第89章 契約の完了
源輝はベッドの上で身を起こした。思考よりも深い何かが、眠りから彼を引き戻したのだ。彼は静かに立ち上がり、いつもの服へと着替える。まるで何者かに導かれるように、足は勝手に地下室へ向かっていた。
そこに“球体”があった――古いテレビの砂嵐のように表面がちらついている。源輝はためらいもなく手を伸ばして掴んだ。全身の細胞がやめろと叫んでいたにもかかわらず、同時に別の力が囁いていたのだ。肉体、魂、そして球体。
一つは手に入れた。残る二つを揃えるだけ。
階段を上がりながら、彼は勇音と玲花が共有している部屋の前で立ち止まった。勇音はベッドで静かに眠り、玲花は床から数センチ浮かんでいる。源輝は霊力でそっと呼びかけた。玲花は眠たげに目を開き、彼の顔を見ると、何も言わずにふわりと立ち上がった。
部屋を出ようとした時、玲花が小さく囁く。
「なにをするの…?」
源輝はただ唇に指を当てて黙らせる。玲花は不満げに眉を寄せたが、彼の後をついていく。彼の手に抱えられた球体は、かすかにブツブツとした振動音を放っていた。
街は静まり返り、虫の声と、ときおり通り過ぎる車の音だけが夜を満たしていた。そうして辿り着いたのは──鉄の門がそびえる墓地。
玲花は不安げに源輝へ寄り添う。「源輝…なんでここに?」
彼は歩みを止めず、やがて一つの墓の前で足を止めた。玲花は刻まれた名前を見て、息を呑む。
柊 玲花。
源輝の顎が強く引き締まる。霊力と電撃が全身を駆け巡り、人間の限界を無理やり押し広げる。そして彼は地面へ腕を突っ込んだ。歯を食いしばりながら土を掘り返し、筋肉を震わせつつ、ゆっくりと、だが確実に棺を引き上げていく。
「源輝、やめて…! なにをしてるのか知らないけど、本当にやめて!」
玲花の声は涙で震えていた。
「見たくないよ…そんなの…!」
源輝はそこで初めて彼女の方を見た。その表情は、同情と揺るがない決意が入り混じった“覚悟”の顔――どこか、あの戦いで見た真羅の目を思い出させ、彼自身をも震わせた。だが手は止まらない。
棺が地上へ引きずり出される。
玲花は後ずさり、涙をためて棺を見つめる。そこには、自分の亡骸が横たわっているはずの箱。
「源輝…お願い…元に戻して帰ろう? こわいよ…!」
源輝は鋭く息を吐き、ついに口を開いた。
「玲花。これは重すぎるかもしれない。でも…俺が君を傷つけたこと、今まで一度でもあったか?」
まっすぐに、まっすぐに彼女を見る。揺るがず、誤魔化さず、ひたすら誠実な眼差し。
玲花の体が固まり、肩が震える。そして少しずつ力が抜けていった。
「……わかった。任せるよ。なにをすればいいの…?」
源輝は棺の上に球体をそっと置く。球体の表面が、何かを理解しているかのように淡く揺らめいた。
源輝は彼女へ向き直り、強い声で告げる。
「…変に聞こえるかもしれない。でも、あそこに入ってほしい。」
玲花は息を呑み、身体を強ばらせた。しかし、源輝の目には一切の嘘がない。あるのは“信念”だけ。
彼女はゆっくりと、棺の蓋へと近づき、目をぎゅっと閉じたまま、自身の焼け焦げた身体を見ないようにしてすり抜けていく。
源輝は夜空を見上げ、燃えるような決意を瞳に宿す。
「……始めよう。」




