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その朝、何時ものとおりに目を覚ましたリーセロットは侍女に手伝わせて湯あみを済ませ、朝食をとると、その後公爵としての正装をまとった。オラニェ家のシンボルカラーであるオレンジを基調とする衣装だった。
「いって参ります、母上」
と大広間で母親に出立の挨拶をおこなった。総督公邸の玄関では、既に馬車が待っている。彼女が乗り込むと、馬が嘶き、馬車はゆっくりと進みだした。その前後を、騎乗した夜警隊の警吏が護衛した。
馬車の車窓から首都の市街を眺めながら、大広間の壁にかけられていた父ヴィレムの肖像画の前で立ち止まったことを、リーセロットは思い出していた。
――父上、わたくしには荷が重過ぎる仕事ですわ。でも、これはわたくしにしか、できないことなのですね。
天上の父に向って語り掛けた。答えはどこからもない。それは、運命のいたずらによって、彼女に課せられた使命だった。父が亡くなった時にイスハニアに抱いた感情、それだけではこなせない大仕事が、これから待っているのである。
定刻、馬車は首都デンヘイグのほぼ中心に位置する全国議会議事堂に到着した。二本の塔に挟まれた三角形の屋根を有する煉瓦建ての議事堂の前では、各評議会議長、各書記局長官、軍事内局長官、そして軍監が整列して待機していた。
リーセロットは、朝の挨拶ののち、彼らを引き連れて、会議場へ向かう幅の広い階段を登っていった。
黒檀製の巨大な扉が開かれると、そこは全国議会の議員約200名が着席して待つ大会議場であった。リーセロットは総督の席に、各書記局長官たちは、定められた席に座った。
全国議会議長が、開会を宣言する。
「低地諸州同盟総督、オラニェ公爵リーセロット・ファン・ナッサウさま」
その名が呼ばれると、リーセロットは演説台に登壇し、懐から演説原稿を取り出した。
「尊敬すべき、全国議会の議員諸侯。わたくしは、本日、皆さまに大きなご報告をする光栄を得ます」
原稿から目を上げ、議場に視線を向けた。
「思えば、長い歳月でした。神聖帝国の一部として出発した我がネイザーラントは、その民の勤勉なる働きをもって、豊かな実りと富を、この地にもたらせました。天上の神のご加護は遍く大地を覆い、海は富と豊富な海産物を約束してくれました。
そのわたくしたちの捨てがたい郷里を、長年にわたり、その馬蹄によって踏みにじり、圧政を続け、富を搾取し、民を屠り、自らの信仰を強要し続けてきたのが、イスハニア王国です。わたくしの父、ヴィレム・ファン・ナッサウも、その人生を賭けてイスハニアと戦い、そして凶弾に倒れました。
永久に続くかと思われたイスハニア王国による桎梏は、しかし、終わる時が来ようとしています。父ヴィレムも幾度か破れ、恨みの涙を呑まされた強大なイスハニア軍。しかし、二〇日前のトゥルンハウトの野にて、その武威は地に堕ちました。ここに報告いたします。我が軍は、トゥルンハウトの会戦において、圧倒的勝利を獲得しました!」
既に勝報は国内に伝わっていたが、これは公式の場における勝利宣言であった。これを聞いた議員たちは総立ちになり、登壇者に向かって万雷の拍手を送った。それは、一分あまり続いた。拍手が収まるのを待って、リーセロットは演説を再開した。
「全国議会議員の皆さま、自由な信仰と、豊かな生活は、自ら守らなければなりません。そのために進むべき道は、ただ一つです。わたくしたちのゆく手には、まだまだ数多い困難が待ち受けているでしょう。イスハニア王国は、未だ強大です。味方となってくれる国も、多いとは言えません。しかし、後戻りはできないのです。そのための覚悟を、今、わたくしは皆さま方と共有できることを確信しております」
ここで、リーセロットは演説原稿から再び視線を上げた。
「わたくしは今ここに、低地諸州同盟をもってネイザーラント連邦共和国に政体を変更し、独立国家であることを宣言いたします! 御恵深き神のご加護が、我が国の前途にあらんことを。聖歴一五八八年五月五日、オラニェ公爵リーセロット・ファン・ナッサウ」
大会議場は再び総立ちになった。
「ネイザーラントばんざい!」
「オラニェ公ばんざい!」
「共和国ばんざい!」
それは、熱狂の坩堝と言ってよい状態である。
◇◇
この宣言を総督リーセロットが読み上げるに当たって、評議会、全国議会、軍部、貴族層、財界などに対する周到な政治工作があったことは、表に出ていない。案を立て、各界に根回し(袖の下を含む)をおこなったのは、老巧にして堅実と評される国務評議会議長兼第一書記局長官レーリンク侯爵である。前提の第一は、野戦でネイザーラント軍がイスハニア軍を撃破することであった。それが実現しなければ、工作は水泡に帰す。当然ながら、リーセロットの政治的地位も脅かされる。実に際どい工作であり、賭けであった。
途切れることのない拍手を聞きながら、演説原稿を書いたレーリンク侯は、「さて、この熱狂も何時まで続くか」と、皮肉を込めた心配をしていた。戦場の勝利で得た独立である。次、あるいはその次の敗北によって失われる可能性はおおいにある。その時、全国議会がどのような態度を取るか、知れたものではない。全国議会議長など、平気で掌を返しそうである。
リーセロットが降壇すると、代わってレーリンク候が登壇し、連邦共和国の憲章と国旗の制定を提議して、その制定作業に入ることに全会一致で賛同を得た。その日の議会は、これをもって閉会となった。
◇◇
一人で貴賓室に下がったリーセロットは、へなへなと気が抜けたようになってソファに腰を下ろした。公爵家を相続したとはいえ、彼女はまだ二十歳のうら若き乙女なのである。議場での彼女は、半分は演技だった。政治には演技も必要だということは、襲爵に備えた教育の一部として、ライテン大学から派遣された教授に教えられていた。だが、耳で聞くのと実際に演じるのでは天と地の差があった。同行してきた侍女を呼び、ワインを一杯所望し、改めてそれを実感するのであった。
侍女の手で置かれたグラスのなかの白ワインを眺めながら、今さらながらに肩の重みを感じたが、それを振り払うように首を振って、ワインを飲み干した。いつまでも、「銀髪の小娘」とは言わせない。そう決意した。
――父上、見ていて下さいまし。わたくしは、父上の娘だということを、証明してご覧に入れます。




