アルク
城までは、すぐの距離だった。
黒毛の雄々しいアルクの愛馬の名は、クシカと言う。
彼は大人しく従順で、ぽくぽくと暢気に歩くルイーズのロバに歩調を合わせ、二頭は並んでゆっくりと進んだ。
森が終わると、そのすぐ向こうに城門が見えた。
二人が近付いていくと、門の脇に腰をかけ暢気にキセルをふかしていた門番の爺は、「おお、ルル様、おかえりなさいませ」とにこやかに立ち上がった。
それから、ルイーズの背後で馬から降り立った騎士に、「おや」と首を傾げる。
「そちら様は、見ない顔だねぇ。水もしたたるいい男じゃの。いやあ、男を連れて帰って来なさるったあ、ルル様も大きゅうなられましたわい」
「ホルンったら、そんなわけないでしょ! ヴァルキュリアの使いの方よ」
「ほう、そういえば。明日に先駆けてお一方いらっしゃると、ご通達があったようななかったような……」
はて? と首を傾げる門番ホルン爺に、ルイーズは「もお~、しっかりしてよ」と溜め息を吐きつつ、後ろのアルクを振り返った。
「ごめんなさい。ちゃんとおもてなしするように、侍従長に言うわ」
「いいえ、私のことはどうぞお構いなく」
そうこうしている内に、リュセット公家の年老いた侍従長が、城内からぽっくりぽっくり暢気にやってきた。
彼はルイーズに「おかえりなさいませ」と告げ、それから彼女の背後のアルクへと深々と頭を垂れる。
「ようこそお越し下さいました。うちの姫様とご一緒でそのお姿……事情は薄々お察し致します」
何やらルイーズにとっては微妙に失礼な文句を並べると、「それって、どういう意味?」と頬を膨らませる彼女に対し、侍従長は「ええ、そのままの意味でございますよ」と微笑んでみせた。
「それより、ルル様。皇太子妃殿下が探しておいででしたよ。明日の為のドレス合わせの予定であったのにルル様がいらっしゃらないと、たいそうご立腹のご様子で」
「あー……そうね」
ルイーズはうんざりというような溜め息を吐き、アルクに「じゃあね」とだけ声を掛けると、とぼとぼと城の方に向かって歩き始めた。
彼女の愛ロバ・ロシナンテはというと、城の入り口で主人を見送り、その後は心得たように自らぽくぽくと庭の方へ歩いて行ってしまった。
「では、騎士様、どうぞこちらへ。ああ、馬はお預かりしますね」
「はい、よろしくお願いします」
ルイーズと入れ替わってやってきた侍従らしき男が、「いやぁ、いい馬ですな」と感心したようにその首を撫で、手綱を預かった。
アルクは愛馬クシカの背から積み荷を下ろし、持ちましょうと言う年老いた侍従長の申し出を、「いえ、これは自分が」と丁重に断った。
その間に、クシカの手綱を持った侍従は厩舎へ導いて歩き始め、途中のんびり歩いていたロシナンテに追いつき、彼の手綱も一緒に持って、二頭共を庭の向こうへと連れて行った。
――その時だった。
今の今まで晴れ渡っていた空に急に雨雲がどよめき出し、ざあっと雨が降り始めたのだ。
天気の急転に、アルクは軽く目を見張った。
「やっぱり、ルル様の言う通りだったわね」
「すぐに洗濯物を取り込んで、よかったわ」
そんな彼を尻目に、すれ違う城の者たちは突然の雨に全く驚いた様子もなかった。
ずぶ濡れのアルクの姿を気の毒がった侍従長は、すぐに彼を客室に案内した。
着替えと湯を勧められ、アルクは最初湯の方は丁重に断ろうとした。
しかし、自分の祖母ほどの年頃の女性に「リュセットを訪ねて風邪を召されでもすれば、あなた様のお母様になんとも申し開きできませんわ」と、温かな微笑みで懇願されて、逆らうことができなかった。
彼女は、リュセット公家の侍女を束ねる侍女頭だそうだ。
湯から上がって着替えると、居間には温かいお茶と軽食が用意されていて、侍女頭自らがアルクの為にポットからお茶を注いだ。
「替えのお召し物はぴったりのようで、ようございましたわ。ただ、ブーツは渇くまで少々かかりますわねぇ」
「すみません」
「いいえ。公からお声が掛かるまで、どうぞお茶でも飲んでゆっくりなさいませ」
「……ありがとうございます」
実はアルクは、リュセット公国の城であまりに温かくもてなされることに、少々面食らっていた。
何故なら、この度のルイーズ公女への求婚については、ヴァルキュリア側であるアルクから見ても、いささか不躾感が過ぎると思っていたからだ。
小国とはいえ独立国であるリュセットの、大切な大切なたった一人のお姫様を、あろうことか年の離れた王子の第三夫人にしようというのだ。
婚姻を結んだ順番といえども、しかし第一・第二夫人は自国の臣下の娘であるのに、一国の公女をそれより下位に据えようとは、まるで属国に対する扱いのように見える。
公家と国民の結束が固いリュセットにとって、そんな失礼な要求をする隣国の使いは歓迎したくはないだろうし、当人であるルイーズ公女もさぞ不満と不安を抱えているだろうと思っていた。
だからこそ、湖の中に入っていく彼女を見付けた時、まだ成人も迎えていない姫をそこまで思い詰めさせたのかと、ヴァルキュリアの人間としてひどく心が痛んだのだ。
けれど、慌てて岸に引き上げた彼女はきょとんとするばかりで、アルクは自分が勝手な勘違いをして一人うろたえていたことに気付く。
公女には、望まぬ政略結婚を悲観したような影はなく、ただ全てを受け入れた穏やかさがあった。
それは、おそらく立場上この度の事情を知らされているであろう、侍従長や侍女頭ら公家に最も近く仕える人々も同じ。
隣国からの正統な使者として、上辺だけなら丁寧な対応を受けるだろうとはアルクも予想はしていたが、これほど含みもない温かいもてなしを受けるとは思わなかった。
アルクがお茶を飲み干し落ち着いた頃、ようやくリュセット公国の君主であるアドバーグ三世から声が掛かった。
謁見の用意ができるまでアルクが待たされたというよりは、彼が一息つくのを公家側が待ってくれていたのではなかろうか。
アドバーグ三世は、娘のブロンドよりはアルクの亜麻色に近い濃い金髪に、グレイの瞳をした優しそうな面持ちの紳士だった。
その脇には、ルイーズの兄でありリュセットの次代となるクリス皇太子と、その妻ユミル皇太子妃が並んでいる。
クリスは父公によく似た面影の、実に穏やかそうな青年であり、ユミルは彼の幼馴染みであり従姉にあたる。
そして、リュセット公を挟んで皇太子夫妻と反対側には、先ほどアルクと城門で別れた公女ルイーズが立っていた。
おさげにしていたブロンドは解かれ、癖のない真っ直ぐなそれが光の束のようにキラキラと輝き、華奢な肩の上を流れている。
質素なエプロンドレスは、可憐で上品なワンピースドレスに代わり、妖精のように儚気な正真正銘のお姫様へと変身を遂げていた。
とても、スカートの裾を捲し上げて湖にザブザブ入っていくような、大胆な少女と同一人物には見えない。
リュセット公は片膝をついて頭を垂れたアルクに、とても優しい声で「楽にしなさい」と告げ、彼の名乗りを許した。
「お目にかかれて光栄です。アルク・シヴ・エリヴェールと申します」
「エリヴェールは、ヴァルキュリアで最も王族に近しい公爵家だな。確か、宰相殿がエリヴェールの現在の当主であったと思うが」
「はい、私はエリヴェール公爵家の末子です」
「そうか。君には何やら娘が迷惑をかけたようだね。すまなかったな」
「いいえ……私の方こそ、愚かな勘違いで、公女殿下を煩わせてしまいました」
まだどこか幼さを残す騎士の実直な態度に、リュセット公は好ましげに目を細めて頷いた。
そうして、アルクは先ほどのもてなしの礼を丁寧に述べてから、主である王太子からの贈り物を献上する。
受け取ったそれにさっと目を通したリュセット公は、何やら一瞬苦笑めいたものを浮かべると、使者たるアルクの労をねぎらった。
――実を言うと、ヴァルキュリア王太子ノエルとリュセット公女ルイーズの婚姻は、正式にはまだ確定はしていなかった。
確かに、一月前のヴァルキュリアからの使者は、婚姻の要請を記した書状をもたらしたが、すぐに返事をせよとは言わなかったのだ。
日を置いてノエル自らが伺う旨と、その際有益な話し合いの元に双方納得した上で、是非いい返事をいただきたいとのことだった。
最終的には、リュセットはかの国の要求をのむことになるだろう。
しかし、何やら含みを持たせた書状の内容に、リュセットの君主もその息子である皇太子も幾らか心当たりがあったのか、その時当人であるルイーズには婚姻の要請の事実だけ告げ、あとはずっと口を噤んでいたのだ。
リュセット公アドバーグ三世は、アルクにゆっくり寛ぐように声を掛けてから退室させた。
始終口を閉じて、父公の横でお人形のように大人しくしていたルイーズにも、部屋に戻るように命じた。
後に残った皇太子ノエルと皇太子妃ユミルは、深く溜め息を吐いて椅子にもたれ掛かった父公に、気遣わしげに寄り添う。
「何があっても、何を知っても、ルイーズは私の可愛い娘だ」
「ええもちろん、父上。そして、私の自慢の妹です」
「リュセット皆の、大事なお姫様ですわ」
息子は父の肩をそっと抱き、その妻は彼の手を優しく握った。