山路
山城吾郎は、愛犬のタロと共に、自宅からほど近い山を訪れていた。
山といっても標高は二百メートル程度、比較的歩きやすい路はノロノロと登ることが出来るので、丘と言い表した方がいいのかもしれない。
タロのお気に入りの散歩コースだった。
昨年に定年を迎えた山城は、タロとの散歩を日課にしていた。それまでも夜の散歩は時々仕事終わりにしていたが、時間をたっぷりと取れるようになった今、タロの散歩は山城の担当となっていた。タロの求めるままに歩く内、散歩コースはどんどんと伸びている。
──こいつは、ストイックな犬なんだ。
山城が内心で忍び笑うのに気が付いたように、タロがくるりと顔を向けると、笑顔を浮かべた。
その愛らしさに思わず頭を撫でていると、嬉しそうに尻尾を振っていたタロが、突然路の先を見て、怯えたように小さく鳴いた。
山城の足元に体を付け、じっと路の先を見つめている。
この様子では、ただの獣ではない。タロは猪や何かの野生動物が茂みの中に居る時は、激しく吠え立て追い払おうとする。しかし、今はすっかり怯えて僅かに震えてさえいた。普段はくるりと丸まった愛らしい尻尾も、へにゃりと地についている。
「タロ、熊か?」
答えが返っては来ないと理解していながらも、山城は訊いた。
この山に熊はいない筈だが、最近は山を移動して生息地を広げていると聞く。
大人しく下山した方がいいかもしれない。そう山城が思った時、ぶるぶると震えていたタロが、堪え切れなくなったようにパッと駆け出し、山を下り始めた。
「タ、タロ……!」
タロはぐいぐいとリードを引っ張り下りていこうとする。山城を振り返り、何をしているんだ、とばかりにうーうーと唸る。
山城は、タロに引かれるようにして山を下り始めた。
タロは一向に落ち着く気配がなかった。完全に正気を失ったようにぐいぐいとリードを引っ張っていく。はぁはぁと荒い息を吐き、少しの物音でも大袈裟に驚く。
──どうしたんだ、タロ。
本当に、熊だったら。山城は念の為に熊鈴を付けてはいるが、もし目の前に熊が現れたら。後ろから襲い掛かられたら。ひとたまりもないだろう。
ヒヤリ、と胸の内を冷たいものが流れた。
──帰らなければ。せめて、人通りのある所まで早く辿り着かねば。
山城の足はタロに引かれるように速くなる。
ただの一本道を引き返す。
しかし、それさえも困難になってしまった。──霧だ。
突然湧いた霧が、山城の周りを包み込んだ。タロの姿さえぼんやりとしか見えない。
ふと、先を急いでいた筈のタロが、足を止めた。くるりと道を戻り、山城の足に縋りつくように飛び跳ねる。きゅうきゅう鳴いて、助けを求めていた。
「タロ、お前……仕方のない奴だな」
山城はタロを抱え上げた。ずっしりと重いその体は、ぶるぶると震えて山城にしがみ付いている。
安心させるようにその背を撫でると、不思議と山城の方が落ち着いてくるような気がしてきた。ほんのり温かい体と、ぶるぶると震え助けを求める姿に、山城は自身の恐怖を押しやった。
「大丈夫だ。お父ちゃんが一緒に居るからな」
タロの震える体を抱きしめ、山城は霧に包まれる路を見やった。
──どうするべきか。
霧に包まれているとはいえ、一本道だ。足元の張りだした根っこや岩に気を付ければ、道に迷うということはない。しかし、視界が悪い中で無暗に歩き回る、というのも危険である。
暫し考え込む山城の耳に、ガサリという茂みを揺らす音が聞こえてきた。何か大きな生き物が、のそのそと歩み寄って来ているような音だった。もしかしたら、本当に熊かもしれない。
山城は、すぐに路を下り始めた。
危険度を比べれば、まだ視界の悪い一本道の方が安全に思える。
タロ、大丈夫だ。と繰り返し言いながら、山城は道を下って行った。
熊鈴が響く。
リンリンリンリンリン、リンッリーン……。
ガサガサと茂みを揺らす音は、追い掛けては来ていない気がした。
山城は足を止め、耳を澄ませた。タロのはぁはぁという荒い息が耳元で聞こえている。木の葉の擦れる音。濃い霧の湿った空気の音。──何か生き物の立てる音はしない。
ホッと息を吐いた山城は、腕の痺れに気が付いた。十キロを超えるタロの体を抱えたままの下山は、どうにも腕にも腰にも負担がかかっていた。
山城はそっとタロを地面に下ろした。
「悪い、タロ。お父ちゃん腰が痛くなっちまった。自分で歩いてくれ」
タロは辺りをきょろきょろと不安そうに見やってから、ぴたりと山城の足元に体を寄せた。
「行こうか。多分、あとちょっとだ」
山城は、山の半分を越えた辺りから引き返していた。霧のせいで普段より時間が掛かるとはいえ、もう山の三分の一くらいの位置にまで下りているだろう。
視界が悪いせいで景色から判断することは出来ないが、きっとそうだ、と自身に言い聞かせる。
タロは、少しだけ元気を取り戻したようで、トコトコと歩き始めている。時折不安そうに山城を振り返る姿に「大丈夫だ」と語り掛ける。
しかし、山城の予想通りに事は進まなかった。
何処まで行っても山路の入り口に辿り着かなかった。そこまで行けば、車道もあるし、人家も見えてくる。しかし、いつまで経っても山路が続いている。
タロも時折足を止め、困惑したようにうろうろとし始める。
──やっぱり、霧が晴れるまで待った方がよかったか。
まさか、通い慣れた一本道で迷う筈がない。その驕りが、知らぬ間に道なき道を選ばせた。
救助を呼ぶか、そう考えた山城は頭を振った。こんな小さな山で助けを呼ぶなんて、近所に知れたら笑い種だ。どうせ、霧がずっとある訳がないのだから、暫くじっと耐え、視界が良くなってから自分の位置を確認して、正しい路を行けばいい。
山城は丁度張り出した岩に腰掛けた。タロは不安そうにしながらも山城の横に腰を下ろした。時折耳を動かし、鼻を鳴らす。
どのくらいで霧は晴れるだろうか。昼食迄には家に帰りたい。
山城の心配をよそに、三十分もしない内に突然霧は引き始めた。さぁっと風の音がする。
ホッと息を吐いた山城は、立ち上がり、空を見上げようとしたところで、自身の目を疑った。
──コンパスが倒れてる。
円を描いたりする時に使うコンパスが、景色の中で横向きにくの字になって倒れている。それが目の前にあるのではなく、随分と巨大なのだと気が付くのに時間が掛かった。目のピントが合わず、何度か目を瞬いて、その全体像を凝視する。
よく見れば、それはコンパスではなかった。くの字に折れた何か。コンパスのような何か。
倒木や、人工物ではない。だが、確実に自然物ではない。
それが、突然「あ」とも「お」とも捉えられない奇妙な音を立てた。
ゾワリ、と肌が粟立つ。
山城はゆっくりと後退した。
タロと繋がるリードがピンと張る。タロは〝それ〟を見上げたまま動かなかった。震えても居なかった。全ての動きを止めていた。
パキッという音がして、コンパスの先端が折れた。その先端が、まるで拡大鏡を覗いたように大きく、迫り出してくる。
山城の中に、恐怖が膨れ上がった。身がすくむ。必死に力を込めた手の中で、リードが擦れる。
タロ、タロ。頭の中で呪文のように何度も繰り返す。
──動け、タロ。タロ、タロ……。
山城は、ぐっと歯を噛み締め、タロの許まで歩み寄ると、その体を抱え上げた。
手や服がぐっしょりとタロの漏らした尿で濡れた。構わず、駆け出そうとしたところで息を飲んだ。
コンパスが、ゆっくりと近付いて来ている。
周りの風景から浮き出たそれは、しかし、妙に馴染んで頭を混乱させる。
「あ」とも「お」とも捉えられない音が繰り返される。
わ、わ、わ、と呻いた山城は、タロを抱えたまま駆け出した。
正しい路なんて考える余裕もなかった。ただ、駆ける。
何かよく判らないものから遠ざかる為に、駆ける。
これなら熊の方がマシだった。いや本当にそうだろうか。なんだアレは。
様々な考えが脳裏を過ぎり、こんがらがって消えていく。
──逃げろ、逃げろ。タロ、タロ。タロ。
その時、脚が縺れて山城は盛大に転んだ。タロの体がポーンと宙を飛ぶ。
「タロ!」
タロはどさりとぬかるんだ地面に落ちたが、ゆっくりと体を起こした。急に狂ったようにワンワンワンと吠え始め、その場でぐるぐると回り始める。
「タロ、どうした。タロ!」
山城の声にも反応せず、ぐるぐると回る。
タロ、タロ、と呼びながらタロを捕まえようとする山城の手から、タロは逃げ続ける。
ふいに、タロがひゃーっという声を上げた。
あまりの声に、山城は手を止め、ハッと後ろを振り返った。
──コンパスだ……!
コンパスが増えていた。妙に大きいコンパス達が、まるで様子を伺うようにくの字に景色の中で浮いていた。パキッと音を立てるコンパスの先端が、ゆっくりと迫って来る。
「タロ、逃げろ。タロタロタロ」
山城は、堪え切れず声を上げ、リードを引いた。タロの体はびくともしなかった。その体を手で押し、最早叩くようにしてもう一度押した。
再びひゃーっと声を上げたタロが、転がるように駆け出した。
ひゃーっひゃーっという音が遠ざかっていく。
「逃げろ逃げろタロタロタロ」
山城は転がりながら、必死にタロの後を追った。
ひゃーっという声を追う。後ろを振り返ることは出来なかった。
ただ、タロのことを考えながら声を追った。
突然、パーッというけたたましい音が響き渡った。
ハッと目を瞬いた山城は、気が付けば車道に立っていた。
目の前に、泥だらけのタロが、困惑したように座っていた。
「ちょ、ちょっとアンタ、山城さん⁉」
聞き覚えのある声が言う。
山城は、声のした方を緩慢な動きで振り返った。隣人である稲崎の奥さんが、車から降りて来て、驚いたように目を見張っていた。慌ててスマートフォンを取り出し、電話を掛け始める。
その様子をぼんやりと見やりながら、山城は自身が下って来た道を振り返った。
【山路入口】
木で作られた、半分朽ちかけの看板が道の端に立っていた。
路は合っていた。
「タロ」
山城の声に、タロが歩いて来るとそっとその身を寄せた。
そこから数日間の山城の記憶は定かではない。
あれこれと訊かれるのに答え、疲れて眠ってしまうのを繰り返すうちに時は過ぎた。
散歩に出てから実に三日が経っていた。
家族はその日の内に捜索願を出したのだが、山城とタロを見つけ出すことが出来ず、最悪の事態を覚悟していた。
そんな時、泥やら何やらで全身汚れた山城とタロが、突然車道に飛び出して来た所を、隣人の稲崎の奥さんが車で轢きそうになった。
その話は、あっという間に近隣に知れ渡った。
最初こそ、心配の声が多かったものの、時間が経てばその安心感もあって笑い話へと変じていく。
山城はそれに適当に話を合わせ、笑って忘れようとした。
しかし、いつまで経っても山での出来事を忘れることは出来なかった。
あのコンパスのようなものは何だったのか。
考えても、判らない。
タロに問うても、答える筈がなかった。いや、例え人の言葉を喋ることが出来ても、タロも山城と同じように答えを持ち合わせていなかっただろう。
ただ、あれ以来、タロは山へは行きたがらなくなった。あれだけお気に入りのコースだったというのに。
山城も、例えタロが望んでも、再び山に立ち入るなど考えられなかった。
ふとした瞬間に。見上げた路の先に。
あのくの字に浮かぶ何かを見てしまう気がしたから。