10
部活内で友人間で、一番才能のある奈江が言う。
「私はね、中学の時からずっと美術の勉強を続けてるの。どんなに険しく厳しい道だって、この道に進みたいの」
「これを仕事にして飯を食いたい、と」
「そうだよ。秋野だって、そうでしょう」
「俺は……」
やる前から不可能だと諦めている。だってそれは現実だから。一朝一夕で上達できるなら、たった半年で某かの結果を出せるというのなら、誰も苦労はしない。やる気がないとか悲観主義とか言う前に、何よりも現実を直視しているだけ。そこから目を逸らして自分を過大評価すれば、それこそ全てが終わってしまうから。
夢を見たいし、そのための努力もするけれどその到達点を今から知っている俺はどうしてもその先を信じられない。
「秋野の言いたいことも、わかる。私の、私たちの夢見る将来は遠くて難しい道の先だね。そこに辿り着くまでは、挫折と絶望だけが一緒なんだ。それだけしても辿り着けない可能性の方が高い道に、危険を冒して入るのは勇気もいるし、現実的に就職問題とかそういうのもかかってくるよね」
人が願う事はいつも、叶うより叶わない方が多いのだと。奈江も俺もわかっていた。そして俺よりずっと、奈江の方が叶うのに近い位置にいる。だから彼女にはそれを目指す資格と機会があって、俺にはそれがないも同然だった。
教室で何気ない会話をする。主に朝と昼休みと放課後と幾つか必修の授業の間の休み時間。選択授業が違うと、そうして話す機会も少なくなる。俺は今日も「堅実」な未来のために、興味のない学問の教科書を教師に指示されたまま開く。意味はわかるのに、頭に入ってこなかった。半袖でも軽く汗ばむほど窓から差し込む日差しは暑いけれど夏とは違う。
「じゃあこの問題を……篠宮」
「はい」
すでに周囲は受験モード一色で、授業中に寝ている生徒も滅多に見なくなった。蝉の鳴き声が聞こえなくなると、どんな暢気な生徒たちにもそろそろ焦りが出始める。塾の講師が正念場だと言っていた夏はもう終わった。
コンクールが終わって、文化祭の作品もだいたい描き終えてしまった。もう本当にすることはない。この一日が終わると同時に、美術部の面々も引退する。部活がなくなれば会話も少なくなるだろう。同じクラスだから顔を見る機会自体がなくなるということはないが、それでもいつものように、部室で絵を描きながら雑談するような、そんな時間はもう二度とやって来ないのだ。
それぞれの進路ははっきりと口にして教えあってはいないものの、全員が方向性ばらばらの未来を見ているということだけはお互いに知っていた。だから本当に、これが最後の……。
夕暮れの教室。
血のように紅い日差しが西の窓から差し込んでいる。俺は右手にカッターナイフを握り、イーゼルに架けられた正面のカンバスを睨んでいた。
切り刻まれた画布。切り刻んだ絵。
一次選考すら通らない作品には、落選通知さえ届かない。何事もなかったかのようにただ返されたそれは、描いている時は必死でも、改めて見直すと顔から火が出そうなほどに拙いものだった。
だから切り裂いた。
俺にとっていらなかったから、捨てた。今日中に持って帰れば誰にもバレないですむだろう。そのはずだったのに、わざわざ必ず戸締りすることを約束して部長から鍵を借り受けた美術室の扉が開く。部員はみんな帰ったはずなのに。もうすぐで下校時刻なのに。
「……あれ?」
「織香? なんで?」
お互いの顔を見合わせて、俺と闖入者は同じように首を傾げた。電気をつけていない教室に入り込んだ沈む日の光が照らして、織香の頬が不自然に赤い。薄暗い陰影がその姿に落ちる。
「下駄箱で沢崎君から、コンクールに出品した作品が返ってきたんだって聞いて見に来たの。今ならまだ秋野がいるはずだからって」
……あの野郎、余計なことを。
少しばかり、人に知られるには気まずい場面を見られてしまった。放課後の美術室で絵をカッターで切り裂いているなんて尋常じゃない行動だと言う自覚はある。けれど自棄のようなこの儀式を行うには、この部屋でなければ駄目だったのだ。
俺にとって、高校生活の三年間はほとんど全てと言ってもいいくらい、この美術室に集約されていた。他の趣味に目もくれず部活に、絵に、没頭した。――報われなくとも。だからこそこの場所で未練を断ち切りたかった。
俺の手にはまだ刃物が握られているというのに動じた様子もなく織香は歩み寄ってくる。俺のすぐ隣に立ち、彼女は俺の絵を眺める。
「綺麗な絵なのに、もったいない。これ、秋野が描いたの?」
「……こんな時間に一人、他人の絵を破壊してたら俺はたぶん訴えられるよ?」
「それもそっか」
その納得の仕方はどうだろう、とか突っ込みどころ違うんじゃないか、とか思う事はいろいろあったが、織香の何事も気にしない態度に呆気にとられてしまい、俺の口は無駄に開閉を繰り返すばかりで言葉が出てこない。
「綺麗な絵だね」
先ほどと同じ言葉を、彼女は繰り返した。ありがとう、と、言うべきなのかわからなかった。
「一次落ちだよ?」
「それとこれとは関係ないんじゃない? 秋野がいらないんだったら、私が欲しかったな、これ。私、秋野と感性が似てるのかも」
「人からはよくカオスって言われるけど」
俺の絵は全体的に暗く重く、濁った澱が際限なく堆積していくような画風と指摘された。見ていて感銘を受けるような代物じゃない。
「大きさも手頃だし、お見舞いにちょうど良かったのに」
「お見舞い?」
「うん、今ちょっと、お母さん入院してるから」
知らなかった。顔色を変えずに言った織香の様子だと、深刻な様子には見えない。けれどその期間がどれほどの長さであっても、家に母親がいないのはそれだけで大変だろう。
「ねぇ、秋野。篠宮秋野さん」
「……何?」
「そんなに、自分が嫌い?」
「――」
息を飲んで目を瞠り、どう答えるべきか迷った。幾つもの選択肢が浮かんでは泡沫のように儚く消えていく。
結局最後には心の水面に何もなくなって、俺を波立たせるその言葉を発した織香の方を向いて、正直に答えることにした。
「嫌いだよ、とても」
切り裂きたいのは本当は絵なんかじゃない。こんなことしたって一時的な解決どころか、何にもなりはしないと本当はわかっている。
「わからないわ。あなたはそんなに美人で、成績もそこそこで、運動もそこそこで、こうして絵も描けるのに、どうしてそんなに自分が嫌いなの?」
「仕方ないだろ。嫌いなものは嫌いなんだから」
でもその一方で、俺は自分がナルシストだという自覚がある。
本当に自分が嫌いだというのなら今すぐ死んでしまえばいいのだから。あらゆる後処理を無視してただそれを選ぶだけなら、手首を切るだけなら五秒とかからないだろう。何しろ今も俺の右手にはカッターが握られている。
「もっと楽に生きればいいのに」
「それができたら苦労はしないよ」
結局俺は、誰よりも自己保身が激しいのだろう。そんな自分の描く絵が醜いのは当然なのかもしれない。その醜さごと誰かに認めて欲しかった。
でも俺には結局、自分で言うほど全てを切り捨てる勇気などないのだ。もしもそれができるのなら、制服だから仕方ないと、スカートを平然とはけるわけがない。あの大嫌いな纏め役と同じ性別だというだけで、のたうちまわるほど自分が嫌いなのに。
生まれてきたことがこの世でもっとも不幸な事象なのだと思っている。死を望みながらそれが伴う苦痛に臆病な「私」は死ぬ事が怖かった。いっそ生まれてきたくなかったなんて、身勝手なことをまた考える。そして俺をこの世に送り出したのは両親だ。
だから、学年中から批難を受けてでもあの頃支えたかった両親を、俺は心のどこかで確かに恨んでいた。彼らが与えてくれた命も容姿も性別も何もかもが不満で、持ち得ない才能に焦がれた。
そもそも「私」と言うものに対して決して満足することがないのだから、ありとあらゆるものを幾らだって何だって貶しこき下ろすことができた。俺はけして俺を認めないけれど、それ以外の全ても認めなかった。
薄々感づいておきながら、必死で蓋をしてきた自分の身勝手さに反吐が出る。拙い理論で穴だらけの武装をして心を守ったつもりでいた。
画家になれれば、それが少しは変われるかと思った。
なんとか、誰かに関わりたかった。感銘でも憤慨でも何でもいいから他人に影響を与えたかった。透明人間のように、素通りしないでほしかった。望むのはただそれだけだ。それさえ叶えば死んでも構わないのに、どうやら永遠に叶いそうにない。
感情は荒れ狂うのに、それが結びついて表れた行動だって結局こんなものだ。それを見透かしたように、織香が口を開く。
「人生なんて空しいものだよ」
「何を悟りきったようなことを」
「でも生きていてね」
夕暮れの血濡れたような赤い教室で少女が微笑む。
「織香?」
「絶望してても誰かを憎んでても自分をこれ以上ないほど嫌っていてもなんでもいいから、それでも生きていてね」
どう、答えればいいのかわからない。十二歳から十七歳まで五年間かけて結局俺が出した答と正反対の方向を目指した言葉を織香は口にする。
俺は死への憧憬。
そして彼女は、生への執着。
でも不思議と侮辱には感じなかった。
「人の一生なんて気が狂うほど永いんだから、早急に結論を出す必要なんてないよ」
それはすでに何かを手放してしまった者の笑顔で、声の響は切ない祈りに似ていたからなのかも知れない。
「……考えてみるよ」
俺はもう絵を描かないけれど、それでも。
最期の夕陽が切り裂かれたカンバスを照らした。




