミンの言葉を聞いた瞬間、彼女の顔から血の気が引いていった。それも当然の事だろう。自分はそこの御曹司と結婚しなければならないのだから。


 「まぁ、ベンが言ってるんだから間違いないだろうな。あいつの情報に間違いがあったことは今までなかったしな・・・・・・」


 仁一も彼女を不憫に思ったのか、声のトーンを下げ気味で言った。それには全く同感だ。自分だったら、と思うとぞっとせずにはいられない。


 「あたし、そんなところの人と・・・・・・・・?」


 僕は浜島樹里の方をちらりと見る。どうやら、彼女はその事実を知らなかったらしい。もしこのまま彼女が結婚することになったら、恐らく彼女は、何も知らないまま対村の商売道具になってしまうだろう。いや、ひょっとしたら、もっと酷い扱いを受けるかもしれない。


 「それだけは何としても避けないと・・・・・・・・・・・」


 思考の延長線上で口に出してしまった、前の会話との脈絡が全くない僕の台詞に、その場にいた全員が僕に注目した。そして、僕の顔をまじまじと見ていた仁一が口を開いた。


 「あ、そうだ。じゃあさ、お前と樹里ちゃんが結婚すればよくね?」


 彼の予想外の一言に、僕と彼女は大きく目を見開き目を合わせる。その状態で、文字どおり硬直した。思考回路も完全に凍りつき、まるで機能しない。彼女もじっとこちらを見つめているだけだ。


 「え、今なんて・・・・・・・?」


 「だから、お前と樹里ちゃんが結婚すればいいんだよ」


 その瞬間、顔からボッと炎が噴き出した。


 ちょっと待て、今仁一はなんて言った?僕の耳がおかしいのか⁈


 「な、なな、何言ってんの!!?そんな事、上手くいくわけ──────────────────」


 「やります、あたし!」


 僕の言葉を遮るようにして、彼女は言葉を発した。


 「ええぇ!!?やるの!?いいの、そんなに即答しちゃって?」


 僕はあたふたと身振り手振りでなんとか自分の心境を伝えようとするが、そんな僕をそっちのけで彼女は話を進める。


 「それで結婚を避けられるなら、あたしはドブの中だって這いずり回ってやります」


 なおもそのような事をのたまう彼女を見たとき、僕は思わず息を呑んだ。


 彼女の目は本気だった。


 間違いない。彼女の瞳には、なにか揺るぎ無いものが映っていた。それは鉄よりも硬く、炎より熱い、なんて比喩では生ぬるいほどの、寒気すら感じる視線。きっと、今の彼女に何を言おうと、彼女の決意は変わったりすることは無いだろう。


 「そうだな、葵と結婚するなら別に問題ないだろ」


 『だね、僕もそれが一番成功率高いと思う』


 シグマに続いて、ベンジャミンが言う。ビアンカは言葉の代わりに小さく頷く。


 「ちょっと待ってよ・・・・・・・・僕が彼女と結婚するのがなんで問題ないの?」


 僕は自分の思いを口に出した。すると、彼女は何の躊躇いもなくこう言った。


 「葵さん、盗みが上手いんでしょ?あたしの事盗んでよ」


 「・・・・・・・・・・・・・ハイィッ??!」


 僕の思考は完全に停止してしまった。










 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 二人とも無言だった。不自然に僕は目を泳がせて街の建物を見回す。


 気のせいだろうか、ほんの数十分前の記憶が飛んでいるような気がする。あの事務所でのやりとりは夢だったのか?いや、そんなはずは無い。いくら現実逃避しようと、現実は結果となって今僕を取り囲む状況となっている。


 一旦落ち着こう。落ち着くんだ葵。とりあえずこれまでの過程と現状を整理しよう。


 あの後、僕と彼女は結婚を前提に交際しているカップルになれと、とんでもない無茶振りをビアンカに押し付けられ、それに動揺する僕を無視して何故か話が円滑に進み、気付いたら街中の雑踏の中で二人手を繋いでいる。


 おかしいなぁ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。


 「・・・・・・葵さん、手が痛いです」


 「うぇ?ああ、ごめん」


 どうやら無意識のうちに力が入っていたらしい。手に意識を回すと、僕は彼女の手をかなり強く握っていた。慌てて脱力し、彼女の手を放そうとしたが、どういう風の吹き回しか彼女から僕の手を握ってきた。


 「え、ちょっ、何してんの・・・・・・・?」


 「何って、葵さんの手を握っただけよ。あたし達恋人同士なんだから」


 彼女は何食わぬ顔で、僕の目をまっすぐ見て言った。そう言われると妙に彼女を意識してしまう。人は、いや男というのは誰だってそういうものなのだろうか。


 僕は少し俯き加減で彼女の顔を見た。


 間違いなく美人もしくは美少女に分類されるであろう、整った顔立ちの持ち主だ。少し長めの茶色みを帯びた柔らかい髪。スタイルもよく、何より指先まで美しい。生まれてこのかた、ここまでキレイな指のラインをした女性を見たことがあるだろうか。何か楽器でも習っているのだろうか。お嬢様なら、たしなみ程度で何か一つや二つやっていてもおかしくはないだろう。


 「どうかしたの?」


 ふと我に返る。彼女は髪をかき上げながら言った。透き通るような瞳が、僕の目を見つめている。


 「え、あ、いや、なんかこういうの慣れてないからさ。妙に意識しちゃって」


 僕は空いた左手で、恐らく赤くなっているであろう頬を掻いた。横目で見ると、彼女は損をしたような表情を浮かべ、前に向き直った。


 どうにも不機嫌そうなので、声をかけてみる。


 「あのさ、浜島・・・・・・・・・・さん?」


 「樹里でいい・・・・・・・・・」


 彼女のその答えに、僕は頭上に『?』を浮かべた。


 「苗字で呼ばれるのは好きじゃないの。それに、あたしは貴方の事を名前で読んでるから、それじゃ不公平でしょ?」


 「ああ、なるほどね・・・・・・・・・・」


 妙に納得してしまった僕は今更、彼女に上手く丸め込まれていることに気付く。


 そして、深いため息。


 気が弱かったりするのは昔からだが、ここまで言いように振り回されたのは久しぶりだ。


 すると、右腕が強く引っ張られた。樹里は、躓きそうになった僕などには目もくれず、僕の右前方、半歩先を急ぎ足で歩いていた。


 「のわっ!!ちょ、何するのさ!?」


 「何って、ショッピングに行くの。あたし達恋人なんでしょ?付き合ってよ」


 恋人のフリとは言え、これは立派な護衛任務だ。彼女の身は僕が守らないといけない。しかし、いよいよ呆れてきた。さっきまで追われてたのに、なかなか図太い根性してる。


 「ったく、なんて散々な日なんだ・・・・・・・・」


 僕の貧弱な弱音は、街中の喧騒によって全てかき消された。














 「ねぇ、これどう?似合ってるかな?」


 「うん・・・・・・・・・いいんじゃない?」


 「じゃあ、次はコレ」


 「ああ、よく似合ってる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 「コレとコレ、どっちがいいかな?」


 「どっちもいいと思うよ?・・・・・・スゴク似合ってる、うん」


 すると、彼女は唐突に洋服を選ぶ手を止め、こちらを向いた。プクーっと頬を膨らませ、こちらを睨んでいる。


 「ねぇ、あたしの洋服選びに付き合う気ある?さっきから魂抜けた返事ばっかり」


 「あのねぇ・・・・・・・・・・・これ何軒目だと思ってるの!!!?余裕で二十軒は店回ってるよ!?しかもこの荷物の量、絶対コレの半分近く必要無いでしょ!!?」


 これまでの経緯は、今の言葉どおりだ。彼女の洋服選びに付き合ったはいいが、デパートの中でも十軒近く店を回り、試着した服が似合ってるか『YES』か『NO』で答えさせられ、挙句の果てにはデパートを飛び出し、そのデパートのある商店街の洋服店をひたすら見て回った。もはや『洋服選び』ではなく『洋服店巡り』となってしまっている。


 鮮やかなオレンジ色で塗りつぶされた街の風景は、時間の経過と日の入りを僕たちに淡々と告げていた。


 「これくらいは普通よ?それに、葵さんが付き合うって言ったんじゃないの!」


 「いやいつ言ったそんなこと!!言った覚え欠片も無いよ?!」


 そうだ、僕は洋服店巡り、もとい洋服選びに付き合うと言った覚えはない。なし崩し的にここまで付いてきてしまったが、了承はしていない。彼女はなにを自分勝手に捏造しているのだろうか。


 「大体ね、いきなり付き合えだの結婚しろだの言われたこっちの身にも・・・・・・・・・って、どうしたの?」


 僕の背後の遥か遠くを見つめるようなその瞳は、何かしらの危険を感じているそれと全く同じだった。目を見開き、後退りする。


 「な、なんで・・・・・・・・・・・」


 完全にうろたえた彼女を背中で隠すように背後を振り向いた。そこには、五人もの黒服にサングラスの男衆が散り散りになっていく光景があった。


 「葵さん、こっち。路地裏に逃げよ?」


 樹里はそっと耳打ちをするように言い、僕の腕を引いた。しかし、僕は彼女の意思に反してその場を微動だにしなかった。


 「いや、このままでいいんだ。買い物を続けよう・・・・・・・・・・」


 僕の言葉が予想外すぎたのか、彼女は口をポカンとあけていた。しかし、すぐに表情を険しくさせた。


 「続けるって、何言ってるの!?あたしに従って!」


 声のボリュームこそ小さいが、さっきより語調が強くなっている。僕のお気に入りの、グレーのパーカーの袖を引っ張る力も、明らかに強くなっている。


 しかし、これは千載一遇のチャンスだ。わざわざ向こうから出向いてきてくれたのだから、これを逃す手はない。


 「酷いな、たまには僕の言うこと聞いてくれたっていいじゃないか。それに、僕と結婚するんだろ?『挨拶』はちゃんとしておかないとね」


 彼女は頭上に『?』を浮かべたが、僕はそれをそっちのけで彼女を無理矢理洋服店内に押し込んだ。


 そして、バーゲン品の掛けてあるハンガーラックの物陰で、彼女の両腕を掴む。


 「ちなみに聞くけど、今まで男性と付き合ったことある?」


 僕のその質問に彼女は首を横に振った。


 「じゃあ、今まで身内に誰か好きな人がいるとか言ったことある?」


 これも先ほどと同じ返答が帰ってきた。さっきよりかなり訝しげな表情を浮かべていた。


 「よし、じゃあ最近、転んだり、何か怪我しかけたことある?」


 「ええ、四ヶ月くらい前に。街の広場の階段で躓いた」


 僕は、両手を彼女の腕から外し、彼女への質問攻めをやめた。これだけ材料が揃えばとくに問題は無いだろう。勝算は、ざっと120%といったところか。


 思わず、口元が綻びてしまう。この追い詰められた状況で、自分は何処まで足掻けるか、試したいという欲求が肥大する。


 「とりあえず、僕の話にペースを合わせて。君が合わせてくれたら、これからの作戦も絶対上手くいく」


 彼女はキョトンとした表情で僕の言う事を聞いていた。しかし、僕がここに留まる意向を汲み取ったのか、目をかっと見開き、僕のパーカーの襟につかみかかった。


 「ちょ、どういうこと?まさか、貴方わざと捕まる気?あたしはもうあの家に戻る気は無いの!!」


 彼女は強く怒鳴った。その怒鳴り声には様々な感情が込められているのだろう。


 突然の怒号に、周囲にいた買い物客の視線が一様にこちらに集まるが、すぐ散らばった。


 「分かってる。でもこうするしかないんだ。今ここでアピールしておかないと、君は否応なしに対村と結婚させられるよ」


 「え・・・・・・・・・」


 僕は、強い語調で囁いた。微かに喘いだ彼女の手足は、末端まで硬直していた。そして、恐らく僕の話が飛躍しすぎているせいだろう、訝しげな表情を浮かべていた。


 「対村のやつとは結婚したくないんでしょ?だったら、僕の言う事に従ってもらうよ」


 僕は淡々と言ってみせた。彼女は沈んだ表情になり、小さく頷いた。


 「さ、買い物の続きをしようか」


 僕は彼女の腕を引き、店を出た。そしてアーケードの下を暫く歩き、とある店の前で立ち止まる。華やかな店内の雰囲気やBGMは、高級感を醸し出している。僕らがいるのは、全東京でも五本の指に入るほどに有名なファッションブランドの店だった。店先に漏れ出す照明の明かりは、淡い黄金色。行き交う買い物客は皆、高級そうなアクセサリーやバッグを身につけている。


 こんなとこに来るんだったら、紺のストレッチパンツ、長袖の上に半袖パーカーなんて恰好にするんじゃなかった。《彼》の家に行けば、それなりの服装は揃ったろうに。


 とりあえず、後悔は後回しだ。材料は一通り揃っている。服装なんか大して気にすることではない。


 「なるべく自然に・・・・・・・・・じゃないと計画が台無しだ」


 僕は彼女の耳元で囁くように告げた。しかし、先ほどの僕の言動がよほど不可解だったのか、彼女の動きはここ数ヶ月油を注していないロボットのようにガチガチになっていた。


 さすがにそれは挙動不審にも程がある。彼女はさっきみたいに普通に洋服を選んでいてくれればそれでいい。


 「大丈夫?」


 「え、ええ・・・・・・・頑張る」


 腹を括ったのか、彼女の表情が引き締まる。もう少し、自然にして欲しいんだけど・・・・・・・・・。まあ、いいか。


 店の中に入ると、店先のアーケードとはまた別世界のように感じられた。圧倒的なまでの高級感が、そうさせるのか。だとしたら到底、僕みたいな人種なんかは縁のない世界だ。


 どんなものかと、適当な商品の値札を掴む。裏をめくると、そこには数字が五桁並んでいた。しかも税抜。思わず立ち眩みに襲われる。


 すると、彼女は夏物のワンピースを一着、僕の前に差し出した。


 「これなんかどうかな?」


 眩暈なんぞにやられている場合ではない。言い出しっぺがこんな調子でどうする。僕は意識に鞭打って自然な対応を開始した。


 「うん、いいと思うよ。そっちの色違いのやつの方は?」


 「え、こっち?これもいいかも」


 「でしょ?そっちの方が似合ってるよ」


 こうしていれば、今の僕達は端から見れば普通のカップルに見えているだろう。彼女もさっきの僕の魂の無い返事からの変わり様に多少動揺しているようだが、手筈通り洋服選びに没頭してくれている。


 会話も盛り上がってきた。このいい感じの空気に水を差すのは多少気がひけるが、そろそろ黒服に見つけてもらいたい頃だ。『作戦』と言うものは、『運』などの不確かなものさえも味方につけなければならない。それが僕流の理論だ。


 「お嬢様、こんな所におられたのですか!?」


 僕の背後から、野太い声が聞こえたので振り向いてみる。そこには、大柄な黒スーツの男が二人。両者とも、なかなかの強面だ。服装が服装なだけに、ちょっとワルそうに見える。


 「あ、あなた達・・・・・・・・・・・」


 彼女が驚いた様子でそう言うと、男たちの視線が僕に集まった。そして、ただでさえ強烈な顔面と視線がより一層強まるのを感じる。


 「小僧、何者だ!?」


 「お嬢様に手を出そうなど、ご主人様が許すわけないぞ!」


 男は彼女の左腕を掴み、自分の背後に彼女を隠した。そして、ものすごい剣幕でこちらを睨みつけてくる。


 視線の暴力に押しつぶされそうになりながらも、喉の奥から声を絞り出した。


 「悪いんだけど、それはこっちの台詞だよ」


 そう言って僕は財布の中から二枚の紙切れを出した。掌に収まる小さな長方形の厚紙。そう、名刺だ。それを二人に渡すと、男たちの方が跳ね上がり、目を大きく見開いて、名刺の文字を睨みつけていた。この反応、上手くいったか。


 「と、藤堂財団だと・・・・・・・・・・・・?」


 「あの北東京の・・・・・・・・・・」


 しめしめと、僕は心の中で盛大なガッツポーズをした。この段階でここまでの反応を見せれば、後はもう楽勝だろう。僕の経験で培われた職人レベルとも言える勘がそう言っている。大概この後は反論が待ち受けているが、それは大いに信じ込んでいる証拠だ。つまり裏返しというわけだ。


 「そんな、信じられん。大体、こんな若造があの財団のトップだと・・・・・・・?」


 右側にいた男が慄く。ほらね、僕の言った通りだ。


 もうこれは僕の勝ちだ。ここから先は僕の本気の4分の1も出さないでこいつらを騙せる。と言うか、既に騙されてるよね。


 男二人は依然として偽物の名刺に釘付けになっている。こんな偽物によくひっかかるよなと、心の中で嘲笑した。なんとも気分がいい。


 性格が悪いだって?一部の人からはよく言われるね、ビアンカとか・・・・・・・・・・・。


 「こ、これはとんだご無礼を!!」


 「お許しください!」


 さすが、金持ちに仕えるガードマンと言ったところか。話がよく分かっている。二人は深々と頭を下げた。


 彼女は目の前で僕が体格のゴツい大男二人を騙している光景に呆気をとられていた。


 「お嬢様、こういう肝心なことはすぐに仰って下さい」


 「へ?あ・・・・・・ええ、ごめんなさい・・・・・・・・・」


 彼女は目を上下左右に泳がせていた。中々の慌てようだ。人を騙して手玉に取るのも痛快だが、それに戸惑う彼女を見てるのも、なかなかどうして愉快だ。


 「いいんですよ。勘違いなんて誰にだってあることです。お気になさらず」


 微塵も思っていないことを笑顔で口にする。自然で爽やかな笑顔はあらゆる人に好感を持たれやすい。そして温厚な性格。こちらもまた好印象を与える要因である。どちらも、心理学的な考察のもと、統計を取られて出された答えだ。


 「それより、ご主人は今何処に?もしお時間があるのなら、丁度いい機会ですので、ご挨拶に伺いたいのですが」


 男達は僕のその言葉に耳を疑ったのか、動きがピタリと止まってしまった。


 「挨拶、ですか・・・・・・・・・しかし一体何の?」


 「ん?ああ、別に君らの雇い主に耳打ちしようとかじゃないよ。ホント、単なる挨拶だよ。取り次いでもらえるかな?」


 「承りました」


 男は頭を下げ、ポケットから携帯端末を取り出す。そして耳元に当て、少し離れた場所へ歩いていった。


 手応えは十分だな。この様子だと、向こうさんは完全に信じきってる。露骨なボロを出さない限りはバレることはないだろう。


 「ちょっと、葵さん」


 背後から樹里が僕のパーカーの袖を引く。僕は振り返って彼女と向き合う。


 「挨拶って・・・・・・・?」


 「だから、ただの挨拶だってば」


 そう、挨拶。


 単なる挨拶だ。

 






 ──────────────────僕と彼女の結婚のね・・・・・・・・・・・・・・・







 太陽光をギラリと反射する黒塗りのリムジンを降りると、僕の瞳に映ったのは風情のあるデザインや石像等が設置されている巨大な庭園だった。


 これがかつて東東京の経済の頂点に君臨していた巨大グループ、浜島財閥のトップ、浜島戒の邸宅。さながら自然公園と言ったところか。夏は果てしなく過ごしやすいだろう。大昔に話題になってた『緑のカーテン』とか言うのがそこら中にありそうな感じだ。


 広い。想像していたより広い。どうもカモの自宅の広さなんかを予測するのは苦手だ。こんなんじゃまだまだだな。


 「ここからは庭園内でのリムジンで玄関前まで向かいますので、お乗換えを」


 執事のような老人が手で行く先を示す。彼の指し示す指先の直線上にはまたもやイカつく黒光りするリムジンが停車していた。


 「一体どれだけ広いんだ・・・・・・・・・・・?」


 僕は誰にも聞こえない音量で呟いた。
















 「これが玄関ですか?」


 僕は思わず目を疑った。


 それはいよいよ玄関ではなく門と見まごうほど巨大な扉。そこには動物や人間、自然がごちゃごちゃに入り乱れて彫刻されていた。これが所謂プロの感性というやつなのだろうが、そういった方面の知識のない僕には、これの良さが全く分からない。


 分からないどころではないかも知れない。多分一生かかっても理解できないだろう。妙な自身が胸の内に湧き出る。


 その門(扉)を押し開けて中に入ると、エントランスには茶色い絨毯にレッドカーペットが敷かれており、螺旋階段、壁にかけられた絵画の数々。今までこれほど豪勢な豪邸には来た事が無い。


 「お待ちしておりました藤堂様。ご主人様がお待ちです。こちらへ」


 エントランスに入ってすぐのところに待機していたメイド服を着た女性が、僕の先を歩く。僕は、急遽手配した灰色のスーツの襟を伸ばす。第一印象は肝心だ。それだけでその人の扱いが決まるといってもいい。


 長く伸びる廊下には能面や多種多様な面が壁に飾られていた。正直気味が悪い。


 すると、メイドは急停止した。その先を見ると先ほどの玄関扉よりかなりスケールダウンした、『豪邸ならこれくらいが普通サイズ』の扉が僕を待ち構えていた。


 固唾を飲み込み扉を押し開ける。目の前に広がっていたのは、ずっと先まで続いているとても長いテーブルと、料理番組や雑誌で見るようないかにも『一流のシェフが作りました』感の滲み出る料理が陳列していた。


 「やあ、いらっしゃい。藤堂葵くん。待っていたよ」


 テーブルの遥か先には、先に料理の味を楽しむ上品な男性の姿があった。壮年の男性に相応しい皺の刻まれた顔。瞳にダークブラウンの輝きを湛えたその目は厳しいが、目尻の皺がそれを相殺している。厳格さの中にも、温厚な性格が伺える。彼こそが、浜島財閥のトップ、浜島戒その人である。


 僕は彼の傍まで歩いていった。


 「藤堂財団会長、藤堂葵です。以後、お知りおきを」


 そして軽く会釈。ちらりと眼前の暗い茶色の瞳の奥を覗く。警戒の色は──────────────多少はあるが、まあ想定の範囲内。北東京随一の後ろ盾の代表が齢十八の子供だと知れば、そりゃあ警戒の少しはするだろう。


 「浜島財閥代表の浜島戒だ。さあ、お掛けください。料理が冷めないうちに召し上がれ」


 浜島戒はナフキンを外して立ち上がると、皿の並べられた長テーブルに手を差し伸べる。


 僕は彼の傍の席に座った。テーブルに並べられた料理から噴き出す香りが胃袋を刺激する。僕は一口放り込んだ。


 「どうかな?ミシュランで三ツ星をとったレストランのシェフに作らせているのだが、お口に合いましたかな?」


 彼は僕の表情を覗き込むように聞いてきた。


 「はい、とっても」


 僕は最大限爽やかに言った。最初に言っておくが、これは嘘じゃない。純粋に美味しい。ただ正直なところ、僕はもう少し薄味派だ。僕の口には味が濃すぎる。彼の舌は相当肥えているのだろう。この豪邸と言い、この料理と言い、経営難に陥っている割には結構な暮らしをしているようだ。


 「ところで、お話とはなんですかな?」


 いよいよ切り込んできたか。ここからが正念場だ。ここでの揺さぶりが、後の作戦がどう転ぶか決めてしまうだろう。慎重に、かつ大胆に。揺さぶりを掛けるべく、僕はワンテンポ遅らせて口を開いた。


 「私は4ヶ月ほど前からお嬢様とちょっとした友好関係にありましてですね。今日も彼女の買い物に付き合う予定でしたが、何かそちらで一騒動起こしてから向かってきたようなので、謝罪をと思いまして。誠にご迷惑をお掛けいたしました」


 僕がそう言うと彼はにっこりと笑顔になった。実に人当たりの良さそうな笑顔だ。


 「いえいえ、こちらこそ。うちの者が無礼をはたらいたそうで。申し訳ない」


  こちらも笑顔で返し、食事を続ける。


 僕は料理を数口放り込み、嚥下してから口を開いた。


 「それはそうと、風の噂で耳にしたのですが、お嬢様が近々ご結婚なさるそうで」


 僕がそう言うと、彼のフォークを持つ左手が一瞬ブレた。しかし平静を装って浜島戒はフォークの先端に突き刺さった肉を口へ運び、数回の咀嚼の後、飲み下した。


 「ええ、おかげさまで」


 少し、表情が変わったな。


 彼なりにポーカーフェイスを決めてるつもりだろうが、スリ以外にも詐欺だってやってる僕の目からすれば、痛いところを突いたのは間違いない。もう少し、揺さぶってみるか。


 「それで、お相手は?」


 「対村の代表ですよ」


 「対村ですか。対村、ねぇ・・・・・・・・。いいんでしょうかね、それで本当に・・・・・・・・・・・」


 わざとらしく含みをもたせて言う。


 「この後、お時間よろしいでしょうか?よければ2人きりでお話がしたいのですが?」


 僕がそう言うと、彼はナプキンを外して右手を上げた。


 「料理を下げろ。彼と話をしてくる。なるべく邪魔をしないで欲しいと爺に話を通しておいてくれ」


 そう言って彼は立ち上がった。


 彼の表情をちらりと一瞥する。表情筋は強張り、鬼のような形相に変貌していた。












 その後、僕らは別室へ移動した。こじんまりとしたその部屋には、観葉植物とガラスのテーブル。それを挟むように向かい合った革のソファがあった。


 「本当は気付いてますよね?対村がどれだけヤバいかってこと。それを承知でお嬢様を嫁に出すおつもりですか?」


 僕は彼の目を真っ直ぐ見つめた。


 「ああ、そうだ。連中は樹里だけでなく、私も重要視しているようだ。かつて東東京を治めた大財閥の経営者。前金として赤字の返済額を受け取り、その恩はこちらの働きと人材で返す。双方利害が一致している。結婚を断る理由は無い」


 彼は表情一つ変えず、淡々と言ってみせた。


 「それは間違っていますよ。この取引は貴方の方が圧倒的に害が大きい」


 彼は己の目で僕に問いかけてきた。それは何故だ、と。


 「一瞬でも考えたはずです。連中がお嬢様を商売道具として扱うことを。あんなやつらが若い女の身体に何もしないなんて確証、一体何処にあるんです。そうなれば、貴方は何よりも大切な愛娘を傷つけられた事になりますよ」


 少し熱くなってしまったことを反省しつつ、僕は視線で「そうですよね?」と訴えかけた。


 「利害が一致していると言っただろう。そんなことがあれば、すぐにでも契約を切ればいいだけの話だ」


 彼は席を立ちドアの方を指差した。


 「さあ、お引取り下さい。私は忙しいのでね」


 僕は詰まっていた息を吐き出し、新たな空気を肺に入れた。そして、こう切り出す。


 「それでは景気回復も望めないでしょう。1%の勝算も無い賭けです。それは貴方が一番ご存知のはず。もう一度、よくお考え下さい」


 僕は扉に向かって歩き出した。そして彼の傍で立ち止まった。


 「二億五千万ならいつでも用意が出来ます。そちらの赤字総額は二億前後。負債の返済額も合わせて残りは全額お譲りします。それと、藤堂財団は貴方方に資金提供をするつもりです。そうなれば利害の一致も何も、貴方にとっては『利』しか残らない。さらにうちと経営協定を結べば、さらなる景気回復と向上が望めるでしょう」


 彼の耳元でそっと囁くように言った。そして扉を開け、身を翻した。


 「それでは、またの機会に」


 僕はそれだけ言い残してその部屋をを去った。


 部屋から出てすぐのところに待機していた爺に、帰る旨を告げる。向かう先はもちろん、“一応自宅”である藤堂邸だ。














 「──────────────────────というわけで、二億五千万払うことになった」


 「ったく、君ってやつは・・・・・・・・・・・・・・・・。まあ、その二億五千万は君の懐から出るんだろ?だったら文句はないよ。資金援助っていうのも、とりあえずその場しのぎのハッタリで、ただの時間稼ぎなんだろう?」


 「いや、その二億五千万は君の所からだよ?」


 「やっぱりか・・・・・・・・・・・・・。まったく、君といるとロクなことが無いよ」


 彼の言葉に、俺は力なく笑った。


 ここは藤堂邸。藤堂財団代表の邸宅だ。だが、ここは僕の本当の家じゃない。家族もいないから本来探偵団以外のメンバーと話すことなんてない僕は、一体誰と喋っているのかと言うと──────────────────────────


 「ねえ、碧。コーヒー淹れてくれる?」


 「二億も払わせたくせに、よく言えるね」


 僕はこの世界で唯一の『マトモな友人』、藤堂碧にコーヒーを要求した。碧は言葉を口にしながら嫌そうに顔をしかめたが、なんだかんだ言ってその手には白いマグカップとブラックコーヒーの入ったピッチャーが握られていた。


 「それで、これからどうするんだい?全く、字は違うけど同じ名前ってのをいいことに僕らのこと利用して・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


 そう、僕と碧は同じ『アオイ』という名前だ。


 二年ほど前、探偵団のメンバーと出会う前にこの館に忍び込んだ。そしてあえなく発見され、見事に捕まったわけだ。


 それが僕と碧の馴れ初め。初めての出会いだ。


 今でも思うが、あれはなかなかに最悪な出会いだった。方や大財団の御曹司で盗みに入られ、方や犯罪者で盗みに入ったのだから。


 「今回ばっかりは悪かったと思ってるよ」


 「つまりいつもは悪びれてもいないってことだね?」


 「あ〜・・・・・・・・・・・・いい話持ってきたでしょ?プラマイゼロだよ」


 一本取られた、と思いながら碧からマグカップを受け取る。中には真っ黒い液体が注がれていた。それを一口口に含む。


 第一印象って言うのは、本当に初対面との相手のイメージを形作る大部分で、大切なものだと思う。


 少し大人びた印象を与えられるようにと、ブラックでコーヒーを飲む練習をしているが、イマイチこの良さが分からない。なんとか表情を崩さず飲めるようにはなったが、まだ不自然だ。もっと自然に飲めるようにならないと。


 「まあ、いいけど。・・・・・・・・・・・・・・浜島財閥の浜島戒。確かにいい人材だと思う」


 「そっちのことは任せてもいいかな?」


 「ああ。面倒な手続きとか書類とかは全部こっちでやっておく。君は思う存分騙してきなよ」


 「ああ、分かったよ」


 ちょうどコーヒーを飲み干し、マグカップを卓の上に置く。


 「ごちそうさま。送ってくれると嬉しいんだけど」


 僕がそう言うと、碧は側にいた使用人に視線を送った。使用人は頭を下げ、客間の扉を開き、その向こうに僕を誘った。
















 北東京にある藤堂邸から車で一時間ほど一般道を行き、西東京郊外の探偵団事務所まではるばる帰還。その頃にはすっかり日も暮れて、夜空には煌々と星が煌いていた。


 「おかえりなさい。遅かったじゃない」


 事務所の入り口の扉を開け、中に入ると、ビアンカの落ち着いた声が聞こえた。ただいま、と返し、僕はぐったりとソファに倒れこんだ。


 「おかえり・・・・・・・・・って、あの娘どうしたよ。交際数時間で破局か?」


 ジンが向かいのソファの背凭れに寄りかかりながら言った。どういうわけか、その表情はなんとも喜々としている。


 「そんなわけないよ・・・・・・・・・・・・・・。それより今日は色々疲れたよ。ビアンカ、泊まってっていい?」


 彼女はパソコンの画面を見つめながらコクリと頷いた。それを聞くと、急に強烈な睡魔に襲われた。いっそこのまま寝てしまおうかなどと考えてしまったが、まだ考えなければならないことがあった。


 「ねえ、ビアンカ。僕さ、彼女の事──────────────────」


 「貴方は、自分が信じた道を進めばいいのよ」


 彼女は僕の言葉を遮るように言った。その言葉で、一瞬だけ眠気が晴れた。


 「貴方の『師匠』はもっと単細胞よ?貴方はそれを見習おうと銃や格闘術の稽古をダシに彼に近づいたんでしょう?心配しなくても、貴方はもう十分なくらい単細胞生物よ」


 「ハハっ、違いねぇな。でも、あいつは単細胞の中の単細胞だ。普段は冷酷無比な殺し屋演じてるが、実のところ人情に厚い・・・・・・・・・・・・・」


 ビアンカに続き、仁一が口を開く。


 「そう。それがシグマなんだね。僕が人生で『二番目』に憧れた人」


 そう。僕はシグマに憧れている。ああなりたいと、心の何処かで思っているんだ。


 気が弱く、自ら選んだ詐欺やスリの道に、僕は何度も絶望した。どうして、こんな生き方しかできないのか。嫌で嫌で仕方がなかった。


 でもシグマは違う。


 彼には、ああいう生き方しかできなかった。そうせざるを得なかったのだ。それなのにシグマは弱音の一つも言わず気丈に振る舞っている。人を殺す殺し屋でありながら、優しく、情に厚く。そして命を奪う立場だからこそだろうか、命の価値を十分に理解している。僕はそんな彼にいつしか、憧れの情を抱いたのだ。


 「ああ、そうだね。それもそうだ・・・・・・・・・・・」


 僕はゆっくり目を閉じ、大きく息を吐く。


 「んじゃ、俺はそろそろ行くわ」


 「バイト?こんな時間に?」


 ビアンカノートPCのモニターから視線を外して仁一に問う。


 「ああ、ちょっと今月ピンチでよ。日雇いのバイト入れたんだ」


 仁一はつかつかと玄関まで歩いていく。


 それじゃあ、また明日ね」


 僕がそう言うと、彼は右手をひらひらとさせ、扉の向こうに消えていった。


 再び瞼で視界を遮る。


 ふと、ビアンカと出会った頃のことを思い出す。


 二年ほど前のことだが、鮮明に覚えてる。今思っても本当、不思議な女の子だった。


 年齢不相応な口調や仕草、振る舞い。何もかもが子供らしくなく、そして大人びていた。口から出る言葉は辛辣そのもので、正直少しやさぐれていた僕にとっては聞くに堪えない言葉ばかりだった。


 しかし、その言葉には確かに熱があった。大人たちの口から発せられるような、本音に建前を何重にも重ねた、それこそ合金のような、冷たいものではなかった。


 そして、探偵団に誘われた。


 もちろん最初は冗談か何かだと疑ったが、嘘ではなかった。そして実際、彼女は僕が当時予想していた以上の働きをしている。幼いながらも、冷静な判断力と母親のような包容力でメンバーをまとめ上げる存在。彼女は皆から揺ぎ無い信頼を得ており、なにより、皆に揺ぎ無い信頼を抱いている。人生で『三人目』に憧れる人、それがビアンカだ。


 繰り返すようだが、幼少時代から気が強くなかった僕は、自分のライフスタイル───────────────スリや詐欺───────────────にさえ億劫になっていた。そんな状態でも十八歳まで生き永らえている。


 そして、僕と碧が出会った数ヶ月後。彼の屋敷への侵入を失敗したこともあって、いよいよ牢屋行きかと思った路地裏で弱音を吐いていたところ、ビアンカに声をかけられた。


 何故、あの日あの場所に彼女がいたかは不明だが、何かしらの手段で後を付けられていたのだろう。


 曰く、噂には聞いていたらしい彼女は、その場で僕を探偵団に勧誘した。


 それからと言うもの、僕はこうやって彼女の元で働いている。


 命の恩人である彼女と職場を共に出来ているということ。僕はそれを、心から誇りに思う。


 「なんか、安心したよ。ありがとね・・・・・・・・・それと、おやすみ」


 僕はゆっくりと目を閉ざした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ