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微笑んで私を埋葬  作者: 輝血鬼灯
9/11

09

 最後の調理実習に望む生徒たちの顔は晴れやかで穏やかだった。一年に三回あるうちの調理実習のうち、これが最後の三回目。班分けはいちいち決めなおすのも面倒だろうと、最初の時のままだった。

 つまり俺は沢崎や織香と同じ班と言うわけだ。例によって、班を仕切っているのは沢崎だ。すでにメインの料理は作り終わり、彼はサラダの盛り付けに入っている。レタスをちぎりキュウリを切りして材料を用意したのは俺と織香だけど、最後にそれを盛り付けるのは沢崎先生様の出番だと決まっていた。俺と織香が試しに一度盛り付けてみたところ、何とも言えない顔でダメ出しされた。

そういえば彼の絵はその手で優雅に盛り付けられたサラダのように、色鮮やかでその構図がはっきりしている爽やかな画風のものが多かった。

 対照的に、俺の絵は部活内で最も混沌としていると評判だった。初めて俺の描いた作品を見たときに、先生が「カオスだねぇ」と呟いたのは今でも記憶に鮮やかだ。暗く重たい色合いを、くどいほどに重ねて描く俺の世界は、確かに何度やっても失敗する料理のように醜く胃に悪いような印象を受ける。だけれど、俺はどこまでいってもそういったものしか描けないし、それしか描きたくなかった。

 絵は、人の鏡だった。絵だけでなく、芸術はすべからく人間の心の鏡だと考えている。

その小説を読めば小説家が何を考えていたのか読めるだろうし、絵を見れば画家が何を思っていたのか見えるだろう。だから、俺は絵が好きだった。吹奏楽のような団体の技巧を楽しむような芸術とは違い美術の道は、どこまでも激しいたった一人きりの自己主張の舞台だった。あの長方形のカンバスが、俺の息ができる場所だった。そこにこの胸の奥底の世界を具現することで自分を保っていた。奥底に積もった鬱屈を吐き出していた。

 ふと、それがない人間はどうするのだろうと考えた。鬱屈を吐き出す場所のない人は、どこにそれを求めるのだろう。

 ここが調理室だからかもしれない。うちの台所とは似ても似つかないけれど、料理をする場所と言うのは同じだ。流し、コンロ、皿を並べスプーンを置くテーブル。沢崎ともう一人の男子がメインディッシュの仕上げに入っている。

 小学生の頃、一人泣きながら料理をした台所は俺にとって、絶望の象徴だった。

俺と織香はいつものように、洗い物をしていた。織香が洗った皿を俺が拭いていく。水切り籠の中に入れられたそれらを次々に白い布巾で拭っていくと、やがて籠の中は空になった。感覚としては、まだもう数個、食器が残っていたはずなのだけれど。織香がまだ洗い終わっていないのか。

 何気なく視線を水洗い担当の彼女の方へとやる。息を飲んだ。

 彼女は思いつめたような顔で包丁を見ていた。銀色の刃の部分を、白い指が撫でている。正常な意識をどこか遠くへやってしまったようなその表情は、俺にも覚えのあるものだった。

 咄嗟に、洗って拭いたばかりのコップを力いっぱい流しに投げつけていた。

 硝子の割れる派手な音がして、しんと調理室中が静まり返った。

「秋野!?」

「織香!」

 一瞬後、我に帰った人々が渦中の俺たちの名を呼ぶ。沢崎がコンロをもう一人の男子に任せてやってきた。美耶子と奈江もわざわざ別の班から駆けつける。俺がわざとコップを流しに叩きつけたことまではバレていないようだけれど、あまりにも派手な音がしたので皆がなんだなんだとこちらへ視線を巡らせて事態を確認しようとしていた。

「おい、どうした?」

「秋野、織香、大丈夫?」

「平気だよ」

 織香が正気に戻っていた。上げられた顔には間違いなく理性の光が宿っている。けれど、我に帰ったその顔を、次の瞬間彼女は一気に青褪めさせた。

「秋野! その怪我……」

「ああ。破片で切った」

 家庭科の教師が飛んでくる。

 俺は叩きつけた拍子に掠った硝子の破片で指先を軽く傷つけていた。いまだ流しっぱなしの水流に一筋の紅い流れが加わり渦を巻いていく。朱色、紅、緋色、そのどれともつかない色の血は透明な水の中で不吉なほどにはっきりとその存在を主張していた。上手く拡散させなければ微妙に固まって流れてしまうらしい。ついついくせで、やけに冷静にそれを観察していた。

 最も美しいのは、割れた硝子にじわりと染み渡った血の色だった。透明で冷たそうでそれだけで綺麗な硝子に、淡い血の膜が覆って形容しがたい色合いを醸し出している。紅梅のような蘇芳のような。それでいてきらきらと透明に輝いた。この破片をこのままとっておいてくれ、と誰かに頼むべきだろうか。ぜひ絵の題材にしたい。我ながら狂っている。

 ああ、俺は混沌とした物が好きだ。

しかし悠長に考えていられたのはそこまでだった。あ、これ、結構、痛い、かも。

じんわりと、きりきりと、痛みは遅れてやってきた。

「~~~~」

「うわ。痛いだろこれ。秋野、こっちはいいから保健室行けよ」

「そうする」

「私も行く」

 即座に織香がそう申し出た。保健委員でも何でもない彼女だが、他の授業ならいざ知らず今は調理実習中。わざわざ俺の怪我程度で別の班のさして仲が良いわけでもない人間……むしろ俺とは仲が悪い一派にあたる人間を動かすのも何なので、ありがたく彼女と共に周囲の勧めどおり保健室へと向かった。

 廊下に出て、しばらく無言で歩いた。もともと小さな傷はまだずきずきと痛むけれど、ハンカチの一部を紅く染めただけで今は血も止まっていた。

 何度も繰り返すが授業中なので、他に人はいない。休み時間はそこかしこで生徒たちがたむろして騒がしい廊下も、張り詰めたような静寂に満ちている。その静寂を、俺と織香の足音が破る。

 半歩前を歩く織香が、顔を見せないままで言った。

「……ありがとう」

「――どういたしまして」

 普通は逆のはずだった。へましてコップを割ってマヌケにも怪我までした俺を、彼女がわざわざ授業を抜けだして保健室まで連れて行ってくれるというのだから。表面上は。

 だけれど、俺たち自身はこの状態こそが正しいのだとわかっていた。だから織香は一見何の脈絡もない謝辞を述べた。

「……ねぇ、どうして」

 気づいたの? と。続けられた言葉に、前を歩く細く頼りない背中に昔の自分を重ねるような心地で答えた。実際には誰しも自分の背中など見えないものだけれど。

「俺も、覚えがあるから」

「え?」

「どうしようもなくて苦しくて、包丁とか刃物とかただじっと見つめてみたり、樹海の話だとか駅のホームへの飛び込みとか、やけに意識してしまう時がある……あったから」

 いつも、どこかに、死に対する憧れがあるのだ。それは甘美で、けれど時々脅迫するような激しさで襲う。だから一歩踏み出せばすぐにそれを実行できてしまう駅のホームが嫌いだった。雨の日でも自転車通学を選んだ。風邪を引いたぐらいで死にはしないけれど、線路に飛び込めば確実に無様で醜悪な肉片へと化すことができる。

 俺は混沌としているものが好きだ。でも一番混沌としているのは何よりも自分なのだともわかっている。だから結局俺は自分が好きで、自分だけが大事なのだ。自分を美化なんてしないくせに、何の取り柄もないクズだと思っているくせにそれでも働く自己保身の感情は、結局何を言ったって俺こそが究極のナルシストなのだと示している。

「そっか。みんなそんなもんだよね」

 だから織香の言葉は、思いがけず傷口に染みた。

 後は会話もせずただ黙々と歩いた。滅多に世話にならない保健室の札が見える。簡単な手当てをしてもらった。

 調理室に戻ると、やはり誰にも言い置いておかなかったからか、先ほどの血のついた硝子はすっかり片付けられていた。


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