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微笑んで私を埋葬  作者: 輝血鬼灯
3/11

03

 床は木目調。片付けるようにはしていても、常に幾つかのイーゼルが放置されている。流し台に絵具の色で汚れた石鹸。窓に謎の落書き、壁に何年か前の卒業生が描いたイラスト、怪しげな石膏像は授業のためと言うよりも、むしろ教員の趣味のために立ち並ぶ。

 放課後の美術室は賑わっていた。部員のほとんど全員がこの部屋に集まっている。用事で顔を出せなかった二、三人を除けば一年生から受験生である三年生まで、律儀にも皆顔を出していた。

 それもそのはず、昨年度のコンクールに出品した作品の結果が返ってきたのだ。作品自体が返却されるのはまだで、小さなコンクールだったが、それでも今度の結果は美術部内に衝撃と歓声をもたらした。

 黒板の前に立った顧問の教師から口伝えで示された結果に、室内の視線が一人に集中する。注目を集めた少女が口を開いて何かを言う前に、その隣に立っていた美耶子が彼女に抱きついた。

「凄いじゃん! 奈江! おめでとう!」

 それをきっかけに、口々に他の部員たちから祝いの言葉が彼女に向けられる。顔を真っ赤にした奈江が、はにかみながらもそれを受けとった。

 昨年度末、最後のコンクールに出品した奈江の作品がその中で銀賞を受賞したという報せがもたらされたのだ。小さなコンクールとはいえ、その中で賞を獲れることなど滅多にない。事実、十人弱いる他の部員は軒並み一次選考落ちだった。俺もそのうちの一人。

 美耶子ともう一人の女子部員に抱きつかれている奈江と、ふと目が合う。胸の奥が漣立つ自分に強いて笑顔を作り、声をかけた。

「おめでとう、奈江」

「秋野、ありがとう」

「奈江の絵、超綺麗だったもんな! すげぇじゃん! 高校生活三年間最後の思い出作りだな!」

 俺の隣では沢崎がそう言って当人以上にはしゃぐ。彼の無防備な鳩尾を、美耶子が軽く、に見せかけて思い切り肘で突いた。

「まだ一個コンクール残ってるでしょうが。奈江に続いて、あたしらもそれで挽回しないと、ね? 負けていらんないでしょ!」

 本日結果が来たのは去年度のコンクールであって、今年の最初のコンクールはまだだった。部員たちは目下その賞に向けて鋭意製作中で、三年生の部員にとってはそれが夏の引退前の最後のコンクールになる。

「そうだよなぁ。もうさぁ、奈江の絵の綺麗さ知ってるから納得もするけどさ、俺たちにとっては妬ましいやら羨ましいやらで正直嫉妬しちゃいそうだよ。なあ、秋野?」

 しちゃいそう、ということは、逆に言えば今はまだもう一歩のところでしてはいないということなのか、沢崎。でも俺は。

「ああ、そうだな。その才能分けてくれ、奈江」

 軽口に紛らわせたそれはけれど間違いなく本心だった。

 羨ましくて妬ましい。すぐ側で笑う友人が――友人だからこそ別に高尚でもなんでもないただの同い年の子どもだと知っている友人が――自分よりも遥かに高みにいること。

「ちょっ、無理無理! 私、才能なんてないもん! わけたら何もなくなるから! これ以上なくなったらやってけないから本当!」

 人が羨む結果を残しながら奈江はあっさりと自分に才能なんかないと言い切って、薄っすらと染めた頬の前で手を振った。恥ずかしがる彼女に一年生と二年生の部員、つまりは後輩たちが次々に言葉を述べる。それにいちいち返事をする奈江から離れて、美耶子と沢崎と三人で用具室にイーゼルをとりに向かった。

 美耶子の後姿が、心なし焦っているように感じた。負けていられないと言う言葉を早くも実践する気か、自分の次のコンクール用の、描きかけの油絵を取り出す。同じ棚に干してある奈江の作品と見比べて、一瞬傷ついたような表情を彼女がしたのがわかった。

「美耶子」

「わかってるの」

「え?」

「奈江の絵が凄いってことはわかってるの。そのためにあの子が努力してるってことも知ってる。でも、どうしても駄目なの。悔しいの、羨ましいの、妬ましいの、憎らしいの」

 羨望と嫉妬で心が焦げ付きそうだと。

 羨ましくて。

 羨ましくて妬ましくて。

「そうだな」

 同意したのは沢崎だった。口には出さないが俺も同じ。網棚に干された油絵の中、一際鮮やかな奈江の作品を見つめるというには強く睨む。

「本当はこんなこと考えちゃいけないってわかってる」

「そんなことはないだろー、美耶」

 慰める沢崎の言葉に、彼女は唇を噛んだ。悔しげだの見苦しいだの言うにはあまりにも必死で、その瞳はともすれば泣き出しそうだった。完全に潤む前に美耶子は目元をさっと拭った。

「汚いでしょ。嫉妬なんて」

「……美耶子」

 何もこれは俺たち三人に限ったことではなく、まだ向こうの部屋にいる他の三年生も同じような顔をしていた。

奈江に与えられる称賛には誰しも同じ羨望を持っていたが、それでも余裕のなさが一番酷く現れていたのは同学年である三年生であった。一、二年生はまだそれでも余裕がある。そして二年生に比べれば、入学、入部してきたばかりの一年生の方がさらに余裕があるのだ。

 俺たちには時間がない。

「タイム・リミット」

 卒業までのモラトリアム。美大受験は難しい。家庭の事情で大学受験が出来ない人間もいる。だから、この一年間が最後の青春だった。事実がどうであれ少なくとも自分たちはそのように感じていた。

 ポツリと落ちた呟きを、美耶子が拾う。けれど何も言わず、努めて明るい顔を作って薄暗い準備室から電気のつけられた明るい美術室へと戻る。その細い肩に、イーゼル二台。

ようやく顧問が声をかけて、今日の作業をする者は入れ違いに準備室へと入ってくる。

「はい、奈江。イーゼル。絵はまだ奥だから、自分でとりにいってね」

「あ、美耶子。ありがとう」

 美耶子がかついでいたそれを一台、奈江に渡す。友人としての親切。ああ、彼女は心の奥底ではあんなにも、奈江を憎んでいるのに。

 あるはずのものも透明にして、笑顔で隠して生きていく。そうでなければ、世界はあまりにも醜くて、だけど俺たちは綺麗なものが好きだった。そんなものだけを見たかった。

 美耶子と奈江は仲が悪いわけではない。俺も沢崎も。むしろかなり親しい方だ。だからこそ、しこりのようなものが喉の奥とも胸の上ともつかない場所につまっているような感覚を覚える。

他の部員たちも椅子を出すなり絵具を広げるなり、思い思いのペースで準備を始めた。

 あと一年。とは言っても高校三年生の一年などその大半が受験勉強に費やされるのだから、実質は半年もない。そんな短い時間で、三年間何の結果も出せなかった人間に今更何ができるというのだろうか。

 そんな不安をおくびにも出さず、美耶子も沢崎も何食わぬ顔で描きかけの自らの作品に向かった。彼女たちに並んで、俺も自分の絵を正面に据える。

表面上は笑顔を浮かべることに成功しても、気を抜けばどろどろとした黒いものが溢れてしまいそうだった。

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