巡る夢は淡く微笑む
「ねえ、そう思わない? ……聞いているの? フェリアーナ」
隣に座っている従妹であるイザベラ王女の、ほっそりとした美しい指が咎めるように私の手に触れて、ハッと息を呑む。問われるまま「そうね」と開きかけた口が何故か強張って動かなかった。
早送りされたような映像が一瞬のうちに頭の中に流し込まれたからだ。
なに? これは、なに?
戸惑う私を怪訝そうにイザベラが覗き込む。微かに眉を顰めていても見た目だけは完璧可憐な美少女だ。
「フェリアーナ? どうしたの?」
「……いいえ……なんでも、ないわ」
「おかしなフェリアーナ。それで、どう? 彼、素敵じゃない?」
目隠しの薄いカーテン越しにイザベラが扇でさりげなく示した先には見目麗しい騎士が立っていた。紫紺の髪の甘い顔立ちの彼は城勤めの侍女たちの人気も高い。たしか……ボドワナ伯爵家の嫡男、だったか。
しかし、そんなことはどうでもいい。
私は浅くなった息を整えながら必死で考える。
今は隣国の第二皇子を歓迎する夜会が始まろうという最中だ。肝心の主役の到着が遅れているとはいえ、ぼんやりしている場合ではない。
「フェリアーナ?」
ここで頷いてはダメだ。さっき脳裏によぎった映像によれば、その瞬間はしゃいだイザベラによってあっという間に私と彼との婚約がなされてしまう。そしてその後すぐ、彼と両思いだった幼馴染の庶民の少女が聖女として覚醒し、王女を使って二人の仲を裂いたと噂された私は秘密裏に毒杯を賜ることになってしまうのだ。
あくまでも、さっき見たものが本当ならば、だけれど。
それでも確信があった。あれは私の数多ある中の一つの未来であると。
私は引き攣りそうになる口元を抑えてなんとか笑みらしきものを浮かべた。
「……申し訳ないけれど、私の好みとは違うかしら」
「あら、そう? 残念だわ」
本当に残念そうにイザベラがため息をつく。あの映像を見た後では、その仕草にも含みがあるように思えてしまう。さすがに幼馴染が聖女だとは知らないだろうか、ただ格を落としたいだけだろう。でも先程の映像の中で、破滅する私を見てイザベラは確かに笑ったのだ。嬉しそうに。──あのときのように。
「でもフェリアーナ、あなたももう一七でしょう? そろそろ婚約者を決めないと良い人はすぐにいなくなってしまうわ」
それはわかってはいる。しかし我が家は恋愛で幸せいっぱいの婚姻をした両親の意向により結婚相手は自力で探すことを推奨されていた。
それに、相手がいなくなってしまうことについてはひとまず問題がない。先刻から私のお相手に興味津々の、一六になったばかりのこの国の王女イザベラにはまだ婚約者がいないのだ。彼女のお相手が決まるまではきっと婚約者を決めない妙齢の男性は多いだろう。
「ねえ、どんな人が好みなの?」
目をキラキラさせながら、なおもイザベラが私との距離を詰めてくる。
「え……」
「騎士団長の次男はどう? 宰相の末っ子は?」
彼女があげたその二人に私は肩をすくめてみせた。冗談ではない。
「悲しむわよ。二人とも貴女の信奉者じゃないの」
「だからいいんじゃない。わたくしがお願いすればきっとフェリアーナを大事にしてくれるわ」
──つまりあなたがお願いすれば、私はどんな目に遭わされるかわからないのね……という言葉は飲み込んだ。冗談でもそんなことを言えば、イザベラは大袈裟に悲しんで私は悪役になってしまう。
いつだってそうだった。この国で彼女は絶対だ。
「──私は平凡でも優しくて私だけを見てくれる人がいいわ」
面白味のない私の答えがお気に召さなかったのだろう。イザベラは少しだけ拗ねたように頬を膨らませ、やがて私の言葉に該当する人物に気付いたのか、人差し指を唇に当てて可愛らしく首を傾げた。
「いやだ。まさかあなた、まだあの人を引きずってるの? なんて言ったかしら……、たしかフェイナム公爵家の……」
イザベラの目が、獲物を見つけた猫のように意地悪っぽく輝く。反応してはダメ。反応すれば彼女はますます私を追い詰めるだろう。
「アラン……いえ、そう、アーサーだったかしら。見た目はまあまあだったのに……たしか川に落ちて……お気の毒ね」
「イザベラ」
それ以上先の言葉を聞きたくなくて、私はできるだけ穏やかに聞こえるようにイザベラの名前を呼んだ。
「せっかくの晴れやかな席であなたの口から悪い話は聞きたくないわ。今名前を聞くまで私忘れていたくらいなんだから」
「……そう? それもそうね。もう亡くなってるんだし、今更よね」
わずかに指先が震えるのを気づかれないように強く扇を握りしめる。
アーサー。私の幼馴染。イザベラの横槍が入らなければ私の婚約者だった人。彼女はもうそんなことはすっかり忘れているだろうけれど。
いつだって気まぐれに私の気に入っているものを奪っては、放り投げてきたのだから。物も、人も。──お母様も。
そのとき大広間に高らかに音楽が響き渡った。遅れていた帝国の第二皇子が到着した合図だ。
イザベラはさっきまでの会話など忘れたように頬を紅潮させて立ち上がった。ふわりと、私の目の前で彼女に似合う華やかな薔薇色のドレスが翻る。
万雷の拍手の中登場したかの人は確かにとても美しい人のようだ。金髪巻き毛のほっそりとした王子らしい王子様。どうやらイザベラのお眼鏡にもかなったらしい。
もしあの皇子とイザベラが結婚することになれば、私との距離も物理的に離れるだろうし、その時こそゆっくり思いわずらうことなく自分のお相手を探すことができるだろう。──多分。
私は消極的にその日を待つしかない。すべてを飲み込んで。
「フェリアーナ、ご挨拶にいきましょうよ」
子供のように屈託なくイザベラが私の腕を引っ張る。でも私は知っていた。その行為が純粋なものではないことを。
この国の輝ける金花と謳われるイザベラは、波打つまばゆい豊かな金の髪に、晴れた青空のような瞳を持つ比類なき美少女だ。そして私は月の光をはらんだような真っ直ぐな銀髪に淡い紫色の瞳。数年前に亡くなった母と同じ色の容姿は自分でも気に入っているし、悪くないと思っているのだけれど、イザベラと正反対であるが故によく比べられるのだ。
太陽と月、光と影。
イザベラはそれをよく承知していて、しばしば引き立て役のようにいつも私を自分の隣に立たせる。よりイザベラが輝けるように。それに気づいてからは私もなるべく目立たないようにしてきた。華やかで可愛いフリルやレースがふんだんに使われた明るい色のドレスのイザベラ。シンプルで落ち着いたドレスの私。
今日もスッキリとしたラインのやや明るい紺色のドレスだ。私の年齢を考えればギリギリ可愛らしい、と言えなくもない絶妙に落ち着いた地味なデザイン。本当ならもう少し軽やかで淡い紫や青が好みなのだけれど、何度かそれは袖を通す前にイザベラに奪われていた。
注文した服飾店曰く、手違いでデザイン画を紛失しただとか、キャンセルの連絡があった、とか、別のデザイン画に変更になったと連絡を受けただとか、普通に考えたらありえない理由ばかりだった。お父様たちが注文してもそれは同じ。
仮にも大公家の注文がそんなぞんざいな理由で失われるはずがない。それはその店の信用問題に関わるからだ。それでも何度店を変えても同じことが起こった。そして代わりに手元に届くのは高価であっても地味なドレス。つまりは大公家よりも上の指示。
「申し訳ありません! 殿下が……」そう口を滑らせたのは、もうすぐ独立するのだと言っていた職人だった。頼んだときには「フェリアーナ様に似合うドレスをお作りしますね!」と屈託なく笑っていたその顔は数日で申し訳なさに彩られていた。おそらく秘密にするように言われていたはずだ。それでも、彼女は不本意なドレスを作るより真実を明かすほうを選んでくれた。
やっぱり、と思った。それでも証拠はないのだ。仮に訴えたとしても職人を口封じしたうえで私の被害妄想だと言われるだろう。お母様が亡くなったときと同じように。
唯一諌められるはずの陛下も亡き王妃によく似たイザベラを溺愛している。彼女を止められる者は誰もいない。
そうして、可愛いものを諦めたのはいつのことだっただろう。
私の腕を掴むイザベラに、戸惑うように首を振って一応の抵抗を試みる。
「私はあとからお父様たちとご挨拶するわ。王族であるあなたがまず先に行くべきでしょう」
「ダメよ。フェリアーナが一緒じゃなきゃ。王弟の娘であるあなただって王族みたいなものでしょう? 大丈夫よ。ねえお願い。一緒に行ってくれないかしら。後ろに控えててくれるだけでいいのよ」
王弟の娘はあくまでも王弟の娘であって、王族ではない。でもこれは──、もう逃げられない。イザベラは私を連れて行くことを決めたのだ。こうなると断る方がより面倒なことになる。
私はため息を押し殺して本当に仕方なく、小さく頷いてイザベラに手を引かれるまま皇子を囲む人だかりの中へと足を進めた。
「イザベラ殿下だ! 道を開けろ!」
イザベラに気づいた周囲がザッと皇子までの道を開ける。イザベラは私から素早く手を離して流れるように優雅に素早く皇子の前に立ち、ドレスを摘んで美しい礼を披露した。そんなイザベラを見て皇子が笑みを浮かべた瞬間、周りの女性陣がうっとりした顔で歓声を上げる。
そして皇子がイザベラに一歩近づくと、あたりはシンと鎮まった。
「レストニア王国の第一王女、イザベラ姫とお見受けする。我はライオネイト帝国第二皇子、カルネリアだ。顔を上げてくれ。直答を許す」
許可を得て顔を上げたイザベラは、一番綺麗に見える角度で、美しく微笑む。
「ようこそ我が国へ。わたくしのことをご存じだなんて、この上なく光栄ですわ。レストニア王国の第一王女、イザベラと申します。どうぞお見知り置きくださいませ」
イザベラの口上に第二皇子が頷いてみせた。
「レストニアの王女は美しいと評判だったから会えるのを楽しみにしていた。確かに美しいな」
「まあ」
第二皇子の言葉はイザベラの自尊心をいたく満足させたらしい。でも私はなんとなく彼に嫌なものを感じて少しずつ後ろに下がる。こういう時の私の勘はあまり外れない。
もう少しで離脱、というところで運悪く視線が向けられた。──第二皇子の。
「……失礼、ご令嬢。貴女は……?」
先ほどまでとは違う、少しだけ、熱を含んだその声音にぞわりと鳥肌が立つ。イザベラは、笑顔でありながらその視線は恐ろしいほどの絶対零度だ。私は反射的に上位に対する礼で顔を伏せた。
「セルムフェルト大公が娘、フェリアーナと申します」
「セルムフェルト大公、というと王弟殿下で魔術師団長フェルレイン殿の……?」
「はい」
「そうか! まさかかのフェルレイン殿のご息女がこのように美しい人であったとは」
カツカツと音を立てて第二皇子は私の目の前に立つと、わたしの手をとり口づけた。
その瞬間、再び頭の中に映像が流し込まれる。
悪夢だ。さっきと同じ、いや、さっきよりも酷い。
顔から血の気が引くのが自分でもわかった。
──この男はなぜかイザベラではなく私を気に入り後日陛下に私との婚姻を申し込む。そしてそれはイザベラの逆鱗に触れ、彼女は表面上は祝いながらも裏では刺客を差し向け私を亡き者にしようとするのだ。
でもそれは叶わない。いや、別の形で叶う、というべきか。
帝国に嫁した私はそこで第二皇子に十三人の愛妾がいることを知るのだ。そこで地獄のような責苦を受け、殺される。
冗談じゃない。
冗談じゃない。そんな未来真っ平だ。
不敬にならない程度の力で第二皇子に掴まれていた自分の手をゆっくりと取り戻し、もう一度深く一礼する。
「申し訳ありませんが父に呼ばれております。御前を立ち去ることお許しいただきたく」
「そうか……? 仕方ない許す。だが再び我のもとへ参るといい。フェルレイン殿とともにな」
返事はせずに頭だけを下げて、ゆっくりと、素早くその場を離れる。絶対に振り返らなかった。第二皇子のねっとりした視線も、イザベラの殺意のこもった眼差しもできれば受け止めたいものではない。
どうしよう。どうしよう。このままでは不幸一直線だ。
出口に急ぎつつ誰かにぶつかりかけて両肩を柔らかく受け止められる。
「も、申し訳……」
「いや、こちらこそ失礼した」
がしりとした体躯に高い身長。見上げれば、夜会に出るのは珍しい黒髪の辺境伯だった。
歳を重ね、顔に大きな傷はあるもののその整った顔立ちはいささかも損なわれてはいない。たしか年齢は三十。五年前に最愛の奥方さまを亡くされて、今はお一人。人格にも問題はない。
この人に嫁げば逃げられるのでは?
そう考えた瞬間またアレが来る。
──ダメだ。この人を選ぶと帝国が冤罪をかけ攻めてきてこの人を殺す。
「ありがとうございました。辺境伯様。失礼します」
「どう致しまして、美しいお嬢さん。良い夜を」
どうしよう。どうしよう。
人混みをかき分けるようにして手当たり次第に肩や腕にギリギリで触れていく。騎士は軒並み全滅だ。イザベラによって魔物の討伐や、近隣の小競り合いに行かされて死ぬ。文官や普通の貴族でもとにかく死んでしまうか、人質をとられて脅されたり心変わりして私を裏切り私を殺す。
絶望に視界が滲む。ダメだ。私はこの世界では絶対に幸せになれない。
イザベラと、あの第二皇子のいる、この世界では。
私は会場を出て、マナーギリギリの速度で目的の部屋に急いだ。足を止めればその瞬間にも悪い運命が私を捕まえて頭から呑み込んでしまいそうな気がしたからだ。
やっとその扉の前にたどり着くと、深く息をついた。縋るように扉を叩く前にドアが開く。
そこは夜会の喧騒が嘘みたいに静かな、平和な空間だった。暖炉で薪がはぜる音だけが響く。
奥の大きな机の前に魔術師団長であることを示す青いマントを身につけたお父様が立っていた。王族の血を引くことがひと目でわかる、金の髪に深い青い瞳。娘の私から見てもいつまでも若々しく美しい人だと思う。
「フェリ、どうしたんだい?」
タイミングよく扉を開けたのはお兄様だったらしい。父と同じ色を持つ兄が、私を優しく見下ろしていた。
「お兄様……」
微笑もうとした私の顔は見事に歪んで、その場にへたりと崩れ落ちそうになる。それを兄が慌てて抱き止めてくれ、父も目を見張って駆け寄った。
すぐさま扉を閉めて一瞬で強固な防音と防御の魔法を編み上げたのはどちらだったのか。二人ともかもしれない。その瞬間ここは王城で一番安全な場所になった。現魔術師団長と、次期魔術師団長による結界だ。誰も壊せない。
「フェリアーナ?」
お父様の心配を滲ませた声に、私は深呼吸してから口を開いた。
「お父様お願い。今すぐ私をどこか遠くにやってください。ここではないところへ。お願いします!」
今にも泣きそうに震えてしまう私の声に、ただごとではないと思ったのだろう。お父様は手を差し伸べて私を引き寄せると、そのまま暖炉の前のソファに導き、お兄様は魔法を使ってお茶をいれて私の目の前に置いてくれる。
お父様は落ち着かせるように隣に座り、肩を優しく抱いてくれた。
「まずはお茶を飲むといい。それから……最初から話せるかい」
お父様の温かな言葉に頷いて、カップに手を伸ばす。その手が震えているのを見て、お兄様が代わりに私の手にカップを持たせてくれた。
少しだけ甘い私の好みのお茶に、凍えていた心が微かに緩む。
ここは、大丈夫。ここは安全。
冷たくなった手を温めるように、今は淑女のマナーを忘れて子供みたいにカップを両手で包んで最後まで飲みきった。カップをゆっくり置いてから、二人の顔を見つめる。
「とても信じてもらえない話だと思うの」
そう前置きして、私はさっき見た出来事を話した。毒杯のことも、第二皇子のことも、イザベラのことも手当たり次第に触れた人たちの運命も全部。
「妄想だと思われても仕方ないのだけど……」
黙ったままの二人に、やはり信じてもらえないのかと思ったそのとき、お父様が私を抱きしめた。
「そんなこと思うものか。良く話してくれたね」
「あの我儘王女め。今度こそただじゃおかない。フェリになんてことを」
元々イザベラのことを嫌っていることを抜きにしても過剰な殺気のこもったお兄様の言葉を不思議に思う。こんなに簡単に信じてくれるなんて思わなかったから。
「……」
「フェリアーナ?」
「どうしたんだい?」
お父様の腕が緩んで、私の顔を覗きこむ。お兄様もだ。慈しみ以外の色はそこにはない。
「信じて、くれるの……?」
「当たり前だ」
間髪入れず二人揃ったその言葉に心底安堵する。知らず涙が零れ落ちた。それを指先で拭ったお父様の手がそのまま私の手を包み込む。
「やはりこの日が来てしまったか」
ポツリと、苦味を含んだお父様の声が落ちた。
「お父様?」
「──フェリアーナには言ってなかったことがある。亡くなったアリシアのことだ」
「……お母様の?」
「アリシアは遠い島国の、今はない亡国の直系の血を受け継ぐ姫だったんだ。その国の王族には稀に不思議な力を持つ者が生まれるという」
向けられた眼差しの意味に気づいて、ハッと息を呑む。私が気づいたことに気づいたのだろう。お父様は頷いて見せた。
「そう。人に触れると未来が垣間見えるというものだ。アリシアにはその力があった。アルトーレスには現れなかったし、フェリアーナにも今までその兆候がなかったから、発現するとは思っていなかったんだよ。知らせておけば良かったね」
辛そうな顔をするお父様に、私は大きくかぶりを振った。
「いいえ。知っていたら私は人に不用意に触れることも触れられることも避けていたでしょう。そうしたら今日この運命を知ることもできなかったと思います。今、この時で良かったんですわ」
「──そうか。……そうだね」
「それで父上、どうしますか」
時間がないことは、ここにいる三人ともわかっていた。
「このあと私たちは会場に行って、フェリアーナが急病で倒れて家に帰ったと報告する。そしてそのまま長い療養に入ると」
「──ですがそれでは問題の先送りにしかならないのでは?」
「そうだな。だからフェリアーナはそのまま不治の病になり、社交界には戻らないことにする」
はっきりと断じられたその言葉に、私もお兄様も一瞬言葉を失った。しかし、とすぐに思い直す。私が生きている限りイザベラは私を不幸にすることを諦めないだろう。
「お父様、不治の病でいいのですか? 私は死んだことにしたほうが面倒がないのでは?」
私の言葉にお父様が顔を歪める。そんなことは到底考えられないという顔だ。
「フェリアーナ。この先お前と再び共に暮らせるかもしれない可能性まで奪わないでくれ。私は永遠に娘を失う気はないよ」
「……でも」
不治の病になればあの皇子は諦めるかもしれない。でもイザベラは必ず苦しんでる私の顔と、失意のうちに亡くなった死に顔を確認しようとするだろう。そう私が思ったのがわかったのだろうお父様が重く頷く。
「たしかにイザベラは、フェリアーナが少し遠くに行ったくらいでは諦めないだろうね」
「お父様……イザベラは、どうしてそんなにも私を……」
「一昨年亡くなった王妃は父上のことが好きだったんだよ。執着といってもいいくらいにね」
初めて聞くそんな話に驚く前に、お父様が「アルトーレス!」と鋭い声を上げる。お兄様は気にした様子もなく肩をすくめて見せた。
「父上。フェリには知る権利があると思うよ。イザベラのあれはどんどん酷くなってる。まるで呪いだ」
お兄様は私のかたわらに跪いてお父様とは反対のほうの手を包んだ。
「父上に選ばれなかったことをずっと認められなかった王妃は死ぬ間際イザベラに、絶対にフェリよりも幸せになるように命じたんだ。フェリが幸せになることを壊してでも」
「……そんな……」
亡くなった王妃様は、鮮やかな赤い髪の、美しい人だった。でも、いつも冷たい目で私を見ていた。お母様が大怪我を負ったあの日も。
六年前、お母様は暴漢に襲われたイザベラを庇って負った怪我が元で亡くなった。王城の庭で、主だった家の子供たちを集めたイザベラの十歳を祝うお披露目会だった。
逃げられるはずだったのだ。間に合わなかったのは、私とイザベラを連れて逃げようとした瞬間お母様にイザベラがしがみついてその手を封じ、魔法を放つ邪魔をしたからだ。そして私は見た。お母様が背中を刺されながら守っていたその腕の中で、イザベラが嬉しそうに笑うのを。
私は必死にイザベラのせいだと訴えた。王妃様は扇をパチリと鳴らして冷ややかに「そんなはずがないでしょう」と断じ、万が一そうだったとしても、暴漢に襲われた子供が恐慌状態になって大人にしがみついてしまうのはよくあることだと。不幸な事故だったのだと冷ややかにそう言った。周囲もそれで納得し、後日王家から莫大な報奨金が届いて──それ以上の反論は許されず、お父様も陛下に頭を下げられてはもう、なにも言うことはできなかった。
髪色こそ違うものの、あのときの王妃様の顔は今のイザベラと良く似ていた。いや、イザベラが良く似ているのだ。
そして、私は。
「私がお母様に良く似ているから……なのね」
「すまない。フェリアーナ」
「どうしてお父様が謝るの? お母様を選んだお父様は正しいわ」
「……そう言ってくれて嬉しいよ」
「お母様は強くて優しくて素晴らしい人だったわ。お母様が私のお母様で良かった」
心からそう思う。私の場所にイザベラがいたなんて、考えたくもない。
その時、扉が叩かれた。
「フェルレイン様、陛下がお呼びです」
陛下にも第二皇子が到着したのが伝わったのだろう。お父様が呼ばれることに不思議はない。不思議はないけれど……。お父様にあの第二皇子が何を言うかわからない。それが怖かった。
「大丈夫だよ。フェリアーナ」
お父様は柔らかく微笑んでみせて、そしてやや険しい声で防音の魔法を一瞬解くと、扉の外で待つ従者に告げた。
「陛下には急ぎの用があり少し遅れると伝えよ」
「は、しかし……」
「陛下には私から詫びる。重要な件だと言えばわかってくれるだろう」
「か、かしこまりました!」
慌ただしく立ち去る足音がして、やがて静寂が戻った。再び美しい防音の魔法が紡がれる。
「時間がない。いいかいフェリアーナ。これからお前を別な世界に送る」
「え……別な……世界?」
告げられた言葉に頭が混乱した。領地でもよその国でもなく、別な世界?
そのことも不思議に思ったけれど、一番不思議だったのはお父様が当たり前みたいにそれを告げたことだ。まるで、以前から何もかもわかっていたみたいに。
ううん、わかって、いたのだ。多分お母様の力で。
「そこでは既にフェリアーナを受け入れる準備は整っている。身一つで行って大丈夫だ。もちろん必要なものがあればあとで送ってあげるよ。ただし、次の満月になるだろうけどね」
「満月? それに、私を受け入れる準備が整っているって……」
幼子のように言葉を繰り返すばかりの私の頭をお父様の大きな手が優しく撫でる。お兄様を見れば、寂しげに微笑んでいた。つまりお兄様にもこれから何が起こるかわかっているということなんだろう。
私だけが知らなかった。私だけが何も知らされずに守られていた。
「人が界を渡るにはかなりの魔力が必要なんだ。私でもギリギリで、安全を考えると月の力を借りた方がいいからね。そしてありがたいことに、今夜は満月だ。……どうする? フェリアーナ」
混乱はしても、お父様がこんなときに嘘や冗談を言わないことはわかっていた。そしてこの提案が私にとって最善であることも。
「──行きます」
躊躇いが全くないと言えば嘘になる。だけどここに残る不安を考えたら瑣末なことだ。しかも今日を逃せば次の満月を待つことになってしまう。行くしかない。
怖いけれど、お父様が私を不幸にするはずがないからそこはまったく疑ってはいなかった。
……心配なのは、一つだけだ。
「私が行ってしまってお父様もお兄様も大丈夫なの……?」
「そりゃあフェリアーナがいないと寂しいよ」
「フェリがいなくなったらうちは火が消えたようになるだろうね」
戯けたようにそんなふうに言う二人に、ゆるゆると首を横に振る。
「違うわ。そうじゃなくて」
私が消えれば第二皇子とイザベラがどういう行動に出るかがわからない。私が言いたいことなど最初からわかっていたんだろう。大丈夫だよ、とお父様とお兄様が微笑みながらそれぞれ力強く頷く。
「フェリアーナが見たことを色々教えてくれたからね。それを使ってうまくやるさ。それに、もしうまくいかなかったら皆んなでそちらに行って、楽しく暮らそうじゃないか」
「いいね。今すぐそうしたいくらいだ」
お兄様の本気の声に少しだけ笑う。
「しかし残念ながら今日全員で失踪するわけにはいかないな。そのうちアルトーレスに全てを譲ったら私はフェリアーナのところに行くとしよう」
悪戯っぽく片目を瞑って見せたお父様に、お兄様が嫌そうな顔をした。
「それはずるいですよ、父上」
二人の言葉に翳りはない。なら、本当に大丈夫なのだろう。それにお父様はこの国一の魔術師だし、イザベラとは別枠で陛下のお気に入りだから、イザベラが何かしようとしてもおそらく無理だ。
私がいないほうが、多分お父様は家を守りやすいはず。
「わかりました。お父様、どうか私をその、別な世界に送ってください」
「……わかった」
ソファから立ち上がり、最初にお兄様が私をぎゅっと抱きしめる。いつでも私を守ってくれる優しい兄。お義姉様も素晴らしい人で、今は妊娠中のため家にいる。お別れを言えないのも、甥か姪が見られないこともとても残念だけれど。
生きてさえいれば、望みは消えない。
「後のことは何の心配もいらない。幸せになるんだよ。フェリ」
「ありがとうお兄様。大好きよ。お義姉様にもよろしく伝えてね。お身体を大切に、って」
「ああ。伝える」
離れがたい、とばかりにお兄様は私を抱きしめる手に一瞬強く力を込めて、ゆっくりと離す。お父様そっくりの深い青の瞳がわずかに潤んでいるのがわかった。つられて私の頬にも涙が伝う。お兄様の指先がそれを優しく拭ってくれた。
そして、床に大きな魔法を編むために魔法で椅子やテーブルを移動させていたお父様に近づくと、すぐに力一杯抱きしめられる。
「愛しているよ、フェリアーナ。大丈夫。何も怖がることはない。きっと幸せになれる」
瞬間、ある映像が頭の中に流し込まれた。
「ええ。今、私の血を継ぐ者がこの世界にやってくるのが見えたわ。──どうか、いつか彼女を守ってあげてね」
お父様は私の言葉にびっくりしたあと、嬉しそうに笑った。
「それは楽しみだね」
私から離れて、お父様が呪文を唱え始める。聞いたこともない長い詠唱。ものすごく大きな魔力がずわりと動くのを、お兄様の魔力が即座に隠蔽する。
気がつくと部屋の真ん中に大きな美しい扉が現れた。真っ白で、大きな樹木が彫られている。天界へ向かう扉だと言われても信じただろう。
「これは……」
「この扉が別の世界に繋がっている。私が許可した者しか通れないから追手が行くことはないよ」
扉から濃密な魔力の圧を感じる。この扉をくぐれば、私はもう二度とここには戻らない。
「ありがとうございます。お父様、お兄様。フェリアーナはどこにいても皆の幸せを祈っています」
「それは私たちも同じだよ、フェリアーナ」
かなり無理がかかってるんだろう。お父様とお兄様の額に汗が滲んでいた。拭ってあげる時間すらもう私にはなかった。
「桜の花に月の雫。主が命じる。疾く開錠し扉を開けよ」
朗々とお父様の声が響き渡る。呼応するように扉がゆっくりと開いた。
ドアの中は虹色のモヤがかかっていて、向こう側は見えない。
不思議と不安は感じなかった。
「お父様、お兄様。──行ってきます」
「またね。フェリ」
「行っておいで。フェリアーナ。……アリシアが最期に見たのは、ここではない場所で笑うフェリアーナの姿だったそうだ。幸せに。フェリアーナ。もし嫌になったらいつでも帰っておいで」
お父様の言葉は嬉しかったけれど、それは多分できない。そう思いながらもその気持ちが嬉しくて、大きく笑顔で頷いた。
「はい。お父様」
色々な思いを振り切って、溢れ出す涙をそのままに私は扉をくぐった。一瞬温かいお父様の魔力に包まれて、それを抜けるとひんやりとした闇が広がっている。
「どこに……行けばいいのかしら」
私の言葉に反応したように遠くに灯りが見えた。まるで招くように瞬いて、私はそれを目指して歩く。灯りに触れた、と思った瞬間、私の手をそっと誰かが掴んだ。
「やっ、なに……っ」
「……フェリアーナ? 本当に?」
「……え……?」
知らない、でも、良く知っているような気がする声。
気がつくと私は、背後に扉だけが鎮座している暗い小部屋に立っていた。明かりは彼の持つランタンが一つ。
そして、目の前には優しく微笑む、背の高い端正な顔の男性が立っていて、私の手をふんわりと包むように掴んでいた。
クリーム色のセーターから茶色のチェックの襟が見えて、下は見たことのない素材の青いズボン。それがデニム、というものだと知るのはまだ先のことだ。
困惑する私に、目の前の男性が同じく困ったように眉を下げる。……その顔が、記憶の中の〝彼‘’と一瞬重なった。
まさか。
「怖がらないでくれると嬉しい……僕のこと、覚えてないと思うんだけど」
「……アーサー……?」
「え?」
「嫌だ、ごめんなさい。アーサーが生きてるわけないわよね」
その瞬間、そっと手を引かれて抱きしめられた。
「覚えててくれて、ありがとう」
心の底から安堵したようなその声はかすかに震えていた。
「アーサー、なの? 本当に? あなた、生きていたの?」
抱きしめる手はそのままに頭の上で頷く気配がする。
十四年前、アーサーが八歳、私が三歳のときに学生時代どちらも伯爵令嬢だった繋がりで、母親同士が友だちだった私たちはお茶会で出会った。
私はアーサーに良く懐き、アーサーも私を大切にしてくれた。その様子に、年頃になってもし二人が良ければ婚約しようということになっていたのだけれど、その二年後、アーサーのお父様のコルト子爵が亡くなったのだ。
喪に服していたアーサーのお母様、ミリアリナ様を見初めたのがフェイナム公爵だった。嫌がるミリアリナ様の再婚を強引に決めてしまったのは、ご実家の、メイフェア伯爵だったらしい。アーサーのお祖父様だ。
フェイナム公爵はその前の年に散財の酷かった奥様を離縁していて、家にはアーサーと歳の変わらない長男、セリアン様がいた。今なら寂しかったのだろうことがわかるけれど、彼は喪が明けて早々にやって来たアーサー親子にそれは辛く当たったらしい。
我が家を訪れるミリアリナ様の表情が、どんどん暗くなっていったのを覚えている。同時にアーサーも辛そうな様子になっていったからだ。それが心配で、私もお母様も二人をしょっちゅうお茶会に誘った。
そこにイザベラがやって来たのはある日のことだった。何の先ぶれもなく突然お茶会に乱入してきて、仲良く私と本を読んでいたアーサーに目を止め、いきなり「わたくしの婚約者候補にしてあげる」と言い放ったのだ。まもなく一二歳になるアーサーは幼いながらも穏やかで優しくて、私から見ても王子様みたいにキラキラして見えた。
王族の言葉には逆らえない。
あっという間にアーサーはイザベラの婚約者候補になり、家を継がぬものに王女が降嫁するわけにはいかないため、アーサーの一二歳の誕生日に、ちょうどいいとばかりに次期公爵に指名されてしまったのだ。
そんなアーサーにセリアン様が恨みを持たないはずがなかった。追い出された前公爵夫人やその実家までが介入し、アーサーを殺そうと毒を盛り、それをミリアリナ様が口にしてしまったのだ。
一命を取り留めたものの、療養を余儀なくされたミリアリナ様はアーサーと領地へ移ることになり、そして……二人を乗せた馬車はその途中の崖下の川へ落ちて、遺体は見つからなかった。
それが十年前のことだ。
私は泣いて、泣いて、イザベラにアーサーを会わせてしまったことを後悔した。どうしてもっと早く婚約してしまわなかったのだろうと。婚約していればいくら王族でも解消はできないのだから。
「お父様ね?」
そっとアーサーから身を離して、見上げると、アーサーは小さく頷いた。
笑おうとした顔が歪んで、涙が溢れて止まらなくなる。
「生きてた。……良かった……」
ずっと後悔していた。私へのイザベラの歪んだ気持ちが、アーサーたちの運命を捻じ曲げてしまったことを。
「ごめんなさいアーサー。私ずっとあなたに……」
謝りたかった、という言葉を言わせないかのように、アーサーの言葉が遮る。
「アリシア様の能力は知ってる?」
「人に触れると未来が見える……」
「そう。毒を受けた母をアリシア様が見舞ってくださって、その時に見えたんだそうだ。僕たちが川に落ちて死ぬところが」
あの時の絶望を思い出して思わず息を飲む。
「それでフェルレイン様が母に選ぶように告げた。あの世界で遠くに逃げるか、別の世界に行くか」
まるっきり今日の私のようだ。いいえ、私以上に切羽詰まっていただろう。自分の命だけじゃなくて、息子のアーサーの命もかかっていたのだから。
「ミリアリナ様は別の世界を選んだのね」
「うん。──僕とフェリアーナを引き離してしまうことを何度も謝られたけど……あの世界で僕の望む未来は得られないとわかっていたから」
「アーサーの望む未来って……?」
アーサーは淡く微笑んで、私の手をとると部屋から出た。
「ここは階段になってるから気をつけて」
支えられるまま小さな階段を降りて目の前にあった扉を開くと、明るい通路に出る。
窓の外には闇が広がっているのに、まるで昼間のようだ。
「いまは、夜、よね。これは……光の魔法?」
びっくりする私にアーサーがくすくすと笑う。
「びっくりするよね。僕も最初の頃は驚くことばかりだった。これは電気って言って……魔法は使われてない。この世界には魔法はないんだよ、フェリアーナ」
「魔法が、ない?」
思いもよらない言葉に後ろを振り返ると、そこに出て来たはずの扉はなく、壁があるばかりだった。
「……これは、魔法、よね?」
幻惑の魔法かと思ったけれど、触れた指先には壁の感触しかない。
「この屋敷の敷地内だけ魔法で保護されてる。いつか来るかもしれない──君のためにね」
「私の……?」
明るい廊下をどんどん歩いて、中ほど左手の大きな階段を降りると、玄関ホールらしき空間に出る。
「アーサー。ミリアリナ様は? お元気なの?」
「元気だよ。今は再婚して、妹と弟もいるんだよ」
笑顔でそう告げるアーサーの表情はどこまでも優しくて、嬉しそうで、幸せなのだということが伝わってきて、ホッとする。良かった。
「お幸せなのね。嬉しい。お会いしたいわ」
「連絡したら飛んでくると思うよ。すごく会いたがってたから」
「アーサーはここに住んでいるの?」
「ここは君の家だよ。フェリアーナ」
「……え……? 私、の?」
「そう。ここはフェルレイン様が準備したフェリアーナの家だ」
大公家よりは小さいけれど、一人で住むには大きすぎる豪奢な家のようだ。お父様は一体いつから準備をしていたんだろう。
「あとでフェリアーナの部屋に案内するよ」
今目の前にアーサーがいることが信じられない。無意識にじぃっとアーサーを見つめていると、彼がどうしたの?と首を傾げる。
「アーサーが、あなたがここにいることがまだ信じられなくて……。私の都合のいい夢なんじゃないかって」
少し、怖くなった。
「夢じゃないよ。僕も同じ気持ちだけど」
夢じゃないのだと知らせるように、アーサーは少しだけ繋いだままだった手に力をこめた。
「そう、よね。想像よりアーサーはずっと素敵な紳士になっていたわ!」
その私の言葉にアーサーは耳まで赤く染めて、あ、とかう、とか呟いたあと、うん、と頷いた。
「ありがとう。──フェリアーナは僕の想像よりずっと、ずっと綺麗なレディになっていたよ」
言われるほうが衝撃がすごいのだと身をもって知った。そんな私をよそに、アーサーはホールの一際大きな扉を開けるとそこは外だった。
元の世界よりも空気が暖かで、大きな月が辺りを明るく照らしている。
そして。
「綺麗……。なんて綺麗なの」
淡い紅の小さな花弁が風に吹かれて舞い踊る。
玄関を出て門に向かう途中の前庭に、大きな木が月に照らされて美しい花を咲かせていた。これはあの扉に彫られていた樹だ。
「まるで花が光ってるみたい。これは何という花なの?」
「……驚いたな。本当に光ってる。フェリアーナが来たことを喜んでるみたいだ。──これは桜というんだよ。でも普通の桜はこんなふうに光らない」
「そうなの? よくわからないけれど……こんなに美しい花が、私を歓迎してくれているなら嬉しいわ」
そっと木に近づいて、その太い幹に触れる。温かいそれはお父様の魔法の痕跡があった。こちらへ来たときの力に反応したのかもしれない。そういえば扉を開ける時の呪文で、お父様がたしかに〝サクラ‘’と言っていたのを思い出す。
「この木を媒介にして、世界を繋いでいるのね」
「フェルレイン様は昔、魔力の暴走でここに飛ばされて来たんだって」
突然のびっくりな情報に、木に触れたままアーサーに振り返る。
「お父様が?」
アーサーはうん、と頷いて静かにサクラを見上げた。
「それを見つけて助けたのがいまの義父だよ」
その表情だけでもアーサーにとってお義父さまがとても良い人で、とても良い関係なのだということがわかる。
「じゃあ、御礼を言いたいわ」
「義父も会いたがってたから喜ぶよ」
「私に……?」
「僕たちからもフェルレイン様からもフェリアーナの話を聞いていたからね。呼んだらあの二人、揃ってすぐ来るだろうから、知らせるのはもう少しあとにしよう」
「どうして?」
首を傾げた私に、アーサーは少しだけ気まずそうな顔で俯いた。
「だって、ずっと、ずっとフェリアーナに会いたかったんだ。少しくらい独り占めしたいな、って」
「アーサー……」
「ごめん。嬉しすぎて何言ってるんだろう」
嬉しい。
嬉しい。どうしよう。
顔を背けつつ曲げた腕で顔を隠そうとするアーサーに駆け寄って、抱きついた。
「フェリ、フェリアーナ?」
「アーサーの馬鹿。私だってずっと、ずっと会いたかった」
あの世界の、アーサー以外との未来なんてどれも欲しくなかった。
あのとき、絶望的な未来ばかり見せられて、これはきっとアーサーがいないからろくな未来がないのかもしれない、なんて少しだけ思った。
こんな嬉しい未来が待ってるなんて考えもしなかったから。
お父様に、どうして早く教えてくれなかったの、って恨み言を言ってしまいたい気分になるけど、あの世界で、できれば自分たちのそばで幸せになって欲しいと願っていた家族の想いも知っている。
それにこっちにアーサーがいるって聞いたら私、すぐに行きたい!って言ってた自信があるし……。それをお父様もわかっていたから言わなかったんだろう。逆の立場なら私も内緒にしてしまう──かもしれない。行ってしまうことを変えられないなら少しでも長く一緒にいたいだろうから。
「アーサー、聞きたいことも、聞いて欲しいこともたくさんあるわ。でもしばらくはこの花を見ていたいの。──あなたと二人で。……だめ?」
「だめなわけがない」
蕩けるような笑みを向けられて、胸が苦しくなって、アーサーから身を翻すと、もう一度花を見上げる。
サクラの光が少しずつ淡くなっていく。光が消えるまでにどきどきがおさまるといいな、とそっと繋がれたアーサーの手に、だめかも……と思う。
それでも、手を離そうとは思わなかった。この温もりこそが、私の望んでいた未来だったから。
この世界で初めてアーサーが私の手に触れたとき見えたものは……私だけの宝物だ。
Fin.
* * *
──フェリアーナの去ったあとの部屋で──
「……行ってしまったな」
二人ともフェリアーナの未来は知っていた。ここではない、別な世界に行ってしまう。仕方のないことだとしても、少しでも先であればと願っていた。
「それで父上、どうするんです?」
フェリアーナが聞いたことがないであろうアルトーレスの氷のように冷ややかな声に、フェルレインはニヤリと笑ってみせた。
「別に何もしないとも。しかし第二皇子はフェリアーナがいなければイザベラを望むだろう。彼女は二番手であることを少しばかり嫌がるかもしれないが、そこはうまくわたしが後押ししよう」
フェルレインのこの黒い企み顔をフェリは知らないだろうなとアルトーレスは思いながら肩をすくめて見せる。
「あの我儘王女はフェリと違って我慢なんかしませんよ。十三人も愛妾がいたらその場で帰って来るでしょう」
アルトーレスの言葉にフェルレインはわかっているとばかりに笑った。
「なに、その時は麗しの騎士様と結婚すれば良いんだよ。……こっそり愛を育んでいた幼馴染が聖女だなんて──誰も知らないんだからね」
悪魔がいたならこんな姿をしてるんだろう、とアルトーレスは思ったが、自分もまたそうかもしれないと笑った。魔力が漏れて部屋の温度が一気に下がる。
王家に、そしてとりわけあの王女には常々我が家全員がどうにかしてやりたいと思っていた。王女でなければとうにこの世から消し去っていただろう。王妃に洗脳されていたのだとしても、あの本性は矯正しようもなく性悪だ。
ようやくその機会がやってきたのだ。
「一応聞きますが、あれはあなたの姪ですが、いいんですか」
「あれはただの哀れな害虫だよ。兄上には気の毒だが仕方ない。我々の宝を二度までも害そうとしたのだからね」
お前は? と冷徹な瞳が問いかけてくる。
「そうですね。仕方ありません。母上のときはフェリの証言しかありませんでしたが、今回は違う。既にフェリに暗部を動かしたようですよ」
「大人しく自分の幸せだけを追えばいいものを……」
「仕方ありません。イザベラはどうあってもフェリに勝てないことを知っているんですよ。だから貶めようとする。どんな手を使っても」
「それが自分の命を縮めるとも知らずにな」
二人でニヤリと笑いあい、張っていた結界を解く。そうして、互いに貴族らしい穏やかな笑みを浮かべた。
「それじゃあ行こうか、アルトーレス。宴の始まりだ」
「──はい。父上」
フェルレインの後をアルトーレスが追う。誰もいなくなった部屋の扉が、静かに閉じたのだった。




