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ルル



「ロシナンテ、ここで休んでて」

 湖に到着すると、ルイーズはロバの背中からひらりと飛び降り、むしゃむしゃと若草を食み始めた彼を残して岸に近付いた。

 澄んだ湖はまるでよく磨かれた鏡のように、周囲の景色をそのまま逆さに映し出し、あたりはしんと静まり返っていた。

 いや、耳をこらせば、風がささやかに木の葉を揺らす音や、小さな虫がキリキリと鳴く音が聞こえる。

 ルイーズの予想通り、睡蓮が見事に花開き、湖の中央に集まって鮮やかで上品な姿を見せていた。

「……ふう」

 ルイーズは岸辺に腰を下ろし、靴を脱いで水の中に素足を浸した。

 冷たさがじんわりと肌に染み入り、微かな身震いが身体を這い上がって来るが、構うことなくそのままでいた。

 そうして、深い深い溜め息を一つ吐くと、ルイーズは後ろに手を付いて上体を支え、首を仰け反らせて空を見上げた。


 牛飼いの爺さん達の噂通り、ルイーズにはこの度、隣国ヴァルキュリアから婚姻の申し出があった。

 ひと月前の使者が持って来た書状には、彼女を是非王太子ノエル・エディーラ・ヴァルキュリアの第三夫人に迎えたいと書かれていた。

 そう、第三夫人だ。

 既に齢三十を迎える隣国の王太子には二人の妻がいて、しかもそれぞれに男子をもうけている。

 つまり、ルイーズが彼に嫁ぎ子を成したとしても、その子が次代の王太子になれる確立は非常に低い。

 更に、リュセットとヴァルキュリアの国力の差は、比べるまでもなく歴然としている。

 ヴァルキュリアが気まぐれを起こしただけで、リュセットはかの国に容易く飲み込まれてしまうであろう。

 この度の婚姻の要請は、大国が矮小国に求める揺るぎなき隷属の確認であり、ルイーズは所詮人質に過ぎないように見えた。

 しかし、どれだけ理不尽と思えども、その要求をはね除けるだけの力は、残念ながらリュセットにはないのだ。

 それを証拠に、父であるリュセット公アドバーグ三世は、ルイーズにヴァルキュリアの申し出を受けるか否か、問うことさえしなかった。

 それはもはや、個人の意志など関わることのできない、両国間の政治的な取引であるのだ。

 そして、明日。

 王城にやってくるのは、婚姻を申し込んだ王太子本人なのだという。

 

 当のルイーズはというと、この度の婚姻にさほどの感慨も抱いてはいなかった。

 美形と名高い、夫となる王太子の容姿にも興味はない。

 一国の君主の家に生まれた以上、意に添わぬ婚姻など覚悟の上であり、自分の身一つで愛する家族や国民が平和を得られるならば安いものだと思っている。

 ただ、兄である皇太子夫婦の仲睦まじさをいつも身近で見てきたので、彼らのような愛情溢れる家庭を持ちたいと思っていたルイーズは、結婚相手が既に二つも家庭を持っていたことには、さすがにがっかりした。

 はじまりは、政略結婚でも何でもいい。

 それでもせっかく夫婦になるのだから、いずれは相手を愛したいと思うし、愛されたいとも思う。

 けれど、三番目に嫁いだ自分がそれを望むことは、先の二人の妃達に対して厚かましいような気もするし、もしもルイーズの愛情に王太子が応え過ぎれば、それはそれで不穏な状況になりそうな気がする。

 もうこれは大国様へのご奉公と諦め、夢は捨てるしかないかな……と思いつつも、やはり溜め息の一つくらい吐かずにはいられなかった。

 その時、さわりと風が吹いて、ルイーズのおさげを揺らし頬を撫で、湖の上に波紋をこしらえながら、その中央に集まった睡蓮の花びらを揺らした。

 途端、まあるく大きく花びらを開いたそれは、くるくるくるくる回りだし、まるで水面をダンスしているように見えた。

 それはかくも美しく、憂いも忘れてもっと間近で見たいと願ったルイーズは、白いフリルのエプロンだけを脱いで、スカートを腿まで捲し上げ、ザブザブと湖の中に入って行った。

 居城は、すぐ近くである。

 湖に入ったことを知れば、父や兄はともかくとして、母のような義姉と乳母はたいそう怒るだろうが、いつものことだ。

 どうせ城に帰ったら着替えさせられるのだし、ちょっとくらいスカートの裾が濡れたとしても構わないだろう。

 背後で草を食んでいたロシナンテが、ぶひっと鼻を鳴らしたのに振り返り、ルイーズは「平気よ、ちょっとくらい」と片手を振った。

 しかしながら、湖は中央に近付くほどだんだんと深くなる。

 スカートを捲し上げるのも、そろそろ限界がきた。

 もう既に、太ももまで水に浸かっているし、下着が濡れるのも時間の問題だろう。

 睡蓮の花まではまだまだ遠く、いっぱいに手を伸ばしても届きそうにない。

 もういっそ、頭から水に飛び込んでやろうかしらと、ルイーズが大胆なことを考え始めた時、背後でヒヒンと馬の嘶く声が聞こえた。

 続いて

「――何をしているっ!!」

 突如鋭い声が響いたかと思うと、ザブザブと乱暴に水を掻き分けて近付いて来る音が聞こえた。

 一体何事かと立ち止まって、きょとんと振り返ったルイーズの二の腕を、力強い手がぐっと掴む。

 そして、彼女が瞳をぱちくりしている間に、もう片方の腕がぐるりと腰に回されて、ザバリと水しぶきと共に抱き上げられた。

 ルイーズはわけも分からぬまま、ぐらりと傾いだ我が身を支える為に、咄嗟に目の前にあった亜麻色の頭にしがみつく。

 それに対して相手は何も言わず、ただ逞しい片腕でルイーズを抱き上げたまま、また水をザブザブいわせながら岸辺の方へと戻って行った。

 そして、丁寧な仕草で彼女を地面に下ろすと、ふっと小さく溜め息を吐いた。

「……」

 柔らかな草の上に座ったまま、ルイーズは湖から上がってきた相手を見上げた。

 短く切りそろえた亜麻色の髪に、若葉のような明るい緑色の瞳をした男だった。

 青年というにはまだどこか幼さが感じられる容貌に、年の頃はルイーズより少しばかり上だろうかと考える。

 騎士服に包まれたその身は一見細身だが、先ほど水に濡れたルイーズを軽々と片手で抱き上げたことを思うと、その下には鍛えられた筋肉が隠されているのだろう。

 彼はびしょ濡れのブーツを構うこともなく、ルイーズの前に片膝をついて頭を垂れた。

「リュセット公国のルイーズ公女殿下とお見受けします」

 落ち着いた低い声で問いかけられ、ルイーズはまだ呆然としながらも、彼の言葉に頷きを返す。

「お許しなく御身に触れた無礼、如何なる罰もいただきます。ですが、どうか早まらないで下さい」

「……早まる?」

「突然の婚姻に戸惑われるお気持ちも、他国に嫁がれる不安もお察ししますが、大事なお命を粗末にしてはなりません」

「……え?」

 真剣な面持ちで語られる言葉に、ルイーズはきょとんと首を傾げた。

 そうして、どうやら相手は、彼女が湖で入水自殺を図ったと勘違いしていることに気付いたのだった。

 しかし、彼が勘違いをしてしまったのも無理はない。

 リュセットの妖精のように愛らしいと評判の公女様が、睡蓮の花を側で見たいがためだけに、足を濡らして湖に入り込むほど好奇心旺盛とは知らないだろうし、実は泳ぎが大の得意で、衣服を身に着けたままでも難なく泳げるとも知りはしないだろう。

 明らかな政略結婚を悲観した小さな姫が、思いあまって湖にその身を捧げようとしていると、その光景を目の当たりにした彼はそれはそれは焦ったに違いない。

 ルイーズは慌てて首を横に振り、「そんなことしないわっ!」と否定する。

 騎士服の少年は戸惑ったように瞳を瞬き、それから「申し訳ございません」と小さく言って頭を下げた。

 目の前に突き出された旋毛を見つめつつ、自分のお転婆がこの生真面目そうな騎士を慌てさせたのかと思うと、ルイーズは段々と愉快な気持ちになってきた。

 ルイーズ自身はスカートの裾をぎりぎりまで捲り上げていたので、衣服は僅かにしか濡れてはいなかったが、慌てて湖に飛び込んだ少年の方は、ズボンもマントもずぶ濡れで、ブーツの中は浸水してひどい有様だろう。

 ルイーズはくすりと笑うと、頭を垂れたままの相手の肩をぽんぽんと叩き、「いいの。私のほうこそ、驚かせてしまってごめんなさい」と告げた。


「ところで、あなたはこの国の者ではないわね。ヴァルキュリアの方?」

 ルイーズが皺になったスカートの裾を払いつつ立ち上がると、少年はまだ跪いたまま「はい」と答えた。

「私は、ヴァルキュリア王太子殿下に仕える、アルク・シヴ・エリヴェールと申します」

「……王太子殿下がいらっしゃるのは、明日ではなかったかしら?」

「はい。ですが私は一足先に、公女殿下への贈り物を献上する役目を仰せつかりました」

 そっと視線を背後に向けると、ルイーズの相棒ロシナンテの隣で、真っ黒い大きな馬が仲良く草を食べていた。

 その背には上等な鞍と、確かに何か荷物も積まれている。

「そう……、とにかく、私のせいで貴方をびしょ濡れにしてしまって、申し訳なかったわ。早く城に行って着替えなくちゃ」

「いいえ、殿下が気に病まれることは何も……」

「ううん、冷えて風邪を引いては大変。それに――」

 ルイーズは少年に立つように促し、それに従順に従った彼の背の高さに驚きながら、見上げた視線をそのまま空へと高く上らせた。

「もうすぐ、雨が来るわ」

 ルイーズの言葉に、彼女に倣って空を見上げた少年――アルクは、雨雲の気配もない様子に僅かに戸惑いを見せたが、ただ「はい」とだけ頷き、相棒に向かって歩き出す小さな背中を静かに目で追った。



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