隣に座って
ロシナンテはぽくぽくと噴水に近付いていくと、背中を向けたままのルイーズの髪を啄んだ。
振り返った彼女は相棒の姿にそっと顔を綻ばせ、それから静かに佇んでいたアルクを見付けて驚いたような顔をした。
「あら、こんばんは」
「こんばんは、殿下。このような時間に、お一人ですか?」
「いつものことよ? こんな早い時間からお化けも出ないもの、怖くはないわ」
「……」
あなたはどうしたの? と問われ、ロシナンテに誘われましたと答えれば、彼女はきょとんと不思議そうな顔をしたかと思うと、次の瞬間破顔した。
飾らない笑顔は年相応にあどけなく、薄闇の中でもアルクの目には眩しかった。
「私、少し貴方と話したいと思っていたから、ロシナンテが代わりにつれてきてくれたのね」
「私と?」
「うん、そう。アルクと」
ルイーズにおいでおいでと手招きされて、アルクは噴水の淵に腰掛ける彼女の一歩手前まで近付き、その場に片膝をついた。
するとルイーズは訝しげに眉を寄せ、「違うよ、ここだよ、ここ」と自分の横をぺちぺちと叩いた。
「いえ、私は……」
一国の公女と並んで腰掛けるなど恐れ多いと、戸惑い遠慮するアルクだったが、次の瞬間白い華奢な両腕が伸びて来て、逆らえぬ彼を半ば無理矢理噴水の淵に座らせた。
「座る場所があるんだから、座ればいいじゃない」
変なのっと笑われ、答えに窮するアルクを尻目に、案内役を終えたロシナンテは、噴水の下の水たまりに顔を突っ込み、ふがふがと喉を潤していた。
「アルクは十六なんですってね。成人したばかりなのに王太子殿下にお仕して、しかも単独で使いを任されるなんて、余程優秀なんだろうってお父様も感心していたわ」
「恐れ入ります」
「私より二つ年上なだけなのに、あなたはとても大人に見える」
「いいえ……私など、まだまだ……」
じっと、いっそ不躾なほど見つめてくるルイーズは、化粧っ気がなくてもとても整った容貌をしていて、アルクは少し戸惑った。
ヴァルキュリアにおいて、王族に次ぐ家柄であるエリヴェール公爵家に生まれた彼は、美に秀でた者など掃いて捨てるほど見て来た。
二人の姉たちもそれはそれは美しく、王城に仕える侍女たちもまた美形揃い。
父や兄に時たま連れ出される夜会などで顔を合わせる、同じ年頃の令嬢たちもまた可憐である。
しかしながら、彼女たちの美しさは素直に認めながらも、アルクがそれに心動かされることなど今まで一度もなかった。
それなのに、ただただ真っ直ぐな賞賛と尊敬を浮かべたルイーズの瞳はキラキラとしていて、それに見つめられる自分が誇らしくさえ思えてくる。
嬉しさがこみ上げ、同時にとても照れくさくなり、アルクはそっと顔を伏せるようにして彼女から視線を逸らした。
けれど、少しだけトーンを落として続けられたルイーズの言葉に、彼ははっとさせられる。
「ねえ、アルク。……王太子殿下は、どんな方?」
そうだった。
どれだけ純朴にいとけなく見えても、彼女は一国の公女。
家や一族の思惑で美しく培養される貴族の令嬢たち以上に、その小さな背に重きものを背負わされているのだ。
個人の意志など通用しない、国と国とを結ぶレールに乗せられる彼女の人生が、せめて少しでも幸せであってほしい――と、優しいリュセットの人々と同じ願いを、その時アルクも抱いたのだった。
「ノエル様は、とてもお優しく立派な方です」
それは、主に対するお世辞でも何でもなく、アルクの本心から出た言葉であった。
王太子ノエル・エディーラ・ヴァルキュリアは、現国王と正妃の間に生まれ、幼い頃から次期国王を約束されて育った方であるが、地位や身分に驕ることなく努力家で、臣下の者にも細やかな気遣いを怠らない。
「そう……。アルクは、殿下のことが好き?」
「近くでお仕えできることが私の誇りです。誠実なお人柄で、民もみな殿下を慕っております」
王族と縁の深いエリヴェール家の末子として、彼にはアルクも小さな頃から随分と可愛がってもらった。
兄のように親しみ敬う王太子に、アルクは騎士として己の生涯を捧げると誓っている。
しかし、王太子の人となりをほとんど知らないルイーズにとっては、アルクが語る彼の誠実さというものが、いまいち理解できなかったようだ。
ルイーズは、年の離れた自分が求婚されたのが、王太子の好色のせいだとは思っていない。
彼だって、成人も迎えていないような小娘を妻に迎えるなど、政治的な理由がなければお断りだと思っているかもしれない。
けれど、断れない立場のルイーズとしては、恨み言の一つでも言ってしまいたくなるのは仕方ないだろう。
「お妃様もお子様も、もういらっしゃる。それなのに、今更婚姻なんて……」
「……申し訳ありません。その件に関しては、私が意見を申し上げるのは憚られます」
アルクに向かって言ったわけではないが、ぽつりと唇から零れ出たルイーズの言葉に、隣に浅く腰掛けていた彼は困ったように頭を下げた。
なんとも腰の低い騎士である。しかし、けして弱々しいわけではない。
昼間彼に湖から抱き上げられたルイーズは、その腕の逞しさを知っているし、公国への贈り物を一人で任されるほど王太子の信頼もあついことを思うと、騎士としての腕も相当なのだろう。
彼の旋毛を眺めるのはもう二度目だな、と思いながら、ルイーズは実直で穏やかなアルクにはとても好感が持てた。
「アルク、ごめんなさい。あなたを困らせたかったわけではないの」
ルイーズがそう謝って、悪戯に目の前の旋毛をちょんと指先で突つくと、彼は若草色の瞳をまんまるにして、弾かれたように顔を上げた。
その様子がやっと年相応の少年に見えて、何だか楽しくなったルイーズの顔に、明るい笑みがふわりと戻ってくる。
すると、こちらも恥じらいが戻ってきたらしいアルクは、僅かに目を泳がせて顔を伏せた。
ルイーズとアルクが腰掛けた噴水の水たまりにも、睡蓮が植えられていた。
ロシナンテはまだそこに鼻先を突っ込んでいる。
彼は、口元に漂って来た睡蓮の葉をもしゃりとかじりかけたが、どうにもその味がお気に召さなかったらしく、上唇を裏返して不機嫌そうに歯をむき、ペッとそれを吐き出した。
それから、びしょ濡れになった顔をぶるんぶるんと振って水しぶきを飛ばし、その被害を受けたルイーズに「こらっ」と叱られた。
「こちらの睡蓮は、まだ咲かないのですね」
湖の睡蓮とは違う種類なのか、こちらはまだ蕾の気配さえない。
アルクにそう言われて水面を眺めたルイーズは、少し寂しげな笑みを浮かべた。
「そうね。でも、湖で見れたから、もういいの」
ルイーズは、もういつでも祖国を出る準備ができていた。
明日の王太子の訪問は、実質自分の迎えだと思っている。
父や兄にもそれ相応の覚悟はしておきなさいと、既にひと月前より言い聞かされていた。
毎年この時期になると、水辺のあちこちで咲く睡蓮の花を楽しみにしていたが、もう見ることもないかもしれない。
それはやはり寂しいことだが、隣の少年騎士が気遣わしげにしているのに気付き、沈んだ顔を見せるのが嫌で、ルイーズはぱっと勢いをつけて立ち上がった。
「殿下は、明日いつ頃いらっしゃるのかしら?」
「早朝に城を出る予定でいらっしゃいます。正午を回った頃には、到着なさるのではないかと」
「そう。じゃあ、アルク。朝食は私と一緒に食べましょう」
「えっ……?」
そんな、自分のようないち臣下が恐れ多い——と、断ろうとしたアルクの返事も聞かず、ルイーズは軽やかにワンピースの裾をはためかせ、「朝、侍従を迎えによこすわ」と言い残して駆けて行ってしまった。
「……」
呆然と見送るアルクに近寄ってきたロシナンテは、そんな彼の服の袖に鼻面を擦り付けた。
濡れた鼻面を拭くタオル代わりに使われたわけではなく、どうやらロシナンテなりに親愛を表現したかったようだ。
ふんっ、と鼻息を吹きかけて、戸惑う少年の亜麻色の前髪を揺らす。
最後に、まだびちゃびちゃに湿った口を、「ぶっちゅうっ!」とアルクの頬へと押し当た。
そうして、びくんと仰け反り怯んだ彼を残すと、ロシナンテはルイーズの後を追うように、ぽくぽく庭の奥へと歩いて行ってしまった。
そのすぐ後に噴水の前を通りかかったのは、昼間門番をしていたホルン爺さんだった。
彼は、あちこちぐっしょり湿った様子のアルクを見つけると、
「おお、おお。騎士殿は、ほんに水がお好きじゃのぉ」
と、朗らかに笑った。