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微笑んで私を埋葬  作者: 輝血鬼灯
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 そしてタイム・リミットはやって来た。

 この最後の一日だけ、初めて感慨を持ってリノリウムの床を蹴った。日々は目にも留まらぬ速さで過ぎていき、夏は季節を飛び越して秋を忘れ次の春は来る。それを迎え入れる側の人々の心を、いつも冬の寒さの中に置き去りに。

 しかし逆に言えば、それでも春は来るのだ。心は冬の中にあっても、春は人を拒まない。

「じゃあな、秋野」

「落ち着いたらまた皆で会おうね。連絡するから!」

「っていうか、あんたもちゃんとメール寄越しなさいよ!」

「わかってるよ」

 当事者だというのにやけに退屈な卒業式を終え、部活のささやかな送別会もお開きになる。校門前で、いつもの面々と別れた。

「六時に銀杏公園で、と」

 俺は兼ねてからの約束どおり、受験が終わったから巧と再び会うようになる。とりあえず卒業したら一報寄越せといわれたとおりに、簡潔なメールを送った。

 送信を確認した後、約束の時間まで余裕がある俺はふと校舎に目を向ける。今朝まで俺たちのものだった教室の窓を見つめた。すると、何故かどうしようもなく走り出したくなった。忘れ物をしたような、していないような、複雑な気分が襲う。

 衝動のままにこれまで親しんだその場所へ戻ると、いつかのようにその中に一つの影があった。

 けれど西日の射す教室内で、今日の彼女は本を読んではいない。午前中に受け取った、ちょっと豪華な布の張られたファイル式の台に収まった卒業証書を手に、俯いて考え込んでいるようだ。

 その視線が、ふとこちらを向いた。

「どうしたの? また忘れ物?」

 その頬に微かに笑みを浮かべ訪ねてくる。また、と言う事はきっと彼女もあの日のことを思い出しているのだろう。こうして会話をするのも最後だと頭のどこかで誰かが言った。仲が悪いわけではないけれど、ただのクラスメイトと言う名の友人だった。卒業後も頻繁にやりとりをするほど親しくはないし、第一携帯電話のアドレスさえお互い知らない。

「今日は忘れ物じゃないよ。いや、忘れ物なのかな」

 暮れなずむ教室に置き去りにしてきたのはただの感傷。終わってしまった最後の青春の名残をせめてみっともなく拾い集めて繋ぎ合わせて、何とか自分を引き止めたかった。

 織香はこれも今日限りの彼女の席についていた。あの日、クラス中の人々のそこにいなくても雑多な持ち物を持ち寄っているせいで酷く雑然とした印象だった教室は、今は黒板が色とりどりのチョークで下級生からの「卒業おめでとう」の言葉で飾られている以外には、酷く殺風景な空間だった。あの日、想像のつかなかった殺風景という言葉の意味を今日知った。明日から自分はこの学校と、何の関係もない人間になる。

 今日で最後と言えど実際にはそう気構えるほどのことなどなく、織香がまるで昨日の延長線上のように極自然に声をかけてきた。

「ねぇ、秋野は大学、どこに行くの?」

「俺は……」

 偏差値が平均より少し低めの文系私立大学、一応進学校であるこの高校ではあそこだけは行きたくないなんて優等生連中が嘲笑う大学の名を告げれば、自分から尋ねたくせに織香はふぅんと気のない相槌を打つ。

「織香は?」

 一応お返しにと尋ねれば彼女はにっこりと、とても綺麗に笑った。

「行かない」

「え?」

「行けるような状況じゃなくなっちゃったもの」

 織香は言った。

「母が死んだの」

 一瞬、本当に一瞬だけれど頭が真っ白になった。呆然とした。思わず朝方笑顔で見送ってくれた母の顔が浮かんで消える。この年齢で母親を亡くすことなど、少なくとも俺には考えられなかった。それを、織香は。

「病気で。もうずっと具合が悪かったの。家の事はできる限り私も協力したりしていたんだけどね。でも……先月、ね」

 二月は一般入試の受験生の本番であり、もう学校は毎日通うものではなく、週一回の登校日に足を運ぶだけの場所だった。そしてその登校日ですら入試と重なって顔を出さなかった俺は、ここ一ヶ月近く、本当に高校に来ていなかった。

 その間に織香は母と死に別れ、通夜と告別式を済まし、空虚な日々を迎えてきたのだと言う。

 窓から差し込む西日は血のように紅い。その紅に濡れた窓硝子からふと、調理室でのできごとを連想した。そこから遡ってさらに、最初の調理実習の様子を思い出した。流しの汚れ物を前にしてこの少女と言葉を交わした。

 ――皿洗いなら、私、やるからいいよ。

 ――でも、手とか荒れるよ? 水も冷たいし、俺がやるからいいよ。うちで慣れてるし。

 ――うん。私も慣れてる。

 ――え?

 あの時、小さな驚きと違和感を覚えたのだった。

 だって俺が家事に慣れているのは、昔母親が祖父の看病のために家を空ける時間が長かったからだ。そのために手探りで覚え、必死で習得したのだ。慣れざるをえなかったのだ、普通の子どもたちはまだ親に甘えだれきって人が全てやってくれるのが当然だと根拠もなく思い込んでいるあの時期に。

 けれど、今の話を聞いていると、織香は……

 物事には全て理由がある。それが目に見えなくとも。

 俺より絵の上手い奈江は、俺なんかよりずっと長く、何倍も努力をしていた。

 織香が家事に慣れているのは、彼女の母が病気で家にいなかったからなのか。

 ギギ、と耳障りな音を立てて椅子が引かれる。織香が席を立つ。ゆっくりと歩み寄ってくる。

「なんて顔しているの? まるで自分の身内が死んだみたいだよ」

 その言葉に、俺はびくりと肩を震わせた。封じ込めていた記憶が滂沱と溢れかえる。

 それを淡々と促すのは織香の独白めいた声音。

「そんなに対応に困ることないでしょ? 人間は必ずいつか死ぬ。早いか遅いかの違いだけ。……私、ね、……私、お母さんが死んで悲しいのに、でもどこかでほっとしてた」

「織香」

「これでもういろんなことに縛られることがなくなったと思えば、気が軽くなった」

 あの頃家を空けがちだった母は、祖父が亡くなるとその必要がなくなってどこにも行かなくなった。俺は前みたいに甘えられるようになって。

 人間ほど残酷な生き物はない。

 どんなに死に焦がれても、実際に現実としてそれを突きつけられると息が止まる。

「……織香」

「音楽祭とか体育祭の朝練ね、サボるって言い出したの季瀬じゃないんだよ。私なの。私があのとき一番お母さんの具合が悪くて、忙しさの絶頂でどうしても出れないって言ったら、季瀬が矢面に立って便乗してくれたの」

 だから織香は季瀬が好きなのだと。

 俺は一歩足を進めて、彼女と本当に人一人分通れるかどうかと言う至近距離で向かい合った。

「酷いよね。最低だよね。私は最悪だよね。でも」

 そこで一度彼女は言葉を切った。挑むような眼差しを受けとめる。

「秋野だって他の人だって、みんなみんなそうでしょ?」

「うん、そうだよ」

 俺だって、季瀬だって美耶子や奈江、沢崎や巧だってみんなみんな最悪だ。

 そうでなければ生きてはいないだろう。こんなにも図太くなければきっと生きてはいない。

 いつも死に対する憧れがあるのだ。

 口ではそう言いながら、気づけばのうのうと俺は生きている。

 自分が望んだその道しかいらないと思いながら、理想が叶わなくても幸せだと時々感じている。美耶子や奈江と話し、沢崎と馬鹿をやって。一ヶ月に一度くらいは巧と会うことに。

――「幸せ」になったら負けなのだと勝手に思っていた。こんな澱のような自分を認めることなど。できない、と。

 深く考え突き詰めたはずの俺の理論はやがて現実を上滑りし、すでにここに存在しているものをなかったことにはできないという大前提を無視していた。一番大切なことはそこだったのに。

 永遠に納得できなくても受け入れる事はいつかできるかもしれない。

 どんなに生まれてきたくなかったと、親に向かって言えない代わりに天へと叫んでもこの命をなかったことにはできない。だから仕方ないのだと、際限のない愚痴を零しつつそれでも――生きる。惨めにでも無様にでも。

 視線の先で織香が微笑んだ。

「さよなら」

「さよなら、織香」

「さよなら秋野……あなたのこと、結構好きだよ」

 だった、と過去にしないところが彼女の優しい残酷さだと、それだけは知っているのだ。

「俺も織香は結構好きだよ」

 くす、とお互い微笑んで、もう二度と会わないだろうに、また明日ここで再会するかのように言葉を交わす。俺たち自身が思うほど、世界に深刻な現実など存在しない。

 織香が教室を出て行った。夕陽の差し込む紅い血塗れの教室に、俺は一人取り残される。割れたグラスの中に閉じ込められているようだった。拳を砕いてでもここから出なきゃ。

 いつかやがて死ぬときに、葬られる自分はどんな顔をしているのだろう。

手を伸ばせば届く死に確かな憧憬を抱きながら、それに伴う苦痛が怖い俺はたぶんこれからも屍のように無力に無意味に生きていく。

 どこまでも貪欲な自分は自分の命に塵ほども価値がないと知っていても生きて、自分の周囲の人間にも価値がないと知りながら生きて欲しいと身勝手に願う。

 この世のありとあらゆることに意味はなく、崇高は妄想で愛情は欺瞞。冷静な理性が言うそれらの真理を凌駕するほどに世界は穏やかであって欲しいと、祈るそれこそが重要だから。

 また今日も自分を葬る夢を俺は見るだろう。いつか本当に土の中に眠る日まで、ずっと見続けるだろう。慣れ親しんだささやかな絶望と希望を延々と繰り返すのだろう。

 できるなら俺は、もがき苦しみ最期まで足掻いて喉首かきむしり鬼の形相で、そうして苦しみぬいて死んでいきたい。見た目だけ美しい死に憧れるのではなく、限りなく虚しい生のあり方をそれでも目を見開いて見つめる。それこそが最期までこの人生を、力の限り生き抜いた証だと。

 その時にはきっと俺は、そんな「私」を微笑んで埋葬できるだろう。



 了.



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