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ブリタリア陸軍敗北。
リーセロットの総督就任から二ケ月後。凶報が、南部の前線から首都にもたらされた。ネイザーラントとしては「できれば勝って欲しい」程度の期待だったとはいえ、裏切られた結果には、やはり落胆せざるを得ない。
かつて「イスハニア軍の逆上」が起こったノルトブラバンド州の州都アンベルス市、その南側でイスハニア軍と対峙したブリタリア軍一万は、数で劣るイスハニア軍に対して横隊で布陣したが、イスハニア軍に中央を突破・分断され、蹴散らされて敗退した。司令官ロレスター伯は早々に退却を決心し、アンベルス市に残兵を下がらせたが、敗残のブリタリア軍は市内で略奪や暴行を始める始末であった。
アンベルスは港湾都市であり、内陸にあるにも関わらず、大河で大洋とつながっている。貿易は市の中心産業であり、港に接して多くの倉庫が立って、織物から鰊の塩漬けまで、あらゆる商品を蓄えている。傷ついたブリタリア兵は、いきがけの駄賃とばかり、次々と倉庫を破って、なかの財貨を担ぎ出し、あらかた奪うと火を付けた。略奪は倉庫街に留まらず、商業地区や住宅地区に及んだ。止めようとしたり、抵抗したりした市民は、容赦なく斬り殺された。アンベルス市民には、「逆上」の記憶が依然として残っており、ブリタリア軍の振る舞いは、それを呼び起こさせた。そして、ブリタリア軍を追撃してイスハニア軍が北上して来るという情報がもたらされると、市は誰も治められぬ恐慌状態に陥った。
馬車や船の所有者はそれらに乗り、そうでない者は背負えるだけの身の回りの品々を担ぎ徒歩で、市民は我先にアンベルスを逃げ出した。東へ向かう街道上に、長く避難民の列ができた。その数は五万人近いという。
「市は大混乱に陥り、住民の多くが市外に脱出した模様です」
首都の同盟政府は、続々と情報が入ってくる。
「避難民の数を掌握して、街道上の町々に、避難民の受け入れの割り当てを」
「避難民のための食糧の確保と運搬の準備を」
「国庫から非常予算の措置を」
「イスハニア軍の今後の動向について情報収集を」
「ブリタリア大使に、アンベルス市の状況を報せて、抗議を」
国務・財政・枢密評議会及び軍事内局を通じて上げられる報告と処置案を決裁するのに、リーセロットは忙殺された。一方で南部の州の議員の陳情にも、対応しなければならなかった。彼らは、早急に軍を差し向けて、イスハニア軍の侵攻を阻止することを要求した。もっともロレスター伯率いるブリタリア軍残存兵力がアンベルス市を去り、入れ替わりにイスハニア軍が市を占領すると、そこで前進は止まり、軍の派遣は取り止めになったが。
それは幸いであった。現在の全国議会は軍事予算をけちり気味であり、傭兵の募集にも悪影響を及ぼしている。ゲルマーニャでも、フランクでも、高地地方でも、傭兵希望者は、大国で給料の高いイスハニアの募集に傾きがちであって(イスハニアとフランクは敵対関係にあったが、食い詰めて傭兵を志願する者にとっては、どうでもいい問題だった)、正面からイスハニア軍と戦うには、心細い状況にあった。
さらに悪い報せがもたらされた。
「各州で不安が広がり、同盟からの離脱を検討している州がある」
というものだった。
――これでは、わたくしは、まるで操り人形だわ……
一日の仕事を終える度に、リーセロットは、自分が書記官の持参する書類に目を通し、決済欄に署名するだけの存在ではないかと感じていた。総督とは、同盟の行政権の頂点に立ち、全国議会を相手に国政を論じ、また軍を統帥する立場のはずだが、現在の自分は、下が振りつける曲に合わせて踊っているに過ぎないような気がしていた。年齢と経験の不足から、それも仕方のないことだとわかっている。国政に関する報告に訪れた事実上の宰相であるレーリンク侯に相談しても、
「今は、経験を積まれることが肝要です。時間が経てば、見えてくるものもございます」
という返答だった。しかし、実際に国に危機が到来している局面で、それしかできない自分が、ひたすら歯がゆかった。
――同盟が危機にあるというのに、何の方向性も示せていない。
という焦りが、リーセロットの心のなかにわだかまっていた。
◇◇
そのような焦りは、リーセロットの独占物であったわけではない。ブリタリア陸軍の敗退という重大局面において、ほとんど状況への対症療法しか打つ手がない書記局長官たちも、焦燥は深刻だった。自国の陸軍は、傭兵集めに苦労している。唯一の同盟国ブリタリアは、大陸から撤兵するであろうし、近くイスハニアとの海上決戦を迎えるかも知れない。その勝敗によっては、いよいよ単独で強大なイスハニアと、勝ち目の乏しい戦いに臨まなくてはならないのである。
書記局長官会議でも、
「ブリタリア・イスハニアの海上決戦の結果によって、今後の対応を見定める」
といった消極的かつ曖昧な方針しか決定できなかった。
ネイザーラントは、そしてリーセロットは追い詰められていた。




