第85章 計り知れない恐怖
ゲンキは自分を見下ろす巨躯を見上げた。そいつもまた、じっと彼を見返していた。
心臓が激しく脈打つ。ゲンキは慌てて立ち上がり、襲撃に備えて身構えた。
──だが、攻撃は来なかった。
巨体はほんの一瞬そこに立っていただけで、そのまま前へ踏み出し、ゲンキなど地面を這う虫同然と言わんばかりに跨いで通り過ぎた。影がゆっくりと離れ、そいつは遠ざかり、やがて地平線の彼方へと姿を消した。
安堵が胸に広がったが、同時にわずかな屈辱もあった。ゲンキは小さく吐き捨てるように息を漏らし、すぐに空へ視線を戻す。
封印があった。
巨大で、眩いほどに輝き、脈動している。
そのリズム──封印術式のものだ。理解できる構造。
ゲンキは手を伸ばした。
エネルギーの糸が意志に応じてほどけ始める。そのたびに胸に冷水のような恐怖が流れ込む。本能が叫ぶ。やめろ、と。
だがそれ以上に、もっと深い場所から湧き上がる衝動が、彼を前へ押し続けた。
なぜこんな場所に封印があるのか。誰が、何を封じたのか。考える暇はなかった。
彼は余計な雑念を締め出し、束をほどく作業に集中した──が、集中を保とうとすればするほど、思考が四方八方へ散っていく。
それでも、ひとつの記憶が霧の中を切り裂いた。
蒼月の歴史授業。
“かつて大いなる悪が封じられた”──あの一言。
ゲンキは凍りついた。
理由を聞かなかった。
どれほどの存在を封じねばならなかったのか、考えもしなかった。
振り返れば──答えはあまりにも明白だった。
ほんの一瞬だけ、元に戻そうかと思った。封印を修復してしまおうかと──
……だがもう遅かった。
封印は崩壊し、光の液体のように溶けて地平線一帯へ流れ広がった。
そして──“そいつ”が現れた。
人型の輪郭だけを持つ、蠢く静電気の塊。
ゆっくりと降下し、子供のように首を傾げながらゲンキの前に降り立った。
「契約は果たされた。」
その声は全方位から響いた。
「次は、我がそなたに応えよう。」
ゲンキの胸がきつく締めつけられる。呼吸を整えようとするが、この存在から放たれる圧力は桁違いで、霊体がひび割れそうだった。
静電気の男が身を屈め、近づく。
近すぎる。
顔のない顔がゲンキの目前まで迫り、その声が釘のように脳へ刺さった。
「肉と魂、そして我が宝珠をひとつに結べ。
──さすれば、願いを叶えよう。」
世界が砕け散った。
ゲンキの意識は強引に身体へ引き戻される。
彼は荒く息を吸い込み、胸を押さえた。
恐怖が津波のように押し寄せ、視界が滲む。涙がこみ上げるが、彼は瞬きをしてこらえた。
「い…まの…何だ……?」
声はひどくかすれていた。
胃がひっくり返るような感覚に襲われ、吐きそうになるが──必死に飲み込んだ。
身体が震え、足元が揺れる。
それでも前へ進み、よろよろと家の中を歩いた。
レイカとイサネが駆け寄ってきた。呼びかける声が聞こえる──だが、ゲンキには届かなかった。
彼はそのままベッドへ倒れ込み、身体を沈める。
闇が視界を覆い、意識を奪っていく。
眠りは、望もうと望むまいと──容赦なく彼を呑み込んだ。




