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聖歴一五八四年夏。
古くからある僧院を改装した邸宅は、低地諸州同盟総督一家とその使用人たちの住まいとしてはいささか大き過ぎた。利用されている部屋は、全体の三分の一にもならない。
はぜるような乾いた音が数回、窓の外から聞こえてきた。リーセロットが、両親との昼食を終えて、自室に戻って直ぐのことだった。何か起きたのではないかという予感が、彼女の胸に湧き上がる。
「旦那さま!」
悲鳴にも似た叫びがリーセロットの耳に届いた。聞きなじみのある使用人の声だった。椅子から立ち上がったリーセロットは、部屋を出て声のした方向、中庭に向かい、ソプラヴェステの膝に当たる部分を持ち上げて走った。階段を駆け下り、中庭に至ると、母親と使用人たちが固まっている情景が目に入った。
「あの者を追って! それから医者、医者を!」
「はい、直ちに」
狼狽した母の声と、それに対する使用人の一人の答えが耳に飛び込んだ。
父ヴィレムが、中庭の上に倒れていることがわかった。
「父上!」
リーセロットは反射的に父の体に駆け寄り、片手を握った。腹部から流れ出た鮮血が、服を染めていた。
「何があったのです、母上」
状況がまだ飲み込めていないリーセロットは、母親に尋ねた。
「父上が、父上が銃で撃たれたのです」
そう言って、母も仰向けに倒れている夫に顔を寄せ、語りかけた。
「あなた、しっかりなさいませ」
リーセロットも、母の隣で、必死に呼びかけた。
「父上、父上!」
ヴィレムは、まだ息はあった。だが、命の危険にさらされていることは明らかだった。
「う、むう……」
僅かに目を開き、そして呻き声を漏らした。言葉を発したいようだった。
「何をおっしゃりたいのですか、あなた」
母は、夫の口元に耳を寄せた。
青ざめたリーセロットは、母の隣でなす術もなく見守っていた。
「神よ、不憫な私に憐みを。……神よ、どうかこの民に憐みを」
虫の息で残したヴィレムの臨終の言葉は、このようなものだったと、オラニェ家では伝えられている。
大陸西岸にある低地九州で構成された低地諸州同盟の指導者、オラニェ公爵ヴィレム・ファン・ナッサウは、暗殺者の放った銃弾により、歴史上、一国の指導者が銃器で暗殺される最初の例となった。享年五一。
◇◇
名称とは異なり、昼夜を問わず同盟首都の治安維持や犯罪捜査、消防に従事する夜警隊の捜査は、難航している。ヴィレムを射殺したのは、数カ月前にオラニェ公爵家に雇われた馬丁だった。至近距離から、服の下に隠し持った短銃で主人の背中を撃ったのである。事件の一報を受け取った夜警隊は直ちに首都全域に非常線を敷いたが、逃亡した犯人が引っかかることはなかった。
ヴィレムの死の翌日に訪れた夜警隊本部長は、悲しみにくれる未亡人と娘の前で報告した。
「暗殺者の正体は、イスハニアの放った刺客である可能性が濃厚です。事前に、逃亡する手立てを整えていたに違いありません」
今を遡ること四年前、イスハニア国王フェルペ二世は、君主に手向かう低地諸州同盟の総督、オラニェ公ヴィレムに対して、法益剥奪宣告を発していた。事実上の抹殺宣言である。これに対して、翌年ヴィレムはフェルペ二世に対する国王廃位を布告した。今後、フェルペ二世を低地の国王とは認めないと応酬したのである。
それ以来膠着状態が続いていたが、その均衡がついに破られた。
本部長が辞去すると、代わりに亡夫の異母弟が悔みに訪れた。
「こんなことが、いつかは訪れるのではないかと思っておりました」
未亡人となった母親は、義理の弟に対して言葉少なに語った。
「母上……」
リーセロットはそれを聞いて、母の傍らでその手を握り、悲しみと同時に、父を奪ったイスハニアに対する言いようのない憎しみを抑えていた。