プロローグ 聖歴一五八八年春・トゥルンハウトにて
「戦争は推測の世界であり、条件の四分の三までは不確実である。知力をもって真相を見通すとともに、勇気と自信をもって不確実性を征服しなければならない」(カール・フィリップ・ゴッドリーブ・フォン・クラウゼヴィッツ)
「軍監どの、イスハニア軍が前進を始めた模様です!」
前方から上り坂を、若草を踏み散らして馬を駆け寄せてきたアルテュールが報告した。
「ご苦労。どうやら、そのようだな」
ダイゴは泰然自若を装って、敢えて短く答えた。何しろ、これが初の実戦なのだ。緊張をうまく隠せただろうか。
軍監であるダイゴが率いる低地諸州同盟軍が本営を置いた丘から南の方向に、大陸最強を謳われたイスハニア軍がテルシオと騎兵部隊を幾何学的に展開させていた。望遠鏡が発明されていないこの時代にあっては、四個のテルシオが、我が方に向けて菱形を作っており、その周辺に騎兵の群れがいるところまでしか見えなかった。
遠くからは、長方形の人の集団の上に、長槍が林立しているようである。この時代の大陸西岸においては、標準的な陣形だった。敵のラッパやドラムの戦場音楽が、風に乗ってここまで届いてくる。前進を開始する合図である。敵の陣形を正面から分断・突破するのは、イスハニア軍の常套戦術である。
「数は、やはり一万程度。イスハニア軍の主力でありましょう」
ダイゴの傍らにいる情報幕僚が、自分の見立てを報告した。そんなところだろう、とダイゴも考えた。我方は、それより小兵力の八五〇〇である。
——それにしても少ないな。
とダイゴは思う。この時代、徴兵制などという仕組みは未だ存在せず、どの国の軍も傭兵が主体である。兵を増そうとすれば、大金が必要なのだった。生産に寄与しない軍隊を養うには、限度というものがあった。だが、記憶を辿れば、関ケ原の戦いでは東西両軍で一八万、大阪の陣では徳川方・豊臣方合計二九万である。
この背景には、農業の生産力の違いがある。ダイゴがいた世界での主食であるコメは収穫倍率が二〇倍、つまり籾一粒に対する収穫量は二〇粒である。しかし、この世界での主食であるパンの原料、小麦はせいぜい五倍ほどである。おまけに、コメには連作障害というものがない。同じ面積の耕地で養える人口には、一〇倍の差があった。
イスハニアが、現在このネイザーラントに駐留させている総兵力は二万弱といったところである。占領地の警備に当てている兵力を除けば、目の前にいるのは、ほぼ全力であろう。大国といえども、一つの戦場で一度に動かせる兵力はこの程度でしかない。かつてイスハニア軍は支配権維持のため、ネイザーラントに六万を超える兵力を駐留させていた時期があったが、その時には兵力の多さゆえに給料の遅配が生じて、軍の規律が崩壊したことがあった。
懐事情が厳しいのはネイザーラント側も同じで、低地諸州同盟の最高意思決定機関である全国議会は、「イスハニア軍に勝て。但し、出費は押さえろ」という無理難題を平気で要求する。ダイゴの上官である軍事内局長官アウグスト・フォン・ナッソーは、以前「我々の本当の敵は全国議会だ。イスハニア軍ではなく」と、苦悩に満ちた表情で愚痴っていた。
――決戦が始まる。
覚悟を決めて、ダイゴは下馬した。
「公爵――いえ、総督閣下」
後方にいた白馬の上の女性の前で、右ひざを地面に付けた。「お指図を」
淑女、いや外見的年齢では少女の域に留まっているかに見える同盟総督、オラニェ公爵リーセロット・ファン・ナッサウは、薄い薔薇色の唇を開いた。
「任せます。卿を信じましょう」
形式的には総督である彼女が軍の総司令官であり、軍監とは総司令官の幕僚長という意味である。だが戦場においては、軍監であるダイゴが、補佐という名目で、総指揮を執ることになっていた。
「かしこまりました」
ダイゴは、一礼して御前を辞した。そして、本営の後方で待機していた伝令の集団の前に走り、大声を発した。
「各大隊に伝えよ。予定通りの行動を取れと」
戦いの時は来た。ダイゴの命令は、直ちに伝令を通じて、前線の各部隊に届けられる。
幸いにして、好天である。数年かけて鍛え上げてきた火縄銃兵の火力を発揮させるには、申し分のない条件だった。負けるはずがない。一抹の不安は覚えつつも、自ら確信を持とうと努めた。
低地諸州同盟は今まさに、イスハニア王国に決戦を挑もうとしていた。