リュセット公国
澄み渡った空はどこまでも高く、茂る草木の青い香りは静かな平穏に色を添える。
歩けば、足が踏み締めるのは柔らかな草と、豊穣な恵みをもたらす大地である。
そこに住まう人々は自然の与える恵みに感謝し、田畑を耕し牛を追う。
寒さに凍えず食うに困らぬ日常に幸せを噛み締め、けして争わず慎ましく、笑顔を絶やさぬ彼らの国の名を、リュセットという。
大国に隠れるように存在する小さな小さなその国には、それはそれは愛らしいお姫様がいた。
「こんにちは、いいお天気ね」
芝草を食む牛達を見守りながら、木陰でキセルをふかせて休憩していた爺達に、鈴の転がるような愛らしい声が掛けられた。
「おお、これはルル様、こんにちは」
「ほんに、気持ちのいい日でございますなあ」
透き通るようなブロンドの髪をおさげにして、艶やかな長い睫毛の下から覗く瞳は、澄んだ泉のように透明感のある水の色。
町娘のように質素なエプロンドレスを身に纏っているが、彼女こそがこのリュセット公国の公女、ルイーズ・シータ・リュセットである。
先日十四歳になったばかりの公女には、既に伴侶を迎えた年の離れた兄と、民に慕われる君主である父がいる。
母を病で早くに亡くした彼女を父と兄はたいそう慈しんで育て、明るく快活に成長した姫は、国民の間でも「ルル姫」と愛称で呼ばれるほど、とても愛されている。
城に続く街道を歩いて来たルイーズの足下はポコポコと音を立て、均された土の道を踏み締めた。
いや、踏み締めたのは彼女の足ではない。彼女が跨がっている暢気な顔をしたロバ、ロシナンテの蹄だった。
ルイーズは愛ロバの太い首筋をよしよしと撫で、ふと何かに呼ばれたように空を振り仰いだ。
そして、しばらくじっとどこかを眺めていたかと思うと、黙って見守っていた牛飼いの爺さん達に向き直って言った。
「夕刻までに、一雨くるかもしれないわ。今日は早めに放牧を切り上げて、家に戻ってね」
「おお、それは気をつけなくては。お産を控えた牛がいるのです。雨に濡らしては大変だ」
「そうじゃ、そうじゃ。ルル様にお会い出来て助かったわい」
彼らはルイーズの言葉に腰を上げ、あと半刻ほどしたら牛を厩舎に戻そうと頷き合った。
ルイーズは幼い頃から時々、こうしてささやかな天気の移り変わりを敏感に感じ取り、ぽつりと告げることがあった。
それがまた毎回必ず当たるので、人々は予言というほど騒ぎ立てたりはしないものの、日常生活の上でおおいに参考にしている。
「ルル様は、城へお帰りかの?」
「うん、この先の湖に寄ってからね。睡蓮の花がそろそろ咲きそうなの」
「そうでございますか。しかし、ルル様も雨に合われない内にお帰り下さいよ」
「この季節の雨は冷とうございますぞ。風邪をひかれては大変じゃ」
「うん、わかった。ありがとう」
口々に早く帰れと諭す爺達ににこりと微笑んで、ルイーズはロシナンテを促して森に向かって歩き始めた。
森を抜けたすぐ向こうが王城だが、途中に大きな美しい湖があって、確かに毎年この時期は睡蓮が見事な花を付けるのだ。
空にはまだ、雨雲の気配は微塵もなかった。
牛飼いの爺達はキセルをふかしつつ、ポクポクと遠ざかって行くロバの上の小さな背中を見送り、ほうっと溜め息を吐いた。
「ルル様……ちぃと、いつもの元気がなかったように思わんか?」
「だなあ。やっぱり、あの噂は本当なのかのぉ……」
ひと月前、王城に続くこの街道を、隣接する大国ヴァルキュリアの使者が通った。
噂では、リュセットの公女であるルイーズと、かの国の王太子の婚姻が囁かれている。
そして明日、再びこの街道をヴァルキュリアからの客人が通ると、城から民達に通告があった。
別段、街道に並んで花道を作れだの、跪いてお出迎えしろだのという要請があったわけではない。
せいぜい「馬糞や牛糞は、できるだけ真ん中には落とさないでね」程度のお願いだったが、明日お通りになる客人が、どうやら隣国のやんごとなき身分の方であることは、人々にも予想ができた。
「ルル様、ヴァルキュリアに持っていかれてしまうのかのぉ」
「あんな大きな国のお城で、苛められたりはしないかのぉ」
「心配じゃのぉ、心配じゃのぉ」と、白くなり始めた眉を八の字にして溜め息を吐き合う爺達の後ろを、その時大きな黒い馬が一頭通り過ぎた。
小さなリュセットでは国民のほとんどが顔見知りで、見たこともない人物が街道を通ればよそ者とすぐに分かるのだが、この時牛飼いの爺さん達は親愛なる姫君の行く末を憂うのに忙しくて、全く気付きはしなかった。