8
ネイザーラントの成人年齢は一八歳である。
聖歴一五八六年の九月上旬の初秋らしい一日、リーセロットは成人を迎えた。彼女は、正式にオラニェ公爵位を襲爵し、父の務めた低地諸州同盟総督の地位を引き継ぐのである。兄がいるのにと、母子の間ですったもんだ挙句にではあったらしいが。
低地諸州同盟の首都デンヘイグ市は、高海に面する低い丘の上に築かれた中世の面影を残す都市である。市街地には、バロック調の古めかしい建築物が多かった。
その中心部ビンネンホフ街にある全国議会議事堂での就任式は、他国であれば女王の即位式に相当する行事で盛大になるはずだが、建前上君主のいないネイザーラントでは、全国議会から承認を得て、宣誓するだけの簡素なものだった。当初、採決があった。
「全国議会は、全会一致でオラニェ公爵リーセロット・ファン・ナッサウさまを、第二代総督に選出いたします」
議長オルデンバンネンフェルト公爵の発表は、拍手をもって迎えられた。現在のネイザーラントには、公爵位を有するのはオラニェ家とオルデンバンネンフェルト家しかない。両家は、ネイザーラントにおける筆頭貴族の双璧といえた。
「わたくし、オラニェ公爵リーセロット・ファン・ナッサウは、ここに神の御名において低地諸州同盟総督の職務を果たすことをお誓いします」
宣誓が終わり、万雷の拍手のなか、第二代低地諸州同盟総督は、演壇から降りた。傍聴席から見守るダイゴには、彼女の動きにぎこちなさが感じられた。そして、この議員のなかで果たして幾人が本気で拍手しているのか、ということを疑問に思った。
年齢的には少女の域を脱するかどうかというところだが、就任に備えてライテン大学から政治、経済、法律、哲学、神学、語学、地理といった各部門の教授が進講にきていた。政治についても、彼女は学問の範囲を超えて色々と教えられている。議員のなかには、血筋だけが取り柄の操り易い小娘と考えて、それが理由で賛成票を投じた者も多数いるはずである。
「銀髪の小娘」
就任以前から、そういう陰口が議員たちの間で囁かれており、それはリーセロットの耳にも漏れ伝わっているであろう。
全国議会の議員は、各州から送り込まれており、出身州の、あるいは貴族なら貴族の、地主なら地主の、豪商なら業界の利益を代弁する立場にいる。思惑は、ばらばらであって当然である。目下、国政上の最優先課題であるはずの対イスハニア戦争にしても温度差があって、積極的な州と、本音ではそうでない州がある。
これからのリーセロットは、そうした国内のさまざまな利害を調整し、国論を束ねなければならないはずである。行政面で国務・財政・枢密評議会とその下の書記局の補佐は得られるにせよ、もはや深窓の令嬢ではいられない立場に、彼女はいるのだろう。
◇◇
選出決議のあった週の土曜日の夜、リーセロットの就任を祝う舞踏会が催された。乾杯に続くダンスの場で、華やかに装ったリーセロットの相手をしようと、多くの名門貴族の子弟が順番を待った。彼らが父兄から言い含められていることは、リーセロットにもわかっている。自分の息子や弟を、独身で一八歳の女性総督の婿に売り込んで同盟の政治的実権を握りたいのだと思われた。
最初から貴族層の支持を失うことは、政治的に利口ではない。その計算によって、今日の衣装はリーセロットの母がフランク出身の仕立人に発注して、特に念を入れてあつらえておいた。髪飾り、耳飾り、首飾り、腕輪、指輪そして靴も、極上の品々が用意された。誰よりも美しく装った娘も母の意図を承知の上で、数歳年長の全国議会議長の孫を手始めに、どの若殿が相手でも愛想よく手を取り、音楽に合わせて軽やかにステップを踏み、会場を舞う。
リーセロットは、貴族の娘としてのたしなみを完璧に身に付けており、踊るその姿は、誰からも目を引く華麗なものであった。会場にいる他の貴族令嬢たちから、やっかみや羨望を買うには十分なほどに。
家を継ぐべき兄がイスハニアの人質になってさえいなければ、彼女には近隣諸国の王子や領主、大貴族たちから求婚が殺到していることであろう。
休憩時間になっても、リーセロットの周囲には何とか自分を印象付けようとする若い貴族たちが集まっていた。本当なら腰を下ろして休みたいところ、多人数を相手に、愛らしさと淑女らしさを崩さず応対をするのは、彼女にとっても決して楽なことではなかった。
◇◇
踊ることのできないアウグストは、帯同した補佐官を誘って、バルコニーに出た。夜の空気が、顔を洗うようだった。
「野獣どもが、群れを成している」
政治家や貴族とは、アウグストはどうやら波長が合わないらしい。補佐官――ダイゴ・ノダは、
「そのようですね。リーセロットさま、いえ公爵もお疲れでしょうに」
と相槌を打つ。そこには、男の嫉妬が微妙に混ざっている。
「あの連中、虫が好かぬ。貴族どもめ、兄のフェルペは戻らないと思っているのだろう。やつら、自分の身内をリーセの婿にして、同盟の実権を握ることしか考えておらん」
アウグストの吐き捨てた邪推は、恐らく間違っていない。実際、現在のリーセロットの立場は、狼の眼前にぶら下げられた肉の塊に等しいのだろう。
自分の子弟とリーセロットが結婚すれば、政治に疎い小娘一人どうにでも操れる。そうすれば、自分の一族は総督の縁故者として権力を恣にできる。
同盟の有力者ならそう考えて、目の色を変えてもおかしくないのかも知れない。
「こんなことでは、先が思いやられる」
軍部の代表者らしく、アウグストは、イスハニアとの戦争への懸念で頭のなかがいっぱいのようである。同盟総督の義父や義兄の立場を夢見る有力者のなかの何人が、この先の同盟の命運と、その時にリーセロットの両肩にかかる責任の重さを予期しているというのか。ダイゴですら、その心配はあるのに。
――これでは漏れには、やはり高嶺の花だ……
長官補佐官という過分な地位に就いた。リーセロットの知己も得ている。だが、具体的に今、補佐官としてなにをすべきかがわからなかった。