第86章 常識
元気が目を覚ますと、頭がガンガンしていた。午後も夜も丸々寝倒し、もう朝になっていた。
霊華とイサネがすぐそばに座っており、二人とも不安そうな顔をしていた。元気が身じろぎした瞬間、イサネが勢いよく抱きついてきて、またベッドに押し戻されそうになる。
「この馬鹿! 心配で死ぬかと思ったんだから! 本当に大丈夫なの?」
彼女はそう言いながら、怪我がないか確認するように元気を覗き込んだ。
元気は疲れてはいたが、心からの笑みを浮かべ、彼女の手をそっと握った。
「心配かけてごめん。大丈夫だよ。ただ――」
「ダメ。」
霊華が強い口調で遮った。
「今日は“ただ〜しなきゃ”は禁止。休むの。異論は許さない。」
腰に手を当て、いつものように厳しい表情で言い放つ。
イサネはいたずらっぽく笑った。
「それに……デートの約束、忘れてないよね?」
元気の目が見開かれる。あの騒動のせいですっかり飛んでいた。
「わかってる。明日必ず――」
「ダーメ。」
イサネは腕を組み、にやりと笑う。
「今日。じゃなきゃナシ。」
霊華は黙ったまま、そのやり取りをじっと見ていた。表情は読めない。
元気は肩を落とし、ため息をついた。
「……わかったよ。行くよ、デート。」
言い方こそ降参だったが、胸の奥で小さな高鳴りがあった。
「もー、もうちょっと嬉しそうにしてくれてもいいじゃん……」
イサネが頬をふくらませる。
「一週間ずっと楽しみにしてたんだから。」
元気は自分の声があまりにも平坦だったことに気づき、慌てて大きく笑ってみせた。
「もちろん楽しみだよ。昨日はいろいろあったけど……やらなきゃいけないことは明日だって逃げない。今日は全部イサネに使うよ。着替えたらすぐ行く。どこでも好きなところでいい。約束する。」
「うん、それでいい。」
イサネは頭をぽんと叩き、満足そうに笑った。
「じゃ、30分後ね。遅れたら許さないよ。」
ウインクして部屋を出て行く。
扉が閉まった瞬間、霊華が肘でつついてきた――が、もちろん肘は元気の腕をすり抜けた。
「へぇ〜、やるじゃん。とうとうデートかぁ。」
わざとらしく背を向け、目元をぬぐう仕草をする。
「私はずっと元気のために身を捧げる覚悟だったのに……あぁ、なのに裏切られるなんて……。」
元気は真っ赤になって口ごもる。だが霊華はくるっと振り返り、舌をぺろり。
「冗談だってば。」
元気は胸をなでおろした。
「一瞬、本気にしそうになったんだけど……」
「ありえないでしょ。」
霊華は鼻で笑う。
「私とあんた? 百万年経ってもないっての、弟くん。」
元気はにやりと笑った。
「いや、俺のほうが年上だから。“お兄ちゃん”だろ?」
霊華はふわりと降りてきて、ぱちぱちとまつげを上げて見せる。
「はいはい……お兄ちゃん。」
次の瞬間、こらえきれず爆笑した。
元気は顔をしかめながらも笑ってしまう。
「もう二度と言うなって。あれは人生で一番キツかった。」
「でも、その顔見れたから満足〜。」
霊華は得意げに笑った。
元気は呆れたように目を細めたが、口元には笑みが残っていた。
「……はいはい。じゃ、着替えるから出てって。」
しかし霊華は動かなかった。元気の手にある服をじっと見て、声の調子を落とした。
「それ……この前、私が選んだ服じゃん。」
元気は瞬きをした。
「え、あぁ……そういえば。なんかいい感じだと思って――」
「別の着な。」
霊華が腕を組んで言う。
「え?」
「イサネもその日に服選んでくれたでしょ? デートの日に私の選んだ服着たら……あの子、絶対変に思うよ。」
元気は固まり、徐々に理解が追いついて顔が引きつった。
「た、確かに……誤解されるかもしれないな。」
今の服、そして霊華が選んでくれた服に視線を落とす。
「……でもこれ、結構好きなんだよな。いっそ俺の定番にしようかな。」
そう言ってそれを脇に置き、クローゼットを漁る。そしてイサネが選んだ服のひとつを取り出し、霊華に向けて掲げた。
「じゃあ……これはどう?」
霊華はニッと笑い、うなずいた。
「うん。バッチリ。」




