02
この学校では何故か受験生なのに三年生の必修に家庭科の授業が入っている。
「本当に何故」
「まあ、息抜きってことじゃないの?」
エプロンを持って廊下を歩きながら、同じ班で調理実習を行うことになった沢崎が笑う。
「料理嫌いには拷問だ」
「秋野は本当に料理嫌いだよなぁ」
「嫌いで悪いか。世の中にはカップラーメンという文明の偉大なる利器がある」
「だからって一生カップラーメンばっかり食べ続けるわけにもいかないだろ」
「いや、できる」
「オイオイ」
調理室へと向かう他の生徒たちの足取りは軽やかだった。白い壁に囲われた廊下に、窓から午後の金色の陽射しが注いでいる。リノリウムのくすんだ白い床に落ちた窓枠の影が規則正しく並んでいた。
「秋野」
「織香」
同じ班になった女子が話しかけてきた。吉野織香。茶色がかった、ふわふわと軽く波打つ長い髪を綺麗に結い上げている。目鼻立ちの良さと相まって、西洋人形のような、という形容がぴったりとくる可愛らしい子だった。
仲が悪いということはないが、普段頻繁に話をするというわけでもなく、よく知らない相手と言えば相手だ。それでも二年から三年へ進級する時にクラス替えのないこの高校では、三年のクラスは全体的にどこも親密だった。ただのクラスメイト、と言うには仲が良く、友人と言うには素っ気ない関係の一人。
「今日はよろしく」
「沢崎君も」
「うん、よろしくね織香ちゃん!」
「沢崎君は下の名前呼ぶの禁止」
「ええっ!」
酷い! 何この贔屓! とわめく沢崎に向かい織香は冗談だよ、と軽く笑った。外見の印象からすればいかにも儚い感じの美少女なのだが、おっとりとした口調で冗談を言う、意外にもお茶目な性格。
狭い廊下であまり騒ぐわけにもいかず、そのまま一足先に織香は目的の教室へと歩いていってしまう。
彼女の背中が曲がり角に消えた辺りで、沢崎が声をかけてきた。
「ところでさ、秋野と吉野さんってそんなに仲良くないんだっけ?」
「何? いきなり」
「いや、いちいち『よろしく』なんて普通言わないかと思って」
「美耶子や奈江みたいに、いつも一緒にいるわけじゃないからな。気安いの一歩手前ぐらいってところ、か?」
「聞くなよ俺に。それにさあ、彼女お前のこと……」
沢崎が何か言いかけたところで、ちょうど角を曲がる。前方から走ってきた人影とあやうくぶつかりそうになった。
「うわっ、ごめん!」
「季瀬?」
お互いの肩を掴むような形で抱き合って、なんとか止まる。激突は免れたが、受けとめたのはなんだか間の抜けた衝撃だった。廊下は走ってはいけないということか。
「あ、なんだ秋野か。良かった。ぶつかったのが沢崎じゃなくて」
「おいこら季瀬どういう意味だそれはオイ」
こちらの顔を確認して、彼女は笑った。季瀬は織香と仲の良い女子だ。織香が西洋人形ならこちらは日本人形のような顔立ちと真っ直ぐな黒髪をしており、二人並ぶと目の保養だと評判だった。
「季瀬、もう授業始まるよ。どうしたの?」
「エプロンだけ持ってきて、教室に三角巾忘れてきた! とりに行ってくるから、先生来ちゃったらそう伝えといて!」
それだけ言うと彼女は、また元気に廊下を走っていく。また誰かにぶつかるんじゃないか? という思考が一瞬頭を掠めたが、放っておくことにした。まあ相手が卵や皿などの割れ物でも持っていない限りそんな悲惨なことにはならないだろう。
「……季瀬が教室に忘れ物ってことはさ、うちのクラスから調理室に向かう、今日調理実習のうちのクラスの生徒と鉢合わせるということで」
あ、まずいかもしれない。沢崎の言葉に思わず目を上げると、彼もこちらを見ていた。
「……放っておく?」
「うん。そうしよう。たぶんきっと、大丈夫だと思う」
「だよなぁ」
へら、と表情を崩した沢崎と共に、調理室への道を再び歩き始めた。
「ああ。まあともかく、うちの班、卵料理とかじゃなくて良かった」
沢崎が言う。自由メニューなので献立は各班が好き勝手に決めたものだった。都合よく、この班が作る料理には卵が使われていない。自転車通学者が多くて誰もが持ってくるのを嫌がったためだ。
「他の班の心配はしてやらないのか?」
「まあ、人のことよりもまずは自分のことでしょうよん、秋野さんってば、真面目ぇ」
「おい」
くだらない会話に花を咲かせているうちに調理室へとついた。衛生上の問題で、黒板ではなくホワイトボードのかけられた教卓の前に立つ教師に季瀬のことを伝えて、先に織香が待っている自分たちの班のテーブルへと集合する。四時間目までは選択で別の授業をとっていて、今日始めて一緒の授業となる美耶子と奈江の二人が二つ後ろのテーブルから小さく手を振ってきた。
本日の家庭科、調理実習は五、六時間目を通して行うものだった。自分のことで忙しい受験生には余分なもののようだが、出席率は高く、嫌がっている様子の生徒もさほどいない。エプロンをつけ、レシピを横目に用意してきた材料の確認をする生徒たちの眼は明るかった。
調理実習なんて、そんなに楽しいものだろうか。ままごと遊びに興味はないし、調理実習などその延長戦上だろう。家で料理するのとは違い、学校での作業は中途半端に持ち寄った材料が余ったりわざわざ教師に包丁を借りなければいけない決まりなどがあって、到底ごっこ遊びの域を出ないように感じる。
白い教室、白い床。廊下や普通の教室の白が幾分くたびれてかすんだものであれば、ここは調理室という場所のせいか、目に眩しいほど綺麗な白だった。テーブルはステンレスの調理台となっていて、細かい傷だらけの表面は古代の鏡のように鈍く、居並んだ生徒たちの顔を映す。俺の顔も。
教師の合図で一斉に立ち上がり、作業の邪魔になる椅子をまず仕舞った。安全性の面でも椅子を出しておくのはまずいからと、その上に教科書を広げてすぐに取り出せるようにしながら、テーブルの奥深くに突っ込む。
銀色の台の上に、最初に配られたまな板と包丁、そして持ち寄った材料。朝のうちにこの教室に寄って、冷蔵庫に保存しておいたものもある。一班の人数は四人。織香と沢崎ともう一人の班の男子と共に、ビニール袋に包まれたそれらを開封していく。
「足りる?」
人参や玉葱など、担当分の野菜の料を織香に確認してもらう。
「うん。大丈夫……だと思う。あのね、秋野。私に料理のこと聞かない方がいいよ。私、すっごく料理できない人間だから」
「え?」
こんなにも女の子女の子した女の子なのに、と意外な告白に些か驚いて目を瞠り、男女差別めいたことを一瞬考えてしまった。流しでジャガイモを洗っていた沢崎が。
「あははは。何、吉野さんもそうなの? 秋野と一緒じゃん」
からかってきた。隣の男子が市販のカレールーの箱を渡してくれる。つかつかとシンクで芋洗いに励む沢崎の頭でプラスチックのパックの上からそれを割った。使い道は当分後なのだが。
ルーを渡してくれた男子がグッジョブと言わんばかりにレシピを見ながら親指を立ててくる。同じように親指を立て返した。
「こらっ! 沢崎君! 食べ物で遊ばないのよ!」
「俺ですか!? え、ちょっ、今のは秋野の奴でしょっ」
「篠宮さんたちの班は、全体的に騒がしすぎるんです!」
素知らぬ顔で調理に入った。沢崎の手元から洗われた野菜を回収して包丁で切る。幾ら料理が下手でも、このぐらいはできる。織香と二人して前半部分の作業に励んだ。
野菜はまだいい。問題は肉だ。カレー用の肉ではなく市販の普通の薄切り豚肉だったもので、切るのが面倒だった。世間一般の自炊している人々や一家のお母さんは偉いと思う。ぬるぬるべとべとした肉の感触が手に気持ち悪い。たぶん自分の性質からして顔には出ていないだろうが、正直この作業が嫌だった。
「はい、ここからは沢崎君の出番だよ」
すべての材料を切り終えるまで、四人とも黙々と作業していた。玉葱を切る役目を押し付けられた男子が目元をごしごしと擦っている。切り終わった肉と野菜の入ったボウルを織香が、笑顔で沢崎に押し付けた。
「そう、俺たちとは違って、料理上手な沢崎先生お願いします」
「秋野、さっきの発言根に持ってる?」
答えずにくるりと背を向ける。調理室のガスコンロと流しは一つのテーブルの両端に分かれていた。玉葱の被害から復活した男子が沢崎と共にフライパンの方へと回る。だから、逆方向の流しへ織香と共に回った。
使い終わったボウルや皿、包丁にまな板が放り込まれている。これからも今使っている木べらやフライパンが洗い物として出ることだろう。それでも流しを埋め尽くす調理器具の山に今から辟易して、少しは片付けようと手を伸ばす。
料理は苦手だが皿洗いには慣れていた。昔、家の中が少し大変だった時に否応なしに慣れるしかなかった。
だから今回も調理にあまり参加しない分率先して皿洗いに回ろうと思ったのだが、それよりなお早く手を伸ばした人がいる。
「織香」
「私、やるからいいよ」
「でも、手とか荒れるよ? 水も冷たいし、俺がやるからいいよ。うちで慣れてるし」
好きで慣れたわけではない。ちくりと痛みを伴う記憶を押し込めて言えば、予想外の答が返された。
「秋野は自分の手だったら荒れてもいいみたいに言うんだね。……うん。でも大丈夫。私も慣れてる」
「え?」
「だから私がやるよ。秋野はじゃあ、拭くのをやってくれる?」
「あ、ああ。うん、わかった」
受験生なのに、まだ高校生なのに。女子高生が家で皿洗いをするというのは当然なのだろうか。バイトはやっても家で家事などしてなさそうな、爪をマニキュアで飾り立てた一団の雑談をふと思い出した。
だから、一瞬だけ織香の答が引っかかる。彼女の爪は何の手入れもされていない桜貝だった。
高校生という年齢は、どう考えればいいのだろう。小学生ではない。中学生でもない。年齢としては、皿洗いぐらいしてもおかしくはないと言える。できるのにやらないだけで。
微笑んだままの織香に流しを任せ、言われたとおりに布巾を手に取って濡れた物を拭く作業に回った。