04
夕方から約束がある。まだ残って絵を描いている部員たちに断って先に帰ろうと下駄箱に向かったところで見知った顔に出くわした。
「織香」
「秋野」
下駄箱は薄暗い。明るい時間帯に出入りするのだから電気など滅多につけられない。しかし学校の下駄箱などどこもそんなものだろうと、慣れてくると生徒たちはみな当たり前にその薄暗さの中で靴を履き替え、荷物をロッカーに入れ替えして帰る。この高校では下駄箱とロッカーは一緒くたになっていて、それぞれカギを自分で買ってきてつけるようになっている。
「部活? 終わるの早いね」
「そういう織香は?」
先日の調理実習で同じ班だった彼女は、こちらの姿を認めてにっこりと笑った。にっこりと言っても、彼女のそれは笑顔と微笑みの中間ぐらいの笑みだ。穏やかな性格は間違いなく彼女の本質だという気はするのだけれど、それでもどこか対外的な印象がする作り笑顔。
どこか他人に対して距離を置いている、そんな感じのする織香の態度。誰かに似ていると思ったそれは、けれどすぐに自分と鏡写しなのだと気づく。
つまり人間なんて誰しもそんなものだ。
「私は帰宅部。今日はバイトないから、図書館で宿題してきたところ」
「ああ、日本史の」
美術部に所属していても、美大受験をしてそこまで専門的な道に進む生徒は少ない。ご他聞に漏れず文系受験をする俺は彼女と同じ選択授業をとっていた。
「というか、バイトしてたんだ」
てっきり織香のようなタイプは文化系の部活で物静かに作業していそうなイメージがあって、それこそ意外だった。自分が所属している美術部では当然ないとわかっているが、それでも手芸や茶道部など、彼女に似合いの部活はいくらでもある。
織香はそのどれでもなく、ただバイトをしていると言った。
「うん。そうなの」
彼女が頷いたところで会話が途切れた。仲が悪いわけではない、けれど特別良くもない間柄だと、こういったときに上手く会話を繋げるタイミングを見誤ってしまって困る。
下駄箱は薄暗く、他に通りがかる生徒も教師もなく二人きりで、本当に話題がない。ならばさっさと帰ればいいのだろうが、何となく何か言ってみたくなって先ほど美術室で知ったばかりの情報を告げた。
「奈江がさ、コンクールで賞をとったんだ」
「そうなんだ。おめでとうって、言わなきゃね」
友人の朗報に織香は大袈裟に騒ぐでもなく、だからと言って興味がない顔をするのでもなく、ただ静にそう言った。
「……織香ってさ」
その表情があまりにも穏やかだったので、俺は思わずそう聞いていた。彼女の顔は先ほど準備室で見た美耶子や沢崎の表情に比べて、あまりにも静かだったもので。
「何か、やりたいこととか、将来の夢的なものとか、ないの?」
「夢『的』なもの?」
夢だなんて、真っ正直に口にするのは少し恥ずかしくてそんな風にぼかしてしまった。「~的な」って、なんて便利で不自由な言葉だろうか。ただでさえ語彙に乏しい頭のくせに、言い回しまでそんな風にしかできない。
織香は突然の質問にも驚いた様子はなく、僅かに目を伏せる。
「夢、ね。考えたことないな」
「そんな難しいことじゃなくてさ、どんな大学行きたいとか」
「とりあえず文系としか決まってないよ」
「俺も」
それは同じ選択科目をとっている自分もよく知っている。
「秋野は、美大受験しないの?」
「――」
言葉が喉に詰まった。織香の言葉は美術部に所属している人間に対して素朴な質問なのだろうけど、俺にとってそれはあまりにも、刃物のように鋭い。
「俺ごときの画力じゃ行けるわけがないし、行ってもその先の就職に困る。だから」
「そっか」
普通に納得されてしまった。羨ましい相手は……嫉妬の対象は奈江だけじゃない。
吉野織香。人生を懸ける夢のない相手は羨ましかった。これと言える趣味がない事は人生に彩りがなくて無味乾燥にも思えるけれど、その分俺たちのように悩まなくて済む。
タイム・リミットに怯えなくてすむことはそれだけで羨ましかった。恐らく叶わない夢に、胸を痛めることもない。
俺の目に映る吉野織香は何かに執着したことなどないような涼しい顔をしてそこにいる。
「……その方がいいのかもな」
「何か言った?」
聞かせるつもりのない呟きを耳にして、正面の織香が小首を傾げる。背後から照らす光のせいで、その顔に翳りが落ちている。
「今、部活やってる三年生は引退前の追い込みで大変なんだ。これが、最後のチャンスだから」
「そうだろうね。高校生って、何だか最後の青春って感じだよね……この一年が終わったら、もう免罪符は通用しないもの」
「免罪符……」
織香の言葉はわかりやすかった。意外だった。
「織香もそんなこと考えることあるの?」
追いかける夢やそれが叶わない焦燥など何一つなさそうな顔をして。
「あるよ。子どもだからって見逃されてることなんて、幾らでも」
意外だったのだ。
免罪符。まだ子どもだから、学生だから、日本では大概の人間が高校までは通っているから。だから学生と言うその立場に甘えて、遊び呆けることもできる。その遊び呆けている時間を、自分のやりたいことに費やすこともできる。俺や美耶子たちは、後者だった。
けれど、その「やりたいこと」が将来に直結するかどうかはまだわからない。繋がらない可能性のほうが高い。
そうして明日のことを思うと気が塞ぐ。
「……あっ!」
「な、何?」
突然、織香が叫んだ。
「スーパーのタイムセールが始まっちゃう! 今日はお肉が特売品なの! ごめん、私帰るね!」
「あ、ああ……さよなら?」
「じゃあね!」
すでに靴を履き替えていた織香は、鞄を抱えて一目散に校門へと走っていった。タイムセール……母の口からよく聞くような単語がまさか同級生の少女の口から飛び出そうとは。
俺にとって、吉野織香という少女は誰よりも「謎」だった。可憐な西洋人形のようでいて、実際は周囲が思うよりよっぽど強かなようだ。だからこそつかみどころがない。
遠ざかる華奢な背中を見送った。