20
リーセロットは、五七歳まで生きた。当時としては長命である。
デンヘイグの大聖堂で執り行われた国葬には、アルテュールも参列し、故人を偲んだ。
彼は、共和国初代総督であった従妹の人生を振り返っていた。
リーセロットは、その人生において三回結婚した。最初の夫はブリタリア女王の甥で、二番目と三番目の夫はネイザーラントの名門貴族の子弟であった。二人の夫を病で失い、最後の夫に看取られて生涯を閉じた。
彼女は一人目の夫との間には三人、次の夫との間には四人、最後の夫との間には一人の、男女合計八人の子を設けている。改めてオラニェ公爵位を継いだ兄に嫡子が生まれなかったので、リーセロットの産んだ子が、兄の養子となって家を継いだ。
跡取りとなった長子以外の子も、議員、軍人、法律家、学者などとしてネイザーラントの歴史に名を刻んだ。女児は皆、内外の名家に嫁いだ。
◇◇
ネイザーラントは、その後も苦難の道を歩む。休戦条約の効力が切れると同時に、イスハニアとの戦争は再開された。立ちはだかったのは、ベニート・スピノラである。一方、ネイザーラント軍を率いたのは、主将ハンス・ミューレンと副将である総督の従兄、若き将軍アルテュール・フォン・ナッソーだった。
ネイザーラント軍の指針となったのは、かつてダイゴ・ノダが残した『歩兵、砲兵、騎兵及び工兵の運用について』という著作だった。
一進一退の攻防戦が、長く続いた。独立戦争の過程で神聖帝国の皇帝選挙に端を発する継承戦争、後にいう「帝国戦争」にも巻き込まれた。
最終的にネイザーラントの独立がイスハニアを含む列国から承認されたのは、一六四八年のことであった。三〇年間続いた帝国戦争の講和条約の一条文に、ネイザーラントの独立が明記されたのである。実に七〇年に及ぶ独立戦争だった。このため、後世「七〇年戦争」と呼ばれた。
独立以後、一七〇〇年代にかけて、ネイザーラントは産業、特に海運業と造船業の興隆と海外における植民地の獲得で、後世「黄金期」と呼ばれる繁栄の時代を迎える。ネイザーラントの代表的港湾都市、アムスターダムは、世界の貿易の中心的地位に躍り出た。歴史家のなかには、この時代のネイザーラントを、世界的な覇権国家と位置付ける者もいる。単に商工業が栄えただけでなく、自由な国風は多くの文化人を呼び寄せ、音楽、絵画、文学、彫刻、学問も花開いた。
だが、一七八九年に隣国フランクで勃発した王制を打倒する革命により、ネイザーラントもその渦中に巻き込まれた。
近隣諸国からの干渉戦争を通じて、逆にフランクの勢力圏を拡大した革命の梟雄ボナパートによって、ネイザーラントはフランクに併合され、独立を失う。
しかし、ボナパートの没落に従い独立を回復すると、国名をホーラントに変更し、王制に移行した。王位に就いたのはオラニェ公爵――リーセロットから数えて七代目の子孫である。以後、歴史は重なり、時代は聖歴一九〇〇年代を迎える。




